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2019年10月01日

自分には「愛情」ってものが微塵もないな

愛って何でしょう。
優しさとは違うんでしょうか。


ほんのひととき優しい人として振る舞うことなら
私にもできそうですが、本当の愛ってのはどうも
「自分の身を削ってでも誰かを守りたい」という気持ちのようですね。


だとすると私には愛情ってものがありません。
自分の身を犠牲にしてでも誰かを守りたいと思えない。

それが大切な人であれ、どこかの知らない人であれ、生き物であれ
自分を犠牲にしてでも守るなんて無理だなと思ってしまいます。
誰も愛せません。


自己犠牲的精神以外にもっと、誰一人不幸にならずとも
「全員が救われる」方法ってないんでしょうか。


なんて言うと正論ぶっていますが
本当は我が身がかわいいだけです。

中途半端に優しい人を演じることはできても
本当に愛ある人の言葉を聞く度
「ああ、自分は違うな……」と思います。


誰かのために差し出すことなんてできません。
お金も命も。
誰かのために痛い思い・苦しい思いをすることはありません。

「自分さえ良ければいい」ということですね。
自分だけが大切っておかしいんでしょうか。


もし愛が「自己犠牲」じゃなく
「できる範囲で優しくすること」なら
自分にも少しは愛があると思うんですけどね……。

余裕があるときに、負担にならない金額の募金をしました。
誰かの心を軽くしたくて、
時間をかけて考えてコメントや投稿をするようになりました。
もっと優しい言葉を使いたいと思うようになりました。


でもそれじゃ足りませんかねー……。

いざというときすべての物を差し出せることを、
真実の愛と呼ぶんですかね。


でも、すべてじゃないにしても差し出すことって無理そうです……。

アイスやチョコレートを買うのを我慢して毎日募金するとか、
ボランティアするとかでさえ無理です。

時間やお金があったら全部自分で使って遊びたくなります。
薄情ですかね。

こんなんじゃ、私が困る事態になったとき、
誰も手を差し伸べてくれないでしょうね。


でも、変にカッコつけずこの本心に気づいて
良かったことが一つあります。

自分を犠牲にしたくない、何も背負いたくない、
縛られたくないという本心に気づいたから
逆に誰かを犠牲にしなくて済んだかもしれません。


もしも、愛もないのに中途半端に愛するフリをしていたら。

子どもを生んで育てようとして、途中で嫌になって逃げたかも。
犬や猫を育てようとして、面倒になって捨てたかも。
誰かに恋をした気になって散々振り回した挙げ句、逃げたかも。
全財産を誰かに渡して、借金をしてまわりに迷惑をかけたかも。

そのたぐいの人間だと思います。
起こらなかったことは起こっていないんだから
知りようがないですけど……。


背負えないものを背負おうとして
破綻するってのも迷惑なことですよね。

だから「誰も愛せない」って今のうちに分かって良かったです。

でもそれってもしかしたら
自分のことは愛していると言えるのかもしれないけれど……。


愛する自分自身を守り抜くってことさえも、
なかなか難しいことですよね。

だって、全員が自分を強く愛して
自分だけを守り抜くことができていたなら、
誰も不幸せの連鎖に巻き込まれることなく、
すべての人が幸せになっていたはずだから。


……愛の定義って難しいですね。



posted by 四月一日 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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