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2021年02月21日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,58


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,58



私は今でもあの時の教師の言葉を胸に浮かべ、みんなと一緒にゲラゲラ笑った自分の姿を思い出すことが在るのです。

そして思い出すたびに、もう自分では笑う資格が無いことをつくづくと感じます。



なぜなら私は、どういう訳で羅馬(ローマ)の英雄が馬鹿になったか、アントニーともいわれる者が何故たわいなく妖婦の手管に巻き込まれてしまったか、その心持ちが現在と鳴ってはハッキリ頷けるばかりでなく、それに対して同情を禁じ得ないくらいですから。



よく世間では「女が男を欺(だま)す」と言います。しかし私の経験によると、これは決して最初から欺すのではありません。

最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです。



惚れた女が出来て見ると、彼女の言うことが嘘であろうと真実であろうと、男の耳にはすべて可愛い。

たまたま彼女が空涙を流しながら凭れかかってきたりすると、



「ははあ、此奴(こやつ)、この手で己を欺そうとしているな。でもお前はおかしな奴だ。可愛い奴だ、己にはちゃんとお前の腹は分ってるんだが、折角だから欺されてやるよ。まあまあたんと己をお欺し・・・・・・」



と、そんな風に男は大腹中(たいふくちゅう)に構えて、いわば子供を嬉しがらせるような気持で、わざとその手に乗ってやります。

ですから男は女に欺される積りはない。



かえって女を欺してやっているのだと、そう考えて心の中で笑っています。その証拠に私とナオミとがやはりそうでした。

「あたしの方が譲治さんより悧巧だわね」





引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

角川文庫刊




次回に続く。
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