2021年02月19日
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,56
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,56
「呆れたもんだね、すっかり僕を一杯食わせていたんだね」
「どう?あたしの方が少し悧巧でしょ」
「うん、悧巧だ、ナオミちゃんには敵(かな)わないよ」
すると彼女は得意になって、腹を抱えて笑うのでした。
読者諸君よ。ここで私が突然妙な話をし出すのを、どうか笑わないで聞いて下さい。
というのは、嘗て私は中学校にいた時分、歴史の時間にアントニーとクレオパトラの条(くだり)を教わったことがあります。
諸君も御承知の事でしょうが、あのアントニーがオクタヴィアヌスの軍勢を迎えてナイルの河上で船戦(ふないくさ)をする、と、アントニーに附いてきたクレオパトラは、味方の形勢が非と見るや、忽ち中途から船を返して逃げ出してしまう。
然るにアントニーはこの薄情な女王の船が自分を捨てて去るのを見ると、危急存亡の際であるにもかかわらず、戦争などはそっちのけにして、自分も直ぐに女のあとを追いかけて行きます。
「諸君」と、歴史の教師はその時私たちに言いました。
「このアントニーと言う男は女の尻を追っかけまわして、命を落としてしまったので、歴史の上にこの位馬鹿を曝した人間は無く、実にどうも、古今無類の物笑いの種であります。
英雄豪傑も、いやはやこうなってしまっては、・・・・・・」
その言い方がおかしかったので、学生たちは教師の顔を眺めながら、一度にどっと笑ったものです。
そして私も、笑った仲間の一人であったことは言うまでもありません。
引用書籍
谷崎潤一郎「痴人の愛」
角川文庫刊
次回に続く。
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