2016年03月11日
東日本大震災 | 震災から5年経ちました。私の当時の状況(行動)をまとめました。
1.はじめに
本日、平成28年3月11日であの忌々しい「東日本大震災」から5年が経ちます。私は直接的な被災者ではありませんが、あの体験は二度と味わいたくありません。恐らく、死ぬまで一生忘れない出来事になると思います。今回は当時の私が体験した内容について、投稿します。
2.平成23年3月11日の私(の行動)
震災の体験とはズレますが、私、震災当時は前の会社(ブラック会社)から部署廃止のよるリストラ勧告を受けて、転職活動に勤しんでいました。4月始めまでには新しい職場を見つけたいと目標を立てて、毎日のように都内の建設関連の会社の面接を受けていました。
リストラ勧告から4月まで1ヶ月しかありませんでした。時間がなかったので、いわゆる大手企業から順番に受けていました。業界の最大手は書類選考の段階でご遠慮のお返事。数をこなしたいので、履歴書もワードで作成したものを送っていました。
そんな中でも、最終面接まで行って頂けた会社は数社ありました。一つは関西の最大手の建設コンサルタント、この他の会社ですが、本業は別の事業を行い、そのツールを用いて、各種の計画・設計を行っている会社です。
関西の建設コンサルタントは内定を頂いていましたが、やはり後者の方がいろいろなことができそうで魅力を感じたので、ほぼそこの会社に転職したいと思っていた次第です。その1社が、現在、私が在籍している会社です。
最終面接は役員の方の都合で3月14日(月)でした。3月11日はその準備のために、埼玉の自宅で面接の練習を昼間から行っていました。妻が面接官です。朝から10回ぐらい行い、昼ご飯も食べていなかったので、14時を過ぎたときに昼ご飯を食べることにしました。
地震発生
14時半過ぎに飯を食べ終わり、少しテレビを観ながら休憩していました。たまたまNHKの国会中継を観ていました。トイレに行っていたときに、突然テレビから「緊急地震情報」がアノ音が流れてきました。
緊急地震速報が出てから数10秒経過したときに、埼玉(大宮)でも大きな揺れを感じました。揺れを感じた瞬間、只の地震ではないな。東海地震でも来たのか?と思いました。しかし、テレビから出てきたテロップは、「宮城北部震度7、宮城県南部6強」という情報。その後、大津波警報、津波警報が発令。妻も宮城県出身でしたので、2人で愕然としていました。
その後、津波の予想高さが発表されました。NHKの最初の情報は宮城県で予想高さ6mという予想。テレビでみた様子では仙台市内のビルに大きな損傷もなく、津波の高さも6mであれば、建物の3階や近くの高台まで上れば、大丈夫だろうと思っていました。
14時43分のデカい地震後も大きな余震が続いていました。埼玉の自宅は建物の被害はなかったものの、部屋の中は地震の揺れをモノが散乱していました。暗くなる前に片付けを済ませてしまおうと、私は掃除をしていました。15時半を過ぎて、再びNHKをみたところ、仙台〜名取のヘリからの映像が流れてきました。
これをみて、自分が観ているものが本当の映像であるか目を疑ってしまいました。「津波の高さは6mじゃない・・・」軽く10m以上はある。ヘリは仙台の南方面(閖上)方面に向かっていました。動いている車や人が黒い波に飲み込まれていく・・・。自分が知っている場所でしたので、「そこを左に曲がれ!」とテレビに向かって叫んでいました。頭は完全にパニックです。こんなパニックは、私の親父が亡くなったとき以来でした。自然と涙が出てきました。
そして、停電で電気が切れてしまい、しばらく薄暗い中で携帯ラジオを探していた記憶が残っています。次の日(12日)になり、一瞬電気が復旧しました。その数分後に14日に最終面接を受ける会社(今の会社)から家に電話がきました。偶然つながったようです。
電話の内容は、「弊社の役員は地震のため、しばらく会社に詰めることになったので、問題ありませんが、○○さんは帰宅困難者になってしまう可能性があるので、面接の時期を延期しますか?」という打診でした。我に返り、「先ほどの地震で仙台の実家との連絡が取れない。すぐにでも車で仙台に向かいたいので、御社まで車で向かいます。」という返事をして、電話を切りました。
14日まではとりあえず時間があったので、仙台の家族に向かう準備を着々を行っていました。ガソリンの調達が一番苦労しました。どこも長蛇の列。しかも給油制限が始まっていました。ふと考え「もしかしたら、関越道の高坂SAの上り線のガソリンスタンドであれば給油できるかも」と思い、東松山ICから関越道に乗り高坂SAに向かいました。案の上、一般道路よりも空いていました。10分ぐらいの待ち時間はありましたが、満タンで入れてくれた記憶が残っています。ガソスタの兄ちゃんは「レギュラーは残り僅かなのでダメだけどハイオクなら良いよ」と言ってくれました。
14日の最終面接は無人の首都高速(東北道方面は、自衛隊や消防の車がバンバン走っていました)を走り、本社で面接。全く面接にならず、まるで私がカウンセリングを受けているような状態でした。そして、すぐに新潟経由で仙台へ向かいました。邪魔になるので、物資を各家庭に配り、がれきの片付けを終えてから、すぐに埼玉に戻る予定でした。しかし、夜に富士宮でデカい地震が発生。このまま帰ると危険なので、一泊していけと説得されて弟の家に泊まることに。その代わり、たばこを1箱くれと要望されました。
次の日に、国道4号(下道)を使って埼玉の自宅に戻ってきました。自宅のポストを空けたら、14日に面接を受けた会社から内定通知と入社までに準備してほしい書類等が書かれた分厚い封筒が届いていました。
以上が、震災のときの私の行動です。余談ですが、仙台から埼玉に戻る途中で、前の会社の社長と会長から私の携帯に電話がありました。内容ですが、「あの話し(リストラ)はなかったことにしてくれ」との話し。「余りにもムシが良い話しだ。次決まりましたから、退職の手続きお願いします」と強い口調で返答。さらに、書類選考で落とした会社からも「やっぱり受験して」との打診の電話がありました。人を何だと思っているのか少し疑いました。そのような会社に転職せずに良かったと今になって思っています。
3.最後に
つらつらと、震災のときのことを書きましたが、あんな体験は二度経験したくありません。津波の被害に遭われた方はもっと辛い経験をしていると思います。また、福島の原発が事故が起きなければ、もっと早く復興していたのにと悔しいです。アレは天災によるものですが、限りなく人災に近いものです。当時の当事者には然るべき責任を取って頂きたいと思います。被害を拡大させた輩が多数いるようですが、私は絶対に許しません。
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