2018年09月15日
1989年5月のトルネード
今 アメリカの東海岸に60数年に1度というハリケーンが上陸し北上しようとしている
私もNorth Calorina州の大学に1年間留学していたことがあるので、人ごととは思えない思いで
事の成り行きを見守っている
私の友達がNC州にいるのだが、FBでもし避難する場所がなかったら、自分のうちに来てもよい
というコメントを載せていた
100万人に対して避難を勧告しているというのは、すごいことだ。
いったいその人たちはどこへ避難するというのだろうか
実際に自分も1989年5月5日にトルネードが大学の敷地内を通り抜けた
ヒストリカルディストリクトの中にある大学であったが、見事に広場の木が倒されたり、
ある一定の高さから上が無くなっていたのを目の当たりにして、トルネードの威力を認識したのを
覚えている
グラウンドにタッチダウンした町の状況は悲惨だったが、大学は地上20メートルぐらいの高さを移動して
いったため、高い棟の屋根が吹き飛ばされたり、木が寮に倒れてきて窓ガラスを突き破って3階の1部屋が
めちゃくちゃになった程度で済んだ。
自分の部屋は木が倒れてきた部屋の反対側だったので、それほど被害はなかったが、避難をしているときは
気がきではなかった。
昼の12時過ぎにトルネードウォッチが発表された
なんのことだかは理解できていなかった
夕方友達の部屋に遊びに行っているときに、サイレンが鳴り響き雨脚が強くなっていった
数分もたたないうちに、風が激しくなり、まるで地下鉄のホームに電車が入ってくるような音が
ずっとしていた。
寮の先輩が一部屋一部屋ドアを叩き、全員地下室へ逃げるように声をかけていた
私もその指示に従って、地下室へと移動した
ぞくぞくと人が集まり始め、枕を抱えてニュースを見たり、話をしたりしていた
すると、全身びしょ濡れの学生が数名外から避難してきた
その学生の話からすると、ほんの数分で足首ほどの雨が降り、車のガラスが気圧の急激な変化で割れていたと
いうことだった(私の英語の理解が間違えていなければ)
音が鳴りやみ、外に出てみようということになった
ドアを開けると外はひんやりした空気が肌をさしていたのを覚えている。そして空には満天の星が輝いていたのを覚えている。
昼間は空気が全く動かない、暑苦しい日だったので、そのギャップに驚いた。
数日後に数マイル離れた場所に再びトルネードが襲い掛かった。
その年の春から夏にかけては300近いトルネードが南部の州に発生したという珍しい年だったということをあとで知ることとなった
1週間寮が閉鎖されることになり(もし火事が起きても敷地内の倒木が邪魔をして緊急車両が入って来られないため安全ではないと判断された)留学生の私ともう一人の日本人の友達は、寮をでなければならなくなった
東京の大学のアメリカ人の教授の母親の家にお世話になることになった。1週間という期間、本当にゆったりとした時間を過ごすことになった。
このブログのタイトルになった言葉は教授の母親がにっこりとしながら私に話しかけてくれたセリフである
大学の単位を取るために、あれも、これもやらなくちゃと焦っていた私に彼女が落ち着かせようと励ましてくれたときのセリフである
One at a time
意志の力が弱い私は、すっかりリラックスしてしまって、レポートは書きあがらないわ、ファイナルの準備に集中できないわで、いくつか単位を落とす羽目となってしまった
でも今でも教授の母親とゆったりと語り合った時間は私にとって特別な時間として心の中に残っている。
典型的な南部のおうちで、アイスティーを飲みながら、そのとき大切だと思っていたことを言葉にしてみる。
すると、彼女は必ずといっていいほど、
「Do what you have to do」
「Do what you want to do」
「Do as you like」
など、批判的なコメントは決してせず、自分の望むことをしなさいと言われ続けたような印象が残っている。
日本にいるときには、批判的なコメントやコントロールされている感じを感じていたが、ありのままを受け止めてもらう心地よさを体験した
今での彼女は私のヒーローである。残念ながら、2年前に亡くなってしまったが、彼女のような人間に自分もなれているかなと問いかけることが多い
ハリケーンやトルネードという言葉を聞くと
いつもママさんのことを思い出す
そして被害が最小限で済むように祈っています
私もNorth Calorina州の大学に1年間留学していたことがあるので、人ごととは思えない思いで
事の成り行きを見守っている
私の友達がNC州にいるのだが、FBでもし避難する場所がなかったら、自分のうちに来てもよい
というコメントを載せていた
100万人に対して避難を勧告しているというのは、すごいことだ。
いったいその人たちはどこへ避難するというのだろうか
実際に自分も1989年5月5日にトルネードが大学の敷地内を通り抜けた
ヒストリカルディストリクトの中にある大学であったが、見事に広場の木が倒されたり、
ある一定の高さから上が無くなっていたのを目の当たりにして、トルネードの威力を認識したのを
覚えている
グラウンドにタッチダウンした町の状況は悲惨だったが、大学は地上20メートルぐらいの高さを移動して
いったため、高い棟の屋根が吹き飛ばされたり、木が寮に倒れてきて窓ガラスを突き破って3階の1部屋が
めちゃくちゃになった程度で済んだ。
自分の部屋は木が倒れてきた部屋の反対側だったので、それほど被害はなかったが、避難をしているときは
気がきではなかった。
昼の12時過ぎにトルネードウォッチが発表された
なんのことだかは理解できていなかった
夕方友達の部屋に遊びに行っているときに、サイレンが鳴り響き雨脚が強くなっていった
数分もたたないうちに、風が激しくなり、まるで地下鉄のホームに電車が入ってくるような音が
ずっとしていた。
寮の先輩が一部屋一部屋ドアを叩き、全員地下室へ逃げるように声をかけていた
私もその指示に従って、地下室へと移動した
ぞくぞくと人が集まり始め、枕を抱えてニュースを見たり、話をしたりしていた
すると、全身びしょ濡れの学生が数名外から避難してきた
その学生の話からすると、ほんの数分で足首ほどの雨が降り、車のガラスが気圧の急激な変化で割れていたと
いうことだった(私の英語の理解が間違えていなければ)
音が鳴りやみ、外に出てみようということになった
ドアを開けると外はひんやりした空気が肌をさしていたのを覚えている。そして空には満天の星が輝いていたのを覚えている。
昼間は空気が全く動かない、暑苦しい日だったので、そのギャップに驚いた。
数日後に数マイル離れた場所に再びトルネードが襲い掛かった。
その年の春から夏にかけては300近いトルネードが南部の州に発生したという珍しい年だったということをあとで知ることとなった
1週間寮が閉鎖されることになり(もし火事が起きても敷地内の倒木が邪魔をして緊急車両が入って来られないため安全ではないと判断された)留学生の私ともう一人の日本人の友達は、寮をでなければならなくなった
東京の大学のアメリカ人の教授の母親の家にお世話になることになった。1週間という期間、本当にゆったりとした時間を過ごすことになった。
このブログのタイトルになった言葉は教授の母親がにっこりとしながら私に話しかけてくれたセリフである
大学の単位を取るために、あれも、これもやらなくちゃと焦っていた私に彼女が落ち着かせようと励ましてくれたときのセリフである
One at a time
意志の力が弱い私は、すっかりリラックスしてしまって、レポートは書きあがらないわ、ファイナルの準備に集中できないわで、いくつか単位を落とす羽目となってしまった
でも今でも教授の母親とゆったりと語り合った時間は私にとって特別な時間として心の中に残っている。
典型的な南部のおうちで、アイスティーを飲みながら、そのとき大切だと思っていたことを言葉にしてみる。
すると、彼女は必ずといっていいほど、
「Do what you have to do」
「Do what you want to do」
「Do as you like」
など、批判的なコメントは決してせず、自分の望むことをしなさいと言われ続けたような印象が残っている。
日本にいるときには、批判的なコメントやコントロールされている感じを感じていたが、ありのままを受け止めてもらう心地よさを体験した
今での彼女は私のヒーローである。残念ながら、2年前に亡くなってしまったが、彼女のような人間に自分もなれているかなと問いかけることが多い
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いつもママさんのことを思い出す
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