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2018年10月31日

Suicide prevention ってどうすればいいの???

知り合いの29歳の女性が、眠剤を飲んで朦朧となったところで、ドアノブに布をしっかけて、首つり自殺を図ろうとした。

数週間前に見覚えのない電話番号から携帯のSMSに妙なメッセージが入っていた
「今度は本当に自殺しちゃうんじゃないかと思う」

番号に見覚えがあれば対応もできただろうに、誰だかわからなかったのでとりあえず、
「今メッセージに気が付きました。どちら様ですか?」

と返信したが、その後連絡はなかった

すると、昨日本人から連絡があって
「もう生きているのがつらくて、薬飲んで首を吊ったけど、苦しくて死ねなかった・・・」
と話し始めた
ただただ驚いてしまって、まずは話を聞いていた
ところどころ、自分の思ったことも話したが、
とにかく、現実検討があまり上手くいっていないこと、
何かの拍子に乖離が起きていたら、簡単に衝動的になって実行してしまうこと
などが気になりだした

実際にリストカットしている人の予後のデータによると
10年後には自殺した人の3割はリストカット経験者というデータがあるらしい
リストカット経験者の3割が将来的に自殺を遂行してしまうということだとすると
それはそれでぞっとした
彼女は以前からリストカットをしている人だったから

本人は話すだけ話して、なんとかしのげそうだということになり、昨晩は電話を切った
何かあったらまた電話してきても大丈夫と約束はしたが、
どこまで抱えられるのか・・・・・

専門医につなげたいが、どうすればいいのか
久々に脳みそがフル回転して
耳を澄ませて人の話を聴いた

明日は大事なプレゼンがあるので、今日は何事もなくぐっすりと眠りたい・・・

生きているってしんどい
でも彼女なんか海外旅行も行ったことないし
まだまだいろいろなことを体験できるのになぁと考えながら
生い立ちとかを考えると、生きているのもしんどいのかと
思ってしまう
同情されるのは嫌だろうけどね

魂が成長するためにこの人生を精一杯生きてほしいと心から願う
posted by seeker at 19:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ひとりごと

2018年10月27日

Acoma Pueblo

Acoma Pueblo は 断崖絶壁のきりたった岩山に住んでいる
平原が広がり遠くまで見渡せるそんな大地に円柱に近い岩山が出現する
周りを一周したらきっと1時間ぐらいでまわれるんじゃないかと思えるような山

その聖地には、ガイドつきでないと観光できなかった
だから、一人のネイティブアメリカンが付き添って観光をした
車で山のふもとまで行き、そこから徒歩で頂上の村まで行く
頂上にはスペイン人がもたらしたカソリックの教会が建っていた
彼らは自分たちの宗教とメキシコから北上してきたスペイン人たちからの攻撃に耐え
融合した形をとり、生き延びてきた種族とのこと
複雑な気持ちでその美しい教会を眺めていたことを覚えている

青い空と白色に塗られた教会の壁のアドべーが、澄んだ空気とまざりあって本当に心が静まった気がした
虐殺された多くのAcoma Puebloたちの魂が同じように静まっていることを願った

彼らの工芸品は、他のネイティブアメリカンたちのものとは少し異なっていた
長い間、外部との融合を避けて独自の文化を守りぬくことに適した場所に住んでいたからだろうか
彼らの陶器の模様は周囲のものとは明らかに異なる。それゆえに歴史を感じ心が惹きつけられる工芸品となっている。どうしても1つ欲しくて、割れてしまうかもしれないと思いつつ、買って帰ってきた。

この旅ではこのAcomaの小さな陶器と、Taosで購入したそこの土で焼いた素焼きのコップが私の宝物の一つとして寝室に飾られている
ちなみに、他には、ホピインディアンのつくったココペリのキーホルダー、ナバホの網目の細かい小さいラグ、魔よけの音のなる棒など、インディアングッズが我が家にはたくさん置いてある。
もっとちゃんとディスプレイすればいいのに、片づけられない私は、価値あるものなのにそこらへんに、おいてあるだけだったりもする←これは片づけをいつかして、ちゃんとディスプレイしたいと思っている、ホント。

さて、Acoma Puebloの居住地に入られないように、帰りは行きとは違った道を下ることになっていた
行きは登りで広い道を上ってきたが、帰りは崖のくねくねした道を降りてくることになった。しかもガイドは「この道から、帰ってくださいね」とだけいってさよならしてしまった。登ってくるときには本当に親切でいい娘だなと思ってたけど、帰りはあっさりでした。商売だからね。でもその日は私たちだけしか観光客がいなかったので、写真を撮るのも人影を気にしないでとれていたのを思い出しました。

特殊な地形に住んでいたからこそ、継承されてきた彼らの文化、歴史に触れることができて本当によかった。たった数時間の滞在なのに、今でも自分の記憶に残っているほど印象深かったということなんだと思います

タグ:Acoma Pueblo

2018年10月26日

Taos Pueblo 

Acoma Pueblo
Santa Crala、
Taos Pueblo


の3つの居留地を巡ったのは、Montana州でCrow Indian reservationを見学して、ネイティブアメリカンの歌とダンスに魅せられた翌年だった


Oklahoma州のTalsaで3日間のホームステイをした
白人のお宅にホームステイしているのかと思いきや、16分の1でネイティブアメリカンの血が入っているという家族だった。3人兄弟がいるが、長男はブロンドの白人顔、次男はブルーネットの白人顔、そして三男が黒髪のネイティブアメリカン顔の本物の兄弟だった

滞在していた家庭は、ミネソタ州でお世話になっていた家庭や友達の家よりも裕福そうに見えた
ダブルシンクだし、プールが庭にある。あれーネイティブアメリカンは豊かなんだっけ????

失業率が高く、アルコール依存症率が高く、自殺率も高い、いわゆる3高だと聞いていたのに、ここは普通の白人宅よりもグレードのよい家に住んでいる

理由を聞いてみたら、Oklahoma州のネイティブアメリカンたちは比較的裕福なんだそうだ
なぜならば、彼らの土地から石油が出てくるから
でも石油がなくなってしまったら、他の地域の?人たちの苦しみを味わうことになるんだろうか

また、Oklahomaの白人のほとんどが、ネイティブアメリカ人の血が入っているとのこと。歴史的になんだったのか忘れてしまったが、他の州の白人たちとは異なり、混血率は高いそうだ

だから白人のなりをして、インディアンのダンスを踊れる人の姿も見られるそうだ。あいにく、時期が悪くてフェスティバルの時期ではなかったので見ることはできなかったが、ときどき、見た白人顔なのに、インティアンの衣装を着た男性が、リズムに合わせて伝統的な舞を踊っているのを見たことがあるので、妙に納得がいった。

さて、3日間のホームステイの後、車で Iー40を西に走らせ、New Mexico州で3つのリザベーションめぐりをした。

Taos Puebloは観光地化されていて、安心して見学をすることができた。アドべ(土を固めて乾燥させた様式の家)様式のまさにニューメキシコを代表するネイティブアメリカンの居留地。英語も上手に話すし、外国人観光客にも慣れていた

Taosの町時代も、土壁の家が立ち並び、町を歩いているだけでとてもよい気分になれた
もともとメキシコ料理も大好きだったので、ピリ辛のタコスを食べ、ビールを堪能し、ちょっとお高い滞在費だったが、よい滞在だった

Santa Clara Puebloは、たまたま8月12日に祭りをやっていたので、直前に決めて立ち寄った居留地だ
田舎にあって、インターステートからは外れているから、そこへわざわざ訪れないと見ることはできない
しかし当日の11時過ぎにそこへ訪れると、広場にはたくさんの見学客がにぎわい、すでに、カメラの許可証はすべて売り切れていた。
だから写真をとることができなかった
しかし、未だに忘れられないことがある

夏の暑い日の昼過ぎに、長老の家の前に老若男女が輪になってたち、祈りをささげてから、踊りだした
いままでの踊りのときは、ドラムの音が鳴り響き、複数の人の歌が聞こえていたが、一人が歌のようなストーリーのような歌を歌い、それに合わせて円の形で動きながら踊っていた。20分ぐらい踊っていたときだったろうか、中から、長老が家のドアを開けて、「カーカーカー」とカラスの鳴き声みたいな声を出し、またドアを閉めてしまった

ダンサーたちはまた1から踊り始めたように見えた
また20分ぐらい静かに踊りっていたとき、
ドアが開いて「カーカー」と鳴き声が聞こえた

そしてまたダンサーたちは踊り始めた

私の目には、暑い中ずっと踊らされているダンサーがかわいそうで、長老が意地悪に見えたが、
3度目にドアが開いて、「言葉みたいなもの」を発し、ダンサーたちは全員長老宅に入っていった

何かの儀式 豊作なのか、雨ごいなのか、であるようで、神聖な気分が漂っていたし、空気が張りつめていたのを覚えている。咳払いもできないような雰囲気だったから
だから、カメラの許可証が必要だったわけだ。パシャパシャと写真を取ったら、音に邪魔されるだろうし、雰囲気が台無しになるから

長老を中心としたプエブロのヒエラルキーをみたように思った
そして本物のネイティブアメリカンの儀式を見たように思った



タグ:Taos Pueblo

2018年10月25日

ゆとりが大事なのかもね

働き方改革が話題になっている
世界から見ても日本の長時間労働はあまりナイスなことではない
北欧やドイツのように、人生において仕事の割合が比較的高くない国の国民は
日本人に比べて人生を謳歌しているように思う

貧困ラインを下回っている人は、確かにお金が重要な意味を持つだろう
でも貧困ラインを上回っている人はある一定の収入を超えると幸福感に差がなくなるという
何が幸福感をもたらすのか
少なくとも毎日12時間以上職場にいて仕事をするようでは、生活の充実は望めない

2000年からアメリカ心理学会は、およそ100年続いた、治療や診断に力を入れていた研究から、人々がよりよく幸福に生きていくためには何が必要かといった、ポジティブ心理学に研究の舵を切ることとなった
ペンシルバニア大学のセリグマン博士が会長になった年に、彼の幼い子どもとの生活を通して、人々がよりよく生きるための学問を追及したいという思いにかられ、心理学のペシミズムを研究していた彼が、真逆のポジティブの研究に動き出した。

ある本によると、幸福感は50%が遺伝的な要素があり、10%は短期的な幸福感をもたらす環境要因(給料が上がった、昇進した、結婚した、子どもが生まれたなど、そして残りの40%は、自分のものの考え方、行動の仕方によるとされるデーがが解説されていた。40%、平たく言えば半分は自分の努力で幸せになれるのだ。

日本人は自分のアイデンティティーをつかむことが難しい文化のような気がする
アーミッシュではないが、農耕民族で相互扶助の歴史が長かった文化の下で、人と違ってやりたいことをやってみるというチャンスはなかっただろうし、社会の期待、家族の期待を知りつつも、自己を主張することは文化的な視点から見ても、難しいことになると思う

その呪縛から解き放たれて、本当に自由に生きていくことが許容される、尊重される社会ではないから、どことなく、会社に縛りついて、足並みをそろえて、目立たないように配慮しながら生きていく
考えないでも周りと同じことをしていれば生きて行ける、人からの評価が自分の評価になってしまう精神的な弱さを克服できないでいる人も、まだまだ未熟な人も多いように思う。特に男性。男尊女卑が長かった歴史の中で、男が女を支配して、努力もしないでのうのうとしている幼稚な男性も多いように思う

働き方改革をして、ワークライフバランスを得て、何かを学んだり、複数の職業をもって得意な分野でお金を稼いだり、人間関係を豊かにして人生を楽しんだりすることができる人はいったいどれくらいいるのか。なんとなく、誰かが提案した雑誌に載っている生き方を真似てみて、終わりなんじゃないかと思ったりする。

平成生まれは多少は昭和生まれとは違った精神構造を持っているんだろうか?
自分は、仕事人間だが、もし仕事の時間が短縮されたら、有効に時間を使えるんだろうか?

確かに、ここ数年、以前のようなストレスで胃が痛くなるようなポジションの仕事をしていないもで、若干時間があれば、フットワーク軽く、お出かけしたり、勉強したりするようになってきている。以前は、土日はとにかく寝てしまっていた。それくらい激務で、どうして自分のところにばかり、仕事が舞い込んでくるのかと思っていた。でも、自分が職場を回しているという自負や自信もあり、やりがいを感じていた。

しかし、ここ数年、友達と昼飲みをしたり、研修会に出掛けたり、家族と一緒に買いものに行ったりすることで、仕事では感じることがなかったほんわかした気分だったり、インスパイヤーされて、エネルギーが湧いてきたり、わくわくすることが増えてきている

仕事で中心になってやっていたつもりでも、もしかするともっと他の人に仕事を振った方がやりがいをお互いに得ることができ、かつ仕事の引継ぎや、共有が同時にできるのでよかったのかもしれない。
先を見て、適材適所に仕事を振る能力が私にはなかったのかもしれないと今は思う。一人で仕事をしているようではこれからの社会では生きて行けないかなと思う。AIがほとんどのことをやってしまう中で、人にしかできないこと、その一つは場を読むことであったり、表情を読んだり、微妙な気持ちの変化に絶妙に対応すること、ちょっと押したり引いたり、人と人とのやりとりの中にあると言われている

50歳も過ぎると、自分にとって心地よいこと、合う合わないはわかるようになる。
だから、自分軸を大事に、取捨選択することもできる。
でも私は、自分に合っていないから捨てるというのも、なるべく間口は広く構え、自分を成長させてくれるような人に会い、ものに出会い、場所へ出かけていきたい

数年前の自分だったら、きっとそんな風に考えることもなく、日々の生活に擦り切れ、意欲さえもなくなってしまっていたかもしれないと思う

現状を嘆いたりするのではなく、流れに乗ってMake the most of it. 
変化を楽しみながら、いろいろな風にのって今後の人生を過ごしていけたらいいなと思うようになった

posted by seeker at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | ひとりごと

プリティーウーマンの映画のワンシーンの意味がわかった日

1989年 ロスアンジェルスにあるアルマーニのお店でのこと
ロデオドライブだったのか、デパートの中にあるお店だったのか覚えてないけれど
アルマーニの店だということは覚えている

友だちがフランドものが好きで、1日買い物の日を作ったのだった
ノールカロライナに留学していた女二人と男一人がバスでフロリダ、メンフィス、ミシシッピー、ニューオリンズ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアと移動してきて最後のロスだった。

バスに乗るのも、学生だったしやすかったから選んだんだけど、今思えば危ない移動だったと思う。マリファナのにおいが後部座席から漂ってきて、そのまま警察署の前までバスで連れて行かれ、突然逮捕されたのを目の当たりにしたり、乗っている乗客はやはり低所得者層の人がおおいように見えた
もちろん自分たちも学生だし、そんなによい格好をしているわけではないので、相手からしても貧乏なアジア人がバスで移動しているぐらいにしか思われていなかったと思う

さて、そんな恰好で、ロデオドライブを歩き出した私たちは、お目当てのアルマーニに入った
いつもなら「May I help you?]と言って店員がやってきて、探し物を手伝ってくれるのに、
誰も私に近づかない
店を1周してもだ・・・・・・
だから、値段を尋ねたり、別のものはないか聞くこともできなかった

結局彼氏に買おうと思っていたお土産(ネクタイ)もアルマーニの店では買うことができなかった

数年後
自分は、プリティーウーマンの映画を見た
高級ブティックで、ジュリアロバーツが下品な格好をしていたので誰一人店員が相手をしなくてくやしい思いをしてブティックから飛び出してきたシーンを見た時に、
あーーーこれこれ。私もこれをやられたんだわ・・・と初めて気が付いた

歩合制なんだと思う
たくさん買う客かどうかを見定める目はきっと持っているんだと思う
だから小銭しか落とさない観光客相手はしないんだと思う
または、身なりがきちんとしてないと、やはり小銭しか使わないということを経験から学んでいるのかもしれない
同じようにあまりよい格好をしてなくても、サイパンやオーストラリアではちゃんと相手にしてくれるブランドショップはあったが、ロスはあまりフレンドリーではなかった
本当にセレブがいる地域なので、小魚は相手にしないんだと思った

ニューヨークへも行ったが、この時はサックスフィフスアベニューとかバーニーズニューヨークとかに行った記憶があるが、ロス程侮辱された記憶はない

人種の問題というより、経済格差というか、足元を見られた対応だったように思う

あれからおよそ30年、今なら少しは丁重に扱ってもらえるものなのか試してみたい
きっと同じなんじゃないかな???ははは

2018年10月20日

アメリカでの車の運転 怖かった思い出

確か1993年〜だったと思うんだけど、
その前年にモンタナ州のCrow Indian reservation を訪れてすっかりネイティブアメリカンの文化に魅せられた私は、文化人類学が好きな友達と一緒に数年間かけていろいろな居留地を車で訪れることにした

初めはナバホインディアンの住んでいるアリゾナ州あたりを旅した
ウィンドウズロックから入り、Hopiインディアンの居留地まで車で移動した
彼女は高校時代にアメリカに留学していて、そのときに車の免許をアメリカで取っていた
そして同じ大学に交換留学していたときに、私も免許を取った
しかし、私は車の運転には本当に自信がなかった
だから、絶対に車の往来の激しくない場所しか運転しなかった
しかし、Interstateは車のスピードが半端なく早い
センマイトラックに四方を囲まれていやがらせ(私はそうだと思ってる)をされたこともある
Hopiの居留地に夜日が暮れてから車ではいったのだが、そのときは後ろから車があおってきて本当にこわかった
一番テンパったのは、ニューメキシコ州の田舎道を走っていたとき、激しい雨が降ってきて、バケツをひっくり返したような雨で、ワイパーでは前が見えないといった中で運転しなければならなかったこと。
あの時はかろうじて見ることができるセンターラインと右側の白い線を何とか見ながら、道から外れないように運転していた

ノースカロライナでは、右折したかったとき、道から出てくる車と危うくぶつかりそうになったり、ウィスコンシン州では、トラックが突然センターラインを越えてきて、車に突進してきたときには、生きた心地がしなかった。本当に車の運転は苦手だ

文化人類学好きの彼女は車の運転が好きだったので、彼女に運転はほぼ任せていた。でも疲れてくるので時々私が運転した。スーツケースを運ぶのを自分がやったり、別のところでなんとか運転しない分を埋め合わせしようとしていた
つい最近も一緒にノースカロライナ州を一緒に旅した
ワイナリーを訪れたり、アシュビルまで足を延ばした
本当に気の合う友達だ

コロラド州を旅したときは、一緒に3時間の乗馬をして、馬で素敵な風景の場所を散策し、軽めのランチを参加者みんなで食べたり、ロッキー山脈を越えたこともあった。富士山よりも高い場所に道路があってそこを車で走った。そのときは、道に鹿がいたり、自然を堪能しながら、夏なのにキーンと冷えた空気を胸いっぱいに吸いながら、無事に下山できることを祈っていた
遠くから救急車の音がずっとしていた。きっと空気の薄いところで動き回ってしまったからだろう、体調悪くなった人が出たようだった。でも、救急車は有料だから、こんな山奥まで救急車を要請するとは、相当お金がかかるだろうなといったことを考えていたことを覚えている。結構どうでもいいことを覚えていたりするもんなんだな〜

テキサス州のアマリロ近辺を走っているとき、夕食を取るために近くのレストランへ寄ったことがある。
そのときは、ダンスのコンテストでもあったようで、レストランの客がみんな衣装を着ていて、驚いたことがある。ある場所は、とにかく窓を開けて走ることができなかった。それは、牛のふんのにおいが風に乗ってひどかったから。

そういえば、カリフォルニアのある町は、にんにく工場があるようで、町の中を通り過ぎるだけでも、にんにくのにおいがすごかったことがあった

グランドキャニオンでは、一方通行のところでUターンをして、警察官に車を止められた。警官に車を止められたら、素早く動くことは禁止されている。武器を取り出すと思われるからだ。それは知っていたので、ゆっくりと窓を開け、免許証と車の証明書を見せろと言われたとき、いちいち口に出して説明した。「証明書はダッシュボードの中です。取り出します。免許書はカバンの中です。今出します」など。でも、まあUターンだけだったので、見逃してくれた。生きた心地がしなかったなぁ〜


でも、結構何度もアメリカ旅行で運転しているので、少しずつ慣れてきたように思う
今度行くときには、自分も運転できそう。だって向こうではおじいちゃんやおばあちゃんが運転してるから私ができないはずがない。

今は文化人類学が好きな彼女と、ハワイ好きの通訳をしている友達と一緒に世界旅行にいく計画をたてている2030年だったかな?  
でもそのころはもう60を超えているからどうなるかな?
お金も貯めておかないと。貯まるのかな????

忙しい毎日だけど、先に目標があると頑張れるかも

タグ:車の運転

2018年10月17日

セックスを科学する

幸福の科学のことはよくわからないが、
幸福を科学的にとらえなおすということなのか????

アメリカではセックスを科学的な学問として扱っていた
アメリカの大学では,Human Sexuality という学科があった
ナイトクラスで一般の人も大学で単位をとることができるコースであったが、
タイトルに惹かれて、授業をとることにした

やっている内容は生物学の人間版みたいなことや、社会学と心理学、アダルト話が合わさってような教科だった。人間のパーツ(性器、脳、ホルモンなど)の名前を覚えるのが大変で、途中から単位はいらないから、とりあえず授業に出ようという形に目的を変えてしまったが、面白かった

オーガズムは体にどういったことを及ぼすか、体はどう反応するか

自分の考えをいいなさいという宿題がでた
さすがに友達には聞けないし、かといってそのころまだオーガズムいったいどういうことなのかわからなかった私は、

雲の上を歩いているような気持

と全く見当違いの答えを言った気がする

今ならば、インターネットで調べればすぐに答えはわかるけれど、当時はフロッピーディスクだって紙でできている入れ物に入っている10センチ×10センチの大きさの時代だったから、そんなことはできなかった
図書館へいって調べればよかったのだろうけれど、でもどうやって司書に聞けばいいの???恥ずかしい話題だよね

教授の答えは、

オーガズムとは、筋肉の収縮とその弛緩であり、云々カンヌン。
そうなんだー。でも確かに一人エッチのときは、そうかもなー。あーそういうことか〜。

と説明を聞いて、妙に納得した

マルチプルオーガズムについて
女性が全員オーガズムを毎回のセックスで持つわけではない
年とともに変化する、夫婦の関係について
オーガズムに至る、プラトゥーとピークエクスペリエンス
体位によって得られる快感の度合い
マスターベーションのおすすめ(自分の性感帯がわからなければ、相手に伝えることができないから)
Gスポット
同性愛など
女性と男性の性器の名称(隠語含む)→将来カウンセラーになったときに、さまざまな社会的な立場、バックグランドにある人を相手に仕事をするときに、知らないでは済まないので、みんなでさまざなま呼び名を言い合ったりもした(笑)

女性の教授なのに人目のはばからず、言いにくい言葉をポンポンと言っていく
筋金入りのリベラルな女性だなあと思った

日本では週刊誌には乗る話題かもしれないが、アメリカではそれが学科として成り立つ
性生活の重要性は今の年になればよくわかるが、大学生のころには理解できなかった
夫婦として、寄り添って生きているときに、親密な行為であり、それが学問として成り立つアメリカは
すごいなあと思った。発想がね

授業は確か木曜日の夜だったと思うが、授業が終わるたびに誰かに話をしたくて、隣の町の大学院に留学していた男の先輩に電話をかけて、授業の内容を事細かに話をしていた
どうしちゃってたんでしょうね。まあ彼も、日本語を話す相手もいないし、しょうもない後輩として面倒をみてくれていたんだろうと思うけど

でもある日、そんな話を話始める前に、
「日本は大変なことになってるけど知ってる??」
と聞かれた
どうも天皇陛下が崩御したというニュースがアメリカのTVで流れていて、彼は日本に確認を取っていたようだった。私は全くニュースもみてなかったし、知らなかった
「日本はデパートの店員がみんな黒い服を着て仕事していて、お祭りムードを自粛しているって話だよ」
と言われた
日本人として、みんなが経験している歴史的な瞬間を共有できないことは若干の不安はあるが、実感としてどんな様子だったのかはわからない

でも、ベルリンの壁が崩壊したときのニュースは連日連夜TVに食い入るようにして見ていた。歴史的な瞬間だと思った。この瞬間を同じ地球上で目撃することができてうれしいなと思った

セックスを科学するの話に戻るが
女性で5%はセックスの度にオーガズムを感じることができるが、
多くの女性は、毎回感じるわけではない
中にはプラトゥ―でとまってしまい、ピークエクスペリエンスを持つことがない女性もいる

というデータを覚えている
夜のお勤めという言葉の意味はその頃はわからなかったが、
データから考えると、納得のいく話だなと思う

結局授業には毎週通い出席したが、レポートを書くことが途中からできなくなり、単位は落とした
でも、十分勉強になったし、日本にはそのころには存在していなかった教科なので、先取りをひた気分だったけれど、これを知ってからと言って、誰かに教えたりすることってほぼない
こんな話をしょっちゅうしてたら、ただの好きものになっちゃうからね




ディスコ 〜サーカス〜

大学のころ、ライティングの課題を提出した翌日は横浜中華街そばの山下公園手前にあったサーカスというディスコによく友達と踊りにいっていた
そこは、横須賀、座間、厚木、根岸などにあるアメリカ軍基地に駐在しているアメリカ人がよく出入りしていた。また、基地で暮らしているフィリピン人、中華街で働いている中国人、そして日本人とさまざまな言語が飛び交っていて、日本ぽくない雰囲気のディスコだった

黒人がボディコンの日本人の腰に自分の腰を擦りつけて、フロアで踊っている様は、初めての人には驚きの光景だったと思う
なんでそんな場所へ行くことになったのか今ではまったく記憶にないが、英語をしゃべる機会と、酒と踊りに惹かれて、月に1〜2回はオールで遊びに行っていた。
友達はそこで出会った横須賀のアメリカ人と付き合っていた
その友達から人を紹介されて、少し付き合ったが、長くは続かなかった

どちらかというと、その時々に気になる人とその場だけで踊って楽しめればそれでよくて、別に手にスタンプを押してもらって、近くのホテルへ中抜けしに行こうとは思わなかった

そのうち、高校時代の男友達ともサーカスで遊ぶようになった
結構な人数で乗り込んでいって、異国の雰囲気の中で、キャーキャー自分たちだけで楽しんでいたように思う

同じ大学の同級生たちとも出かけたことがあるが、一人の友達は近くの駐車場に連れ出されて、車の陰に隠れて、お口で・・・・・ということもあったらしい
さすがにそこまで自分は押し切られることはなかったが、しっかりとコミュニケーションをとることができない女の子は危ない目にあうんだなぁと反省し、誰を一緒に連れて行くかは、よく考えてから誘うようになったと思う。

フロアーはダンスをするカップルでにぎわっているが、ソファーがおいてあるエリアは薄暗く、抱き合ってメイクアウトしていても、目立たない。Music was so loud だったのでちょっとぐらいの声は聞こえない。そばに座って顔を近づけて話をしないと会話さえできない。だから話しているうちに、・・・・・となってしまうのだ。それに押しの強いアメリカ人だから、きちんとNoと言えない人は持っていかれてしまう

ときどき、自分は日本人にはない押しの強さと粘り強さと、巧みな交渉によって、もってかれそうなときもあったし、それを期待して遊びに行っていたこともある。しかし、そういうときに限って、あまり誘われなかったりした。
やっぱり、おいたはダメよと守護霊が守っていたような気がする
願望は想像の中で満たしなさいってことか????

あのとき、受付にいた女性は40歳ぐらいだった。常連のアメリカ人たちが、ファーストネームで彼女の名前を呼び、彼女も夜の女王よろしく、笑顔を振りまいていた。
大学生の私は、職業、ディスコの受付、夜のみの仕事??知り合いアメリカ人、入れ替わり立ち代わり、いくらもらえるんだろう??自分はうらやましいと思ってるんだろうか?それとも、軽蔑してるんだろうか?といった不思議な気持ちを、行くたびに感じていたことを覚えている
あの気持ちはいったいなんだったんだろう????
軽蔑なのか嫉妬だったのか。

朝の電車が走り始めるころまで、眠たい目をこすりながら、ソファーに場所を確保しながら、けだるさと闘って帰るといったことを繰り返していた。
木曜日が課題の提出日、もちろん徹夜でエッセイを仕上げていたわけで、1日あけて金曜日にオールをするなんて大学生じゃなきゃできない

今はもうサーカスはなくなってしまっている
でも私の記憶の中では、若干の黒歴史の1部として、サーカスは残っている


posted by seeker at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 黒歴史

モンタナと私 その4

モンタナ州の一番北を走っている道路をひたすら西へ車を走らせる
すぐそこにカナダの国境があるということがわかった
グレーシャーパークから国境を越えてカナダへ

Prince of wales というホテルへ立ちよる
ここのロビーからの眺めは絶景で、今だにあのときの体の震えは覚えている
Breath taking とはよく意を得た言い方で、息をのむほどの美しさだった

目の前に湖があり、(ウォータートンレイク)その水が青くエメラルド色をした、美しい湖で
ピアノの生演奏をしていたので、ソファーに優雅に座ってくつろいでいた。そもそも、ホテルの宿泊客用の景色だと思うが、客のような振舞いで、空間を楽しんだ

ちょうどそのとき、セントエルモスファイヤーの映画の主題歌がピアノ演奏で流れてきた。子宮の奥がキュンとなるような感覚で、あまりの感動でこのホテルに将来また戻ってくるぞとあのとき誓ったのを覚えている
2020年に友達とアメリカのイエローストーンに行きたいという話が出ている。足を延ばしてGracier National Park まで行ければ、頼んでみようと思う

確かこの日は、一緒にドライブをしている彼とホテルの同じ部屋に泊まった
男と女だからそういう雰囲気にもなった
でも、なぜか急に私の気持ちが冷めてしまい、セカンドベースどまりだったのを覚えている

でもその後も、チューしたり、抱き合ったり、旅が終わるまではイチャイチャしていたなぁ
日本に帰国してからも、家に泊まりに来るように言われた
1度泊りに行ったことがある
一応それなりに考えていたが、でもこのときも、セカンドベースどまりだった

無理強いする人じゃなかったから不本意なことにはならなかったけど
男の性を理解してなかった私は、相当ひどいことをしていたんだなと今はわかる
ごめんなさーい


そのとき、彼に「君は鉄のパンツをはいてるんだね」と言われたのを覚えている
ははは

まあ、性的な関係にならなかったから、結構プラトニックで今だに純粋にメンターとして尊敬して付き合っている。今ではこっちのほうが価値があっていいじゃないかとも思える

守護霊だかガーディアンエンジェルだかが、水を差して、そうならないようにしたとしか思えない
だって、カナダの国境を超える前まで、私の方が若干欲求不満気味で、ちょいちょいモーションをかけていたのに、国境を越えたあたりから、急に気持ちが冷めてしまったから
不思議なこともあるもんだ

あれから25年ぐらいたっているんだけど、前回彼と話をしたけれど、「あのときはとにかくFuck したいという気持ちが先行してたよ」と言ってました

やっぱり最後までしなくてよかった〜
そして、守護霊に守られているって感じがますます強くなったな〜

2018年10月16日

モンタナと私 その3

モンタナ州にはロッキー山脈が位置している
カナダのすぐ下の、西部の地域に、グレイシャーパークという氷河が残っている山の公演がある
夏なのに、空気は冷たく、コロラドで登ったロッキー山脈の風景に似ているのを思い出しながら、ある湖にやってきた

彼は私に一言「ちょっと僕に時間をください。この場所は自分にとっては思い出の場所なので」といって私から立ち去り、一人歩き始めた
そういわれたら、邪魔するわけにはいかない。自分の足を止め、半分息も止めて、座れる石を見つけて、キラキラ光る湖の水面をじーっと見つめていた
15分ぐらいたったころだろうか、彼がやってきて、「もう自分は気が済んだ」といって私の脇に立った
彼は、この場所で若いころ、死んでしまいたくなるような出来事があった時、服を着たまま入水し、死のうかどうしようか迷っていた場所だと話し始めた
いつも明るくエネルギッシュな彼が、まさかのカミングアウト
何と返事をしようかと、考えをめぐらせて、無言の私
彼はさらに、「あの山を見ているときに、はははは、と笑ったから、死ぬのを止めた」と続けた
????ますますなんと答えていいかわからなかった私
「山が笑ってくれてよかった。じゃなきゃ、私はあなたに出会っていなかったから」と伝えた(つもり)

ちょっとだけ感傷的に、その湖の岸辺で二人熱い抱擁・・・・・・・・・
誰もその場所にいなかったから、小鳥がさえずっているだけ・・・・・
そして彼は「もうここに来ることはないだろうな」とつぶやいて、車の方へ歩いて行った

その湖の水は冷たかった。グレーシャーから流れてきた水だかららしい
あんな冷たい水に飛び込んだ彼にいったい何があったのか?未だにその理由は聞いていない
きいちゃいけないような気がして・・・・

ちょっとだけ彼の闇の部分をのぞき見したみたいな気分だった
そしてその闇の部分を私とシェアーしてくれたことは、少しうれしかった
ありのままの自分でいる彼のそばでは、自分もありのまま、感じたままのことを言葉にできたから
あのとき、本気で彼の魂と自分の魂は溶け合っていたかもしれないと思っている
人生の中での貴重な1日だったと思っている
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おばさんだけど、挑戦することを放棄したくない。 この年だから広い視野で物事をとらえられる。 少々からだはポンコツで、記憶力もときどき怪しい時があるけれど、いろいろなことにチャレンジしていきたい。悪あがき?でも等身大の私のジャーナルです。
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