概要
養老2年(718年)の創建と伝えられる。
『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王、華智王が日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は神門の地に落ち着き、福智王は現在の木城町に住んだとされる。「益見太郎」または「益シ見ル者」の援助があり、父子はこの地で崇敬され、死後は神として祀られたという。
『三国史記』によると、756年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後に災害が続き民が飢えたことが記されている。 日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九月四日(759年)条に、以下のように記されている。
近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。
彼らは租税や労役の苦しみを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。
その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。
それらの人々に再三質問して、帰国したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように。
− 『続日本紀』中巻p234,講談社学術文庫
4つの異なる伝承
以下の四書において、伝承が異なる。
@『神門神社縁起』(宝暦五年六月,源光章)
A『比木大明神縁起』(宝暦五年七月七日,源光章)
B『日向旧跡見聞録』(宝永九年閏七月,笠原道順)
C『筑紫日記』寛政四年閏二月十九日条
@Aは甲斐州山梨郡山王社神主である源光章によって作成されたものである。それぞれ前半部分は佐土原町上田島にある仏日山大光寺拙堂禅師が持ち込んだ『比木祠旧記』の写しで、後半は源光章による考証である。 『比木祠旧記』文中では、天平勝宝八歳を「天平勝宝八年」と誤記している。 また、文中には1580年代に開始された[6]唐津焼が登場する。
@では、源光章による考証部分で「孝謙天皇時、百済王子金泰廉等朝貢事」と百済と新羅を混同している(Aでは「新羅」と修正されている)。
『比木祠旧記』の内容も、@A間で異なる。
@は送り仮名を漢字表記。Aではカタカナ表記(例:「与利」=「ヨリ」)
@では「貞嘉帝」、Aでは「禎嘉王」
@では「和国は神国である」という貞嘉帝の言葉がある
Aでは、日向国に着くまでの道筋が簡単になっている。筑紫へ行ったこと、風に流されたことを書いていない
@では「益見太郎」が固有名詞、Aでは「益シ見ル者」と固有名詞になっていない(ただし『宮崎県史 別編 神話伝承資料』収録の天保三年写本では「益見ナル者」に改竄されている)
@では貞嘉帝の皇后の名前は無く、単に鴫野村に葬ったとある
Aには、若御子宮の話がある。また、舎人七人の話がある
Aには、王次子(華智王)の名前が書かれていない
Bは笠原道順が現地古老に取材して実見するところをまとめたものである[5]。 本書では百済関連の伝承は語られない。比木神社に祭られているのは福智王とせず、「異国の大将軍」であると地元民は述べる。 著者はそれを誤りとし、祭神である大己貴命が、国譲りの後にこの地で蟄居したためであろうと論じる。 神輿の巡行については、大己貴命が独り日本国に留まって経営を続けたことに由来するという。
Cは高山彦九郎の巡遊日記である。神門神社の祭神について、「百済王とも源頼朝の子供ともいう[10]」と述べる。
王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っている。神社の近くの国道446号線沿いに「百済王貞嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられている。標柱の南約50メートルほどのところの畑の中に、封土の大部分が削平された塚ノ原古墳がある。本殿の屋根裏には、千点以上の鉄鉾や鉄鏃などの武器類が保管されており、地域の武器庫とのかかわりが考えられる。さらに、須恵器の大甕や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。
本殿・国の重要文化財
文化財
重要文化財
本殿
寛文元年(1661年)に建立された七間社流造の社殿。現在は社殿保護のため覆屋が造られている。平成12年(2000年)12月4日指定。
アクセス
JR日豊本線 日向市駅前の都町バス停より宮崎交通バス神門行きで1時間10分。百済の館前バス停下車すぐ
所在地 宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門69-2
位置 北緯32度23分9.6秒 東経131度19分51.4秒
主祭神 大山祇神、禎嘉王ほか
社格等 郷社
創建 伝・養老2年(718年)
本殿の様式 七間社流造
例祭 秋季例祭(10月17日)
師走祭り(旧暦12月)