石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市八幡高坊にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。
概要
平安時代前期の貞観年間に大安寺僧の行教が宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請した神社で、京都の南南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座された。創建年については『元享釋書』や『石清水遷座縁起』などでは貞観元年(859年)、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)としている。行教は貞観元年に宇佐八幡宮で八幡大菩薩のお告げを受け、それを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が造営されたともいわれる。
都の近くに創建されたことから朝廷の尊信を受けて、賀茂神社、松尾大社、春日大社などと同等の待遇を受けるようになった。さらに平安末期には白河天皇の殊遇を受け、伊勢神宮とともに二所の宗廟として崇敬されるようになった。
また、平安京においては北東側の鬼門を守護する延暦寺に対し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられた。八幡神を氏神とする源氏の崇敬を受け、特に源義家は当社で7歳の時に元服し「八幡太郎義家」を名乗った。そのため武神として信仰され、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。
石清水八幡宮は僧侶を中心に創建され、当初から宮寺形式をとり、境内の神宮寺である護国寺と一体とされるだけでなく、その要職は創建時から僧行教の系統である紀氏一統が長きにわたり務めた。往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓の社殿である高良神社を八幡宮と勘違いしたという『徒然草』の話で知られる。その後、幕末から明治維新にかけて神仏分離で仏式は排除され仏堂や仏塔は姿を消した。仏式で行われていた放生会もまたその際に「石清水祭」と名を変えたが、現在も同祭は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。
2012年(平成24年)1月の官報告示で境内は国の史跡に指定され、大きく分けて本宮のある山上の上院と、頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。また、本社10棟の建物が国宝に指定されている。「やわたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている。
祭神
祭神は次の3柱。3神は「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称される。
中御前:誉田別命 (ほんだわけのみこと)
第15代応神天皇の本名。
西御前:比淘蜷_ (ひめおおかみ)
宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の3柱を指す。
東御前:息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと)
神功皇后の本名。
歴史
貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国、宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が石清水寺(現・摂社石清水社)の境内に社殿を造営したのが創建とされる。
「石清水」の社名は男山の中腹から湧き出ている"石清水"からといわれている。
鎌倉時代の『宮寺縁事抄』によると男山には石清水八幡宮の創建前に「石清水寺」があったという[3]。石清水八幡宮境内からは創建年代以前の瓦が複数発見されている。
また、元々男山の麓に鎮座していたのは和気氏の氏寺であった神願寺(和気清麻呂の墓があったと伝わる)であったが、空海ゆかりの高雄山寺を神護寺に改めて新たな氏寺にした際に元の神願寺に八幡神を勧請することで新たな位置付けを与えようとして行教や清和天皇の後見人である藤原良房に働きかけたとする説もあるが、神願寺の位置については諸説あるために現時点では可能性に留まる。
石清水八幡宮が創建されると薬師如来を本尊とする石清水寺はその神宮寺となり、貞観4年(862年)名称を護国寺と改めてより神仏習合の度合いを増していった。
境内
上院(山上)
社殿は「八幡造」と呼ばれる独特の構造である。楼門から奥へと舞殿・幣殿・本殿が続き、いずれも国宝に指定されている。
本殿 - 内殿と外殿からなっている。その双方の軒が接する所には天正8年(1580年)8月に織田信長が奉納した「黄金の樋」が設けられている。貞観元年(859年)に清和天皇の勅命で建立されて以来幾度も焼失し、造営14度・修理17度に及んでいる。なお、内殿と外殿に分かれているのは、これは神が昼は外殿に、夜は内殿に遷られるとされることによる。
内殿(国宝) - 後殿とも呼ばれる。寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。
外殿(国宝) - 前殿とも呼ばれる。寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。
幣殿(国宝) - 寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。
舞殿(国宝) - 寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。
東門(国宝) - 寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。
西門(国宝) - 寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。蟇股に施されている彫刻「目貫きの猿」は左甚五郎の作という。この猿が夜になると抜け出して山麓の畑を荒らすというので、動かなくするために猿の右目に釘が打ちつけられたという。
廻廊(国宝) - 寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。廻廊の東北部分は鬼門であるために鬼門封じとして土台の石垣が切り取られた造りとなっている。
楼門(国宝) - 寛永11年(1634年)に徳川家光によって再建。
築地塀 - 織田信長が奉納した土塀で「信長塀」と呼ばれている。
西総門(重要文化財) - 江戸時代前期の再建。
校倉(宝蔵、京都府指定有形文化財) - 江戸時代中期の再建。
北総門(重要文化財) - 江戸時代前期の再建。
東総門(重要文化財) - 江戸時代前期の再建。
楠木正成奉納の大楠(京都府指定天然記念物) - 楠木正成が建武元年(1334年)に奉納した7本の内の1本。
神楽殿
勤番所
授与所
廻廊
南総門 - 1938年(昭和13年)再建。
現地情報
所在地
京都府八幡市八幡高坊30
交通アクセス
下院まで
最寄駅:京阪電鉄京阪本線 石清水八幡宮駅 (徒歩約5分)
駐車場:あり(有料)
山上(上院)まで
境内は男山の上にあるため、麓からの参拝にはケーブルまたは徒歩で登る必要がある。
石清水八幡宮駅から
ケーブル:石清水八幡宮参道ケーブル ケーブル八幡宮山上駅下車 (徒歩約5分)
徒歩:表参道(約20分)または裏参道(約15分)ほか
男山山上に至るルートはこの他にも複数ある。
駐車場:あり(無料)
初詣期や例大祭などの混雑日以外は、乗用車で山上の本宮のすぐ下で駐車可能。
2023年02月24日
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