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2019年04月29日
天の富に対して良い管理人でいること
マタイの福音書25章14-30節の学び
GW最初の聖書勉強会の記録です。
以下が今日の聖書箇所でした。
25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
討論会の記録
質問1.
しもべたちは同じ金額ではなく、それぞれが異なった金額を受け取っています。もしあなたがしもべの一人だとすれば、どう思いますか。どうして主人はしもべたちに異なった金額を与えたのだと思いますか。
→(自分の回答)
大きな額は大きな責任を表します。主人は、各々のしもべの能力に応じて金額を分配していると書いてあります。ですから主人は、私たちに対して個々のレベルに応じたベストを尽くすことを要求しているのであって、儲けの金額が要求の趣旨ではないと思います。
質問2.
どうしてこの主人は、しもべたちに自分の財産であるタラントを預けて出て行ったのだと思いますか。
→
5タラントと2タラントのしもべが財産を渡されてすぐにその運用を始めたことから、ここでは運用しなさいという趣旨がこの場全員のうちで暗黙のうちの共通認識であったと思います。
質問3.
もしあなたがこのしもべのようにタラントを預けられたとしたら、どうするでしょう。
→
減らすと怒られると思い、自分への責めの回避を第一に考えて、財産を大切に取っておく。
質問4.
5タラント、2タラントを与えられた人と、1タラントを与えられた人を比べると、その行動が違っています。
その違いはどこから生まれるものだと思いますか。
→
1タラントの人は、自分が罰せられないことを第一に考えた。しかし他の二人は主人を信頼していたので、
主人の思いを正しく汲みとって、主人がするのと同じ行動を行った。
質問5.
この例え話で、イエスは何を言いたかったのだと思いますか。
→
私たちに与えられた天の者は、その管理する能力も同時に与えられていると信じなさい。
私の生活への適用
この勉強会の直後、これまで自分がチャレンジしたが、その後今日まで放置になっているものを
このGWを利用して整理しようと思いました。
起業しようとして立ち上げたブログや、アフェリエイトしようとして立ち上げたブログなどが
それにあたります。
これらはイエスと出会う前に肉の思いによって始められたものであり、
天から与えられて始めたものと違ってそれらを管理する能力もまた肉によるでしょう。
しかしながらイエスを信じて罪を赦された私であるなら、私の過去の罪の記録は
無かったことにされたと(義とされた)と書いてあります。
であるならば、過去に立ち上げた過去のブログなども罪としては記録されておらず、
思いが一新された現在からこれらを見れば汚れたものであって
放置し、近づかないようにするのは当然だと思われます。
しかし、主のしもべとなった私には、これらの罪の遺産はむしろ
主の贖いによって私が得た清めの力を実践する場として好都合ではありませんか!
肉の思いから出たものだからとすっかり忘れていたものが
この勉強会の直後に思いの中に湧いてきたのは単なる偶然でしょうか。
否、そうではありません。
汚れているものを清く正そうする思いは、これまでの発想には無かったものです。
ではそれは誰が私の思いの中に入れたものですか。
それは聖霊に違いありません。
私が今持っている能力の聖性とのつじつまは主がこれから合わせてくださるはずです。
主は弟子たちにただ信じろと言うのではなく、
必ず証を持ってご自身の栄光を彼らが信じるためにセットでお示しになられました。
ですから、救われた結果、清めの使命と力を私が与えられたなら、私がそれを確信するための
清められるべき対象も与えられていなければおかしいのです。
さて、主の清めの栄光を表していくため召されたのなら
まずどこから清めるべきでしょうか。
それは自分の足元から始めるのが最も理に叶っています。
何故なら悪霊の攻撃の常套手段は、私たちの過去を引っ張り出してきて責め立てることだからです。
また足元というのは、その影響範囲はせいぜい自分とその周りのごく親しい間柄に限られます。
つまり、清めるべき対象として最もリスクが低い、難易度レベル1の場所なのです
起業が必要ならば、いずれ主がそう示されるでしょう。
ですから私はまず立って
自分の足元から主の次の御言葉が降るまでの備えをしておこうと思います。
それでは
恵に満ちた一週間を!
GW最初の聖書勉強会の記録です。
以下が今日の聖書箇所でした。
25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
討論会の記録
質問1.
しもべたちは同じ金額ではなく、それぞれが異なった金額を受け取っています。もしあなたがしもべの一人だとすれば、どう思いますか。どうして主人はしもべたちに異なった金額を与えたのだと思いますか。
→(自分の回答)
大きな額は大きな責任を表します。主人は、各々のしもべの能力に応じて金額を分配していると書いてあります。ですから主人は、私たちに対して個々のレベルに応じたベストを尽くすことを要求しているのであって、儲けの金額が要求の趣旨ではないと思います。
質問2.
どうしてこの主人は、しもべたちに自分の財産であるタラントを預けて出て行ったのだと思いますか。
→
5タラントと2タラントのしもべが財産を渡されてすぐにその運用を始めたことから、ここでは運用しなさいという趣旨がこの場全員のうちで暗黙のうちの共通認識であったと思います。
質問3.
もしあなたがこのしもべのようにタラントを預けられたとしたら、どうするでしょう。
→
減らすと怒られると思い、自分への責めの回避を第一に考えて、財産を大切に取っておく。
質問4.
5タラント、2タラントを与えられた人と、1タラントを与えられた人を比べると、その行動が違っています。
その違いはどこから生まれるものだと思いますか。
→
1タラントの人は、自分が罰せられないことを第一に考えた。しかし他の二人は主人を信頼していたので、
主人の思いを正しく汲みとって、主人がするのと同じ行動を行った。
質問5.
この例え話で、イエスは何を言いたかったのだと思いますか。
→
私たちに与えられた天の者は、その管理する能力も同時に与えられていると信じなさい。
私の生活への適用
この勉強会の直後、これまで自分がチャレンジしたが、その後今日まで放置になっているものを
このGWを利用して整理しようと思いました。
起業しようとして立ち上げたブログや、アフェリエイトしようとして立ち上げたブログなどが
それにあたります。
これらはイエスと出会う前に肉の思いによって始められたものであり、
天から与えられて始めたものと違ってそれらを管理する能力もまた肉によるでしょう。
しかしながらイエスを信じて罪を赦された私であるなら、私の過去の罪の記録は
無かったことにされたと(義とされた)と書いてあります。
であるならば、過去に立ち上げた過去のブログなども罪としては記録されておらず、
思いが一新された現在からこれらを見れば汚れたものであって
放置し、近づかないようにするのは当然だと思われます。
しかし、主のしもべとなった私には、これらの罪の遺産はむしろ
主の贖いによって私が得た清めの力を実践する場として好都合ではありませんか!
肉の思いから出たものだからとすっかり忘れていたものが
この勉強会の直後に思いの中に湧いてきたのは単なる偶然でしょうか。
否、そうではありません。
汚れているものを清く正そうする思いは、これまでの発想には無かったものです。
ではそれは誰が私の思いの中に入れたものですか。
それは聖霊に違いありません。
私が今持っている能力の聖性とのつじつまは主がこれから合わせてくださるはずです。
主は弟子たちにただ信じろと言うのではなく、
必ず証を持ってご自身の栄光を彼らが信じるためにセットでお示しになられました。
ですから、救われた結果、清めの使命と力を私が与えられたなら、私がそれを確信するための
清められるべき対象も与えられていなければおかしいのです。
さて、主の清めの栄光を表していくため召されたのなら
まずどこから清めるべきでしょうか。
それは自分の足元から始めるのが最も理に叶っています。
何故なら悪霊の攻撃の常套手段は、私たちの過去を引っ張り出してきて責め立てることだからです。
また足元というのは、その影響範囲はせいぜい自分とその周りのごく親しい間柄に限られます。
つまり、清めるべき対象として最もリスクが低い、難易度レベル1の場所なのです
起業が必要ならば、いずれ主がそう示されるでしょう。
ですから私はまず立って
自分の足元から主の次の御言葉が降るまでの備えをしておこうと思います。
それでは
恵に満ちた一週間を!
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2018年05月22日
ルカの福音書 第15章〜神の御国の価値観とイエス様の愛を学ぶ〜
いつも聖書は当時のラビさんたちが使徒たちに語った通りに理解するのが
一番感動的だと思っている豆です。
感動した場面がありましたので、
今日はその感動を分かち合いたいと思います。
聖書は噛めば噛むほど味が増すスルメの様な
感動が味わえる歴史書です。
聖書理解の参考になれば嬉しいです。
まず、聖書箇所を確認します。
15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。 15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 15:25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 15:26しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 15:27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
(ルカ15:11~32)
----------【以下、この聖書箇所のイエス様がされた「たとえ話」の解説】----------
まず、ここでの場面設定を確認しておきます。
場面設定は、以下の通りです。
15:1さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。 15:2すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
すなわち、中央でイエス様が語っており、それを囲んでいる取税人、罪人(=売春婦=遊女)、そしてパリサイ人と律法学者がこれを聞いています。
ここまで見てきたたとえ話は、イエス様がパリサイ人と律法学者たちの質問に答えるかたちで話されています。
---------【以下、本文の補足】---------
15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。・・・(以下略)
ここでの「あった」は、英語訳で見てみると「have」。原文のギリシァ語では
ビオイリという動詞が使われているので、英語訳の方が意味としては正しい訳です。
つまり、この話は二種類の息子がいることの対比を伝えようとしていることがわかります。
15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
ここで、このたとえ話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この「弟」を
周りで聞いている取税人、罪人のことだと想像していました。
ここでいう「身代」は父の財産、すなわち土地です。
当時のユダヤ人たちの相続では、親が生きている間、土地の所有権は親にあって、
その土地の恵もすべて親の物でした。ですから、相続したとしても、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていました。
ですから、パリサイ人と律法学者たちは、この父親のことを「なんと愚かな奴だ」と
思ったことでしょう。
また、当時のパリサイ人と律法学者たちの間では、取税人や罪人はその魂のけがれ故に
そのまま野垂れ死にするのが常識でした。
ですから、のちにこの弟が悔い改めますが、当時のパリサイ人と律法学者たちにとって「弟」のこの行為は
とんでもない、許しがたい愚行でした。
彼らは取税人や罪人たちが悔い改めるのを極端に嫌っていたからです。
15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
ここでの「何もかもまとめて」は、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていた中で、
この弟はそれの慣習を無視して土地を売って現金にしてしまったという意味です。
家に父といることから、少なくとも弟は独身。
また、当時のユダヤ人の間で独身であれば、それは18歳以下だと推測できます。
また、後の文脈によると、この弟はユダヤ人たちが忌み嫌う職業である「豚飼い」の手伝いをさせられることになるので、ここでの「遠い国」とは、豚を飼える主人のいる土地、すなわち異邦人の国であると解釈できます。
15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
「豚飼い」はユダヤ人の間では最も忌み嫌われていた職業でした。
つまりこの箇所は、弟が「これ以上落ちることないところまで落ちた」ということの
たとえだと解釈できます。
15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
「いなご豆で腹を満たしたいほど」とあるので、この弟は異邦人の国に行って、
不当に低い賃金で雇われていたことがうかがえます。
15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
弟がここで自分が如何に愚かで、世間知らずだったということに気づき我に返ったことを受けて、
周りでこの話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この弟の悔い改めに対して
さぞや腹を立てたことでしょう。
彼らの常識では、取税人や罪人たちは、最後まで醜く死ぬべきだと考えられていたからです。
15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
パリサイ人と律法学者たちは、家に残っている父親と兄を、すなわちユダヤの地に残ってその地の戒律を厳格に遵守している自分たちと重ねていました。
ですから、弟が返ってきても、弟は放蕩の結果としての罰を受けるのが当然だと思っていました。
また、弟がまだ家までは遠い場所にいたとき、パリサイ人と律法学者たちは、この父親は当然
怒っていると思っていたので、父がこの弟の元へ駆け寄るなど思ってもいませんでした
イエス様は、それを承知でこの話をパリサイ人と律法学者たちに向かってしていたのです。
パリサイ人と律法学者たちにとっては、父は権威をもって弟が自分に近づいて
許しを請うまでそこに立っているのが当然だと思っていました。
一方、イエス様の語りの中では、この父は父なる神を象徴していました。
ですからイエス様は、父なる神は、あなたたちの思っているように権威に執着するものではなく、
悔い改めようとする者の前では、その権威を投げ捨てて、駆け寄ってその悔い改めを
喜んでくださるということをパリサイ人と律法学者たちに伝えようとしていたのです。
15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
弟の悔い改めは、取税人と罪人たちの悔い改めを象徴しています。そして、
その悔い改めに対しての父親の行いは、父なる神のその「悔い改め」を祝福する様子を表しています。
「一番良い着物」とは、当時のユダヤ人の間でその子どもに与えられる最高の権利、
すなわち「長子(=今でいう長男)の権利」の比喩です。
ちなみに、指輪は権力。靴は弟が言うような奴隷などにはしないことの比喩です。
このたとえ話は、前(マタイ20:1〜20:16)の「あとの者は先になり、先の者はあとになる」のたとえ話が語られたあと、その内容を補足するように語られているたとえ話です。
「長子の権利」を最初に持っていたのは兄です。しかし、ここでは後から来た弟にその権利が譲られています。すなわちこのたとえ話のここでは、神の国における良いことの基準は、私たち人間における良いことの基準とは違うんだというイエス様の教えが含まれています。それを、イエス様はパリサイ人と律法学者たちに教えようとしているのです。
また、
15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。
イエス様はここで、神の国の価値観が、人間の価値観とは違うんだということを教えています。
「肥えた子牛」は、当時のユダヤ人たちの間では大宴会をしても皆に食べ物が十分に行きわたる量があります。パリサイ人や律法学者たちは罪人より自分たちが天の御国に入れると思っていましたが、イエス様がここで言おうとしているのは、どれだけ律法を守ってきたかということではなく、天の御国では、弟のようなの悔い改め、すなわち信仰の復活を喜びとしているんだということを言っています。つまり、ずっと前から律法を重んじ技による救いに執着しているパリサイや律法学者のような先の者が後にそのことに気づいて救われるが、ずっと不信仰だった弟のような取税人や罪人のような後の者の方が先に信仰に立ち返り先に救われることがあるんだ、それは先の者が後に救われ、後の者が先に救われることがあるんだよということを、イエス様は教えているのです。
ちなみ、「死んでいた」状態は不信仰の状態、「生き返り」とは、信仰に返った状態のことを指します。
そして彼らは祝宴を始めた。
この宴会のテーマは再登場です。宴会は天の御国を象徴しています。
弟が宴会に入っていること。
このことで、聴衆たちは罪人だった弟が悔い改めて天の御国に入れてもらえた姿を想像できたと思います。
弟は、悔い改めた取税人、罪人の象徴です。
一方、兄はイエス様の周りで聞いているパリサイ人と律法学者たち、
「自分は悔い改める必要がないと思っている人たち」の象徴です。
兄は、弟が宴会に入っていることを喜びませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちが罪人が救われることを好まなかったことを表しています。
兄は、宴会に入ろうともしませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちは、イエス様のメシア性を否定していたからです。
そこで父が来て兄をなだめています。
15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
人間の父親ならこのようなことはあり得ませんが、
ここでの「父」とは天の父なる神様を象徴しています。
つまり、神様はご自身を否定する人たちをも宴会に招いてくださるお方なのです。
そのことをイエス様は伝えようとしています。
父は、兄が宴会に入るよう勧めています。
つまりここでは神が、あなたたちもイエス様をメシアと信じれば宴会に入れるんだよと言っているのです。
兄も本当は宴会に入りたいはずなのです。
でも、兄は宴会に入ることを拒否しました。
だったら自分も入ればいいじゃないかと思うのですが、
つまり、ここでの兄はいじけているんです。
兄は言いました。
15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
つまり、
ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
どうして律法を守らない取税人や罪人たちが宴会に招かれているんだ。
そう言って、パリサイ人と律法学者たちは、イエス様が提示した神の御国に入ることは拒否したのです。
当時のパリサイ人と律法学者たちがイエス様をメシアだと認めなかったのは、
イエス様が神聖なお方であるメシアならば、あのような取税人や罪人と食事を共にすることなど
あり得ないと思っていたからでした。
確かにイエス様が罪人と食事をしたことは事実です。ですが、パリサイ人と律法学者たちとも食事を共にされていたのです。イエス様はすべての人が御国に入ることを願い、すべての人を招かれたのですが、兄の態度は、実に侮辱的でした。
15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
これはそもそも、律法を守ることを自分たちは自発的に喜んでやったのではなく
嫌々やってきたことを自分で言っているようなものです。
15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。
兄はここで
「なのに自分は宴会を開いてもらったことがない」と言っています。
さて、ここで
弟が帰還したことで兄は何か失ったものがあるでしょうか。
ありませんよね?
兄にはもともと、父と一緒にいる喜びと、財産の所有権が与えられていました。
だから兄もずっと父の愛の中にいたのです。
15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
そうです。でも不幸なことに、兄はそのことにに気づいていないのです。
ですからこのたとえ話の中で父は兄と物理的にはずっと一緒にはいましたが
精神的には兄も無くしていたことがうかがえます。
だから最後に父はこう言ったのです。
15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
これは単に弟のことを言っているのではありません。
父は弟のことを「おまえの弟」と呼んでいます。
ですが兄は、その弟のことを
15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、
と、このように「あなたの息子」と呼んでいます。
ここがイエス様と兄、つまり、神と人間の決定的な認識の違いです。
本来、父にとってはどちらも大事な息子たちなのでです。
兄は「あなたの息子」は、「あなたの弟」だと気づくべきでした。
ここでの内容でイエス様は兄、すなわちパリサイ人と律法学者たちに
父なる神にとっては、私たちは皆兄弟であることを教えようとされておられたのです。
この「兄」の自己認識は歪んでいます。
このことは、パリサイ人と律法学者たちにも言えます。
パリサイ人と律法学者たちにはもともと選びの民として神の啓示の言葉が委ねられていたのです。
まさに兄と同じでした。
ですからこの話を聞いている現時点でパリサイ人と律法学者たちも
神の祝福の宴会に入れる位置にいたのです。
それなのに彼らは、自分たちでイエス様を否定し、宴会に入ることを拒否したのです。
イエス様は、この状況を大変悲しんだと思います。
しかし、パリサイ人と律法学者たちには、
その御心がわからなかったのです。
彼らは技による救いを求めていましたが、イエス様が言っておられるのは
天の救いは、技ではなく愛によるものであるということをここでは伝えたかったのだと思います。
----------【「たとえ話」の解説】ここまで----------
パリサイ人と律法学者たちは、自分達はずっと苦労してきたのだから
誰よりも先に天の御国に入れると思っていました。
彼らは自分たちは救われるのだから悔い改める必要はないとさえ思っていたのです。
豆もこのような経験が思い当たりました。
豆たちは頑張っているのだから、成功は与えられて当然だと考えがちです。
ですから成功しても喜びは少ないですし、
成功するまでの過程にある喜びなどは感じられるはずもありません。
ですが、このたとえ話での兄を見てもわかる通り、
兄にも神の恵みは与えられていました。
でも、兄が頑なだったばっかりに、その恵みに気づくことができなかったのです。
パリサイ人と律法学者たちも同じで、
どんなに昔から律法を守っていたとしても、
神を神とも思わない態度では決して、神に近づくことはできません。
イエス様はそのことをパリサイ人と律法学者たちにも気づかせようとされたのです。
豆だったら普通、自分が挑戦されているときに相手の心配などしません。
ですが、イエス様はご自分が彼らに試みられているときにも、彼らの幸せを願っておられたのです。
天の父なる神様は、
今日も私たちの上に恵みを運んできてくださっています。
神様の深い愛を学ぶと
喜びを感じずにはいられません。ハレルヤ!
今週もあなたと共に歩めることを感謝します。
アーメン。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:小さな祈り
一番感動的だと思っている豆です。
感動した場面がありましたので、
今日はその感動を分かち合いたいと思います。
聖書は噛めば噛むほど味が増すスルメの様な
感動が味わえる歴史書です。
聖書理解の参考になれば嬉しいです。
まず、聖書箇所を確認します。
15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。 15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 15:25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 15:26しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 15:27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
(ルカ15:11~32)
----------【以下、この聖書箇所のイエス様がされた「たとえ話」の解説】----------
まず、ここでの場面設定を確認しておきます。
場面設定は、以下の通りです。
15:1さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。 15:2すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
すなわち、中央でイエス様が語っており、それを囲んでいる取税人、罪人(=売春婦=遊女)、そしてパリサイ人と律法学者がこれを聞いています。
ここまで見てきたたとえ話は、イエス様がパリサイ人と律法学者たちの質問に答えるかたちで話されています。
---------【以下、本文の補足】---------
15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。・・・(以下略)
ここでの「あった」は、英語訳で見てみると「have」。原文のギリシァ語では
ビオイリという動詞が使われているので、英語訳の方が意味としては正しい訳です。
つまり、この話は二種類の息子がいることの対比を伝えようとしていることがわかります。
15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
ここで、このたとえ話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この「弟」を
周りで聞いている取税人、罪人のことだと想像していました。
ここでいう「身代」は父の財産、すなわち土地です。
当時のユダヤ人たちの相続では、親が生きている間、土地の所有権は親にあって、
その土地の恵もすべて親の物でした。ですから、相続したとしても、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていました。
ですから、パリサイ人と律法学者たちは、この父親のことを「なんと愚かな奴だ」と
思ったことでしょう。
また、当時のパリサイ人と律法学者たちの間では、取税人や罪人はその魂のけがれ故に
そのまま野垂れ死にするのが常識でした。
ですから、のちにこの弟が悔い改めますが、当時のパリサイ人と律法学者たちにとって「弟」のこの行為は
とんでもない、許しがたい愚行でした。
彼らは取税人や罪人たちが悔い改めるのを極端に嫌っていたからです。
15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
ここでの「何もかもまとめて」は、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていた中で、
この弟はそれの慣習を無視して土地を売って現金にしてしまったという意味です。
家に父といることから、少なくとも弟は独身。
また、当時のユダヤ人の間で独身であれば、それは18歳以下だと推測できます。
また、後の文脈によると、この弟はユダヤ人たちが忌み嫌う職業である「豚飼い」の手伝いをさせられることになるので、ここでの「遠い国」とは、豚を飼える主人のいる土地、すなわち異邦人の国であると解釈できます。
15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
「豚飼い」はユダヤ人の間では最も忌み嫌われていた職業でした。
つまりこの箇所は、弟が「これ以上落ちることないところまで落ちた」ということの
たとえだと解釈できます。
15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
「いなご豆で腹を満たしたいほど」とあるので、この弟は異邦人の国に行って、
不当に低い賃金で雇われていたことがうかがえます。
15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
弟がここで自分が如何に愚かで、世間知らずだったということに気づき我に返ったことを受けて、
周りでこの話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この弟の悔い改めに対して
さぞや腹を立てたことでしょう。
彼らの常識では、取税人や罪人たちは、最後まで醜く死ぬべきだと考えられていたからです。
15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
パリサイ人と律法学者たちは、家に残っている父親と兄を、すなわちユダヤの地に残ってその地の戒律を厳格に遵守している自分たちと重ねていました。
ですから、弟が返ってきても、弟は放蕩の結果としての罰を受けるのが当然だと思っていました。
また、弟がまだ家までは遠い場所にいたとき、パリサイ人と律法学者たちは、この父親は当然
怒っていると思っていたので、父がこの弟の元へ駆け寄るなど思ってもいませんでした
イエス様は、それを承知でこの話をパリサイ人と律法学者たちに向かってしていたのです。
パリサイ人と律法学者たちにとっては、父は権威をもって弟が自分に近づいて
許しを請うまでそこに立っているのが当然だと思っていました。
一方、イエス様の語りの中では、この父は父なる神を象徴していました。
ですからイエス様は、父なる神は、あなたたちの思っているように権威に執着するものではなく、
悔い改めようとする者の前では、その権威を投げ捨てて、駆け寄ってその悔い改めを
喜んでくださるということをパリサイ人と律法学者たちに伝えようとしていたのです。
15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
弟の悔い改めは、取税人と罪人たちの悔い改めを象徴しています。そして、
その悔い改めに対しての父親の行いは、父なる神のその「悔い改め」を祝福する様子を表しています。
「一番良い着物」とは、当時のユダヤ人の間でその子どもに与えられる最高の権利、
すなわち「長子(=今でいう長男)の権利」の比喩です。
ちなみに、指輪は権力。靴は弟が言うような奴隷などにはしないことの比喩です。
このたとえ話は、前(マタイ20:1〜20:16)の「あとの者は先になり、先の者はあとになる」のたとえ話が語られたあと、その内容を補足するように語られているたとえ話です。
「長子の権利」を最初に持っていたのは兄です。しかし、ここでは後から来た弟にその権利が譲られています。すなわちこのたとえ話のここでは、神の国における良いことの基準は、私たち人間における良いことの基準とは違うんだというイエス様の教えが含まれています。それを、イエス様はパリサイ人と律法学者たちに教えようとしているのです。
また、
15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。
イエス様はここで、神の国の価値観が、人間の価値観とは違うんだということを教えています。
「肥えた子牛」は、当時のユダヤ人たちの間では大宴会をしても皆に食べ物が十分に行きわたる量があります。パリサイ人や律法学者たちは罪人より自分たちが天の御国に入れると思っていましたが、イエス様がここで言おうとしているのは、どれだけ律法を守ってきたかということではなく、天の御国では、弟のようなの悔い改め、すなわち信仰の復活を喜びとしているんだということを言っています。つまり、ずっと前から律法を重んじ技による救いに執着しているパリサイや律法学者のような先の者が後にそのことに気づいて救われるが、ずっと不信仰だった弟のような取税人や罪人のような後の者の方が先に信仰に立ち返り先に救われることがあるんだ、それは先の者が後に救われ、後の者が先に救われることがあるんだよということを、イエス様は教えているのです。
ちなみ、「死んでいた」状態は不信仰の状態、「生き返り」とは、信仰に返った状態のことを指します。
そして彼らは祝宴を始めた。
この宴会のテーマは再登場です。宴会は天の御国を象徴しています。
弟が宴会に入っていること。
このことで、聴衆たちは罪人だった弟が悔い改めて天の御国に入れてもらえた姿を想像できたと思います。
弟は、悔い改めた取税人、罪人の象徴です。
一方、兄はイエス様の周りで聞いているパリサイ人と律法学者たち、
「自分は悔い改める必要がないと思っている人たち」の象徴です。
兄は、弟が宴会に入っていることを喜びませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちが罪人が救われることを好まなかったことを表しています。
兄は、宴会に入ろうともしませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちは、イエス様のメシア性を否定していたからです。
そこで父が来て兄をなだめています。
15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
人間の父親ならこのようなことはあり得ませんが、
ここでの「父」とは天の父なる神様を象徴しています。
つまり、神様はご自身を否定する人たちをも宴会に招いてくださるお方なのです。
そのことをイエス様は伝えようとしています。
父は、兄が宴会に入るよう勧めています。
つまりここでは神が、あなたたちもイエス様をメシアと信じれば宴会に入れるんだよと言っているのです。
兄も本当は宴会に入りたいはずなのです。
でも、兄は宴会に入ることを拒否しました。
だったら自分も入ればいいじゃないかと思うのですが、
つまり、ここでの兄はいじけているんです。
兄は言いました。
15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
つまり、
ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
どうして律法を守らない取税人や罪人たちが宴会に招かれているんだ。
そう言って、パリサイ人と律法学者たちは、イエス様が提示した神の御国に入ることは拒否したのです。
当時のパリサイ人と律法学者たちがイエス様をメシアだと認めなかったのは、
イエス様が神聖なお方であるメシアならば、あのような取税人や罪人と食事を共にすることなど
あり得ないと思っていたからでした。
確かにイエス様が罪人と食事をしたことは事実です。ですが、パリサイ人と律法学者たちとも食事を共にされていたのです。イエス様はすべての人が御国に入ることを願い、すべての人を招かれたのですが、兄の態度は、実に侮辱的でした。
15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
これはそもそも、律法を守ることを自分たちは自発的に喜んでやったのではなく
嫌々やってきたことを自分で言っているようなものです。
15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。
兄はここで
「なのに自分は宴会を開いてもらったことがない」と言っています。
さて、ここで
弟が帰還したことで兄は何か失ったものがあるでしょうか。
ありませんよね?
兄にはもともと、父と一緒にいる喜びと、財産の所有権が与えられていました。
だから兄もずっと父の愛の中にいたのです。
15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
そうです。でも不幸なことに、兄はそのことにに気づいていないのです。
ですからこのたとえ話の中で父は兄と物理的にはずっと一緒にはいましたが
精神的には兄も無くしていたことがうかがえます。
だから最後に父はこう言ったのです。
15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
これは単に弟のことを言っているのではありません。
父は弟のことを「おまえの弟」と呼んでいます。
ですが兄は、その弟のことを
15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、
と、このように「あなたの息子」と呼んでいます。
ここがイエス様と兄、つまり、神と人間の決定的な認識の違いです。
本来、父にとってはどちらも大事な息子たちなのでです。
兄は「あなたの息子」は、「あなたの弟」だと気づくべきでした。
ここでの内容でイエス様は兄、すなわちパリサイ人と律法学者たちに
父なる神にとっては、私たちは皆兄弟であることを教えようとされておられたのです。
この「兄」の自己認識は歪んでいます。
このことは、パリサイ人と律法学者たちにも言えます。
パリサイ人と律法学者たちにはもともと選びの民として神の啓示の言葉が委ねられていたのです。
まさに兄と同じでした。
ですからこの話を聞いている現時点でパリサイ人と律法学者たちも
神の祝福の宴会に入れる位置にいたのです。
それなのに彼らは、自分たちでイエス様を否定し、宴会に入ることを拒否したのです。
イエス様は、この状況を大変悲しんだと思います。
しかし、パリサイ人と律法学者たちには、
その御心がわからなかったのです。
彼らは技による救いを求めていましたが、イエス様が言っておられるのは
天の救いは、技ではなく愛によるものであるということをここでは伝えたかったのだと思います。
----------【「たとえ話」の解説】ここまで----------
パリサイ人と律法学者たちは、自分達はずっと苦労してきたのだから
誰よりも先に天の御国に入れると思っていました。
彼らは自分たちは救われるのだから悔い改める必要はないとさえ思っていたのです。
豆もこのような経験が思い当たりました。
豆たちは頑張っているのだから、成功は与えられて当然だと考えがちです。
ですから成功しても喜びは少ないですし、
成功するまでの過程にある喜びなどは感じられるはずもありません。
ですが、このたとえ話での兄を見てもわかる通り、
兄にも神の恵みは与えられていました。
でも、兄が頑なだったばっかりに、その恵みに気づくことができなかったのです。
パリサイ人と律法学者たちも同じで、
どんなに昔から律法を守っていたとしても、
神を神とも思わない態度では決して、神に近づくことはできません。
イエス様はそのことをパリサイ人と律法学者たちにも気づかせようとされたのです。
豆だったら普通、自分が挑戦されているときに相手の心配などしません。
ですが、イエス様はご自分が彼らに試みられているときにも、彼らの幸せを願っておられたのです。
天の父なる神様は、
今日も私たちの上に恵みを運んできてくださっています。
神様の深い愛を学ぶと
喜びを感じずにはいられません。ハレルヤ!
今週もあなたと共に歩めることを感謝します。
アーメン。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:小さな祈り
2018年05月19日
聖書が教えてくれた、母の鬱との向きい合い方
昨日の記事で母の鬱についての不満を吐き出したら、
その晩久々にまた母の鬱がMAXになり、
家中が「またか。もうやめてくれよー」のとても悪い空気になりました。
このように母にかき回されるとき、
いつもは家族みんながそのようになった母を排除しようという空気になります。
もちろん昨晩も最初はそういう空気になったのですが、
昨晩の豆には少し、いつもとは違うことが起きたのです。
いつもは母に対しての怒りと、
もうこの家には居たくないとしか思いませんでした。
しかし昨晩は、もちろん母への怒りはありましたが、
それと同時に
こういう気持ちばかりだから家族がバラバラになるんだよな〜
という、なんというか
母に対する憐みというか、母を許すことができないだろうか〜
という
そういう気持ちが湧いてきたのです。
かつても母を理解しようと頑張ったことがありましたが、
そのときはどうしてもできず、結局母から離れることでうやむやにして
自分をごまかすことしかできませんでした。
ですから普通ではこのようなことはあり得ないのです。
ではなぜ、このあり得ないことが起きたのか。
それはきっと、
苦難の末、豆の「苦労ばかりさせる母を許せない」というプライドを
神様が砕いてくださったんだと思います。
思い起こせば豆がクリスチャンになったときも、
このように神様に頑ななプライドを砕かれて、
当時抱えていた問題はもう自力では解決できないということを受け止められて
重荷から解放された経験があります。
実際問題、そのプライドを捨てたからといって
それによって何か困ったことが起きたりはしませんでした。
そのことを思い出したとき
豆はこのように神様に砕かれるたびに
実は、神様に正しい道へ導いていただいていることに気が付きました。
そのようなわけで、
今回の豆は自分からプライドを捨てて、
神様に「母を救ってください」と祈ることにしました。
本当は豆のことを一番救ってほしいのです。でも何故か、
豆を救ってくださいと祈ることは間違いであるかのように思えます。
***以下、神様に砕かれ中***
なぜならば、
まず第一に、豆はもう神様に罪を全部許してもらっています。
神様に許してもらってる豆にはもう、それ以上の許しは必要ありません。
ですから父なる神様を見習って、自分が恵みを与えらたように、
今度は豆が恵を与える番です。
母のように鬱になる人の鬱症状が起きる原因のほとんどは、
自分で自分を責めているせいです。
自分で自分を許せないから、
あのような問題行動を起こして豆たちの気を引いて、
自分を豆たちに許してもらおうとしているのです。
でも実際は、たとえ豆たちが「いいよ。許してあげるよ〜」と言っても
母のような人は救われません。
それどころか、
許されるはずがない自分が、
しかもわざとわがままを言って相手を困らせて許されるような
罪の上塗りをしてしまったことを、一番自覚しているのは母自身なのです。
ですから豆たちが許したことでかえって罪の意識は増大しているはずです。
だから豆たちが優しくすればするほど益々母は苦しむことになるのです。
うつ病の人はこうして罪に罪を重ねることで、もう自分はとうてい許されることのない領域へ
どんどん自分を追い込んでいく負のスパイラルの中でもがくしかなくなっていきます。
ですから第二に、今この状況で
本当に救われなければならないのは豆より母の方でなければならないのです。
結局のところ、豆が救われたところで母が救われなけば、
その救いようのない母を見続けることに変わりはないので、結局豆は救われないことになります。
でも母が救われれば、神様が豆を直接救わなくても、
救われて憑き物が落ちたような顔をした母を見れば豆はそれで救われるのです。
(おお!確かにそうだ!母はそういう状態だったのですね!アーメン!)
******
さっきまで母にどう接していいかわからなくなっていた豆ですが、
今は母のために祈るという道を見つけることができています。
母を許せないという、
ついさっきまでの傲慢な態度はどこへ行ったのか。
今はとても清々しい、優しい気持ちになっています。
ああ、クリスチャンになったということは、
なんと素晴らしいことでしょう。
******
感謝します。
あなたが母を理解するために心を砕いてくださったおかげで
私は今、ようやく母を許せるような気がしてきました。
心が砕かれる前は自分でももう、どう接してよいかわからなくなっていて
もし今、あなたが恵によってこの心を砕いてくださらなかったら、
私はまた心を閉ざしてしまうところでした。
母のために祈る豆を
引き続き正しい方へ導いてくださるよう
お願い致します。
アーメン。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Above All
その晩久々にまた母の鬱がMAXになり、
家中が「またか。もうやめてくれよー」のとても悪い空気になりました。
このように母にかき回されるとき、
いつもは家族みんながそのようになった母を排除しようという空気になります。
もちろん昨晩も最初はそういう空気になったのですが、
昨晩の豆には少し、いつもとは違うことが起きたのです。
いつもは母に対しての怒りと、
もうこの家には居たくないとしか思いませんでした。
しかし昨晩は、もちろん母への怒りはありましたが、
それと同時に
こういう気持ちばかりだから家族がバラバラになるんだよな〜
という、なんというか
母に対する憐みというか、母を許すことができないだろうか〜
という
そういう気持ちが湧いてきたのです。
かつても母を理解しようと頑張ったことがありましたが、
そのときはどうしてもできず、結局母から離れることでうやむやにして
自分をごまかすことしかできませんでした。
ですから普通ではこのようなことはあり得ないのです。
ではなぜ、このあり得ないことが起きたのか。
それはきっと、
苦難の末、豆の「苦労ばかりさせる母を許せない」というプライドを
神様が砕いてくださったんだと思います。
思い起こせば豆がクリスチャンになったときも、
このように神様に頑ななプライドを砕かれて、
当時抱えていた問題はもう自力では解決できないということを受け止められて
重荷から解放された経験があります。
実際問題、そのプライドを捨てたからといって
それによって何か困ったことが起きたりはしませんでした。
そのことを思い出したとき
豆はこのように神様に砕かれるたびに
実は、神様に正しい道へ導いていただいていることに気が付きました。
そのようなわけで、
今回の豆は自分からプライドを捨てて、
神様に「母を救ってください」と祈ることにしました。
本当は豆のことを一番救ってほしいのです。でも何故か、
豆を救ってくださいと祈ることは間違いであるかのように思えます。
***以下、神様に砕かれ中***
なぜならば、
まず第一に、豆はもう神様に罪を全部許してもらっています。
神様に許してもらってる豆にはもう、それ以上の許しは必要ありません。
ですから父なる神様を見習って、自分が恵みを与えらたように、
今度は豆が恵を与える番です。
母のように鬱になる人の鬱症状が起きる原因のほとんどは、
自分で自分を責めているせいです。
自分で自分を許せないから、
あのような問題行動を起こして豆たちの気を引いて、
自分を豆たちに許してもらおうとしているのです。
でも実際は、たとえ豆たちが「いいよ。許してあげるよ〜」と言っても
母のような人は救われません。
それどころか、
許されるはずがない自分が、
しかもわざとわがままを言って相手を困らせて許されるような
罪の上塗りをしてしまったことを、一番自覚しているのは母自身なのです。
ですから豆たちが許したことでかえって罪の意識は増大しているはずです。
だから豆たちが優しくすればするほど益々母は苦しむことになるのです。
うつ病の人はこうして罪に罪を重ねることで、もう自分はとうてい許されることのない領域へ
どんどん自分を追い込んでいく負のスパイラルの中でもがくしかなくなっていきます。
ですから第二に、今この状況で
本当に救われなければならないのは豆より母の方でなければならないのです。
結局のところ、豆が救われたところで母が救われなけば、
その救いようのない母を見続けることに変わりはないので、結局豆は救われないことになります。
でも母が救われれば、神様が豆を直接救わなくても、
救われて憑き物が落ちたような顔をした母を見れば豆はそれで救われるのです。
(おお!確かにそうだ!母はそういう状態だったのですね!アーメン!)
******
さっきまで母にどう接していいかわからなくなっていた豆ですが、
今は母のために祈るという道を見つけることができています。
母を許せないという、
ついさっきまでの傲慢な態度はどこへ行ったのか。
今はとても清々しい、優しい気持ちになっています。
ああ、クリスチャンになったということは、
なんと素晴らしいことでしょう。
******
感謝します。
あなたが母を理解するために心を砕いてくださったおかげで
私は今、ようやく母を許せるような気がしてきました。
心が砕かれる前は自分でももう、どう接してよいかわからなくなっていて
もし今、あなたが恵によってこの心を砕いてくださらなかったら、
私はまた心を閉ざしてしまうところでした。
母のために祈る豆を
引き続き正しい方へ導いてくださるよう
お願い致します。
アーメン。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Above All
2018年05月16日
聖書が教えている結婚観、離婚観とは?
TVのニュースで女性の権利が拡大しているという
ニュースを見ていて、あるキーワードに違和感を覚えました。
それは「離婚」です。
結婚もまだな豆が離婚を心配するのはおかしいかもしれません。
国会でも女性の声をより反映させていく法律ができたようですが、
何でもかんでも女性が正しいというのには
いささか手放しでは喜べないのが本音です。
豆の家庭はいわゆる「かかあ天下」でしたが、良い面もあれば
悪い面もありました。
特に母が感情で家庭をかき回すのには、幼い頃から恐怖と怒りを
持っていました。やがて母が子どもらが全員就職して家に1人になる時間が増えると鬱になり、
それがまた家庭をかき回すのが豆はもの凄く嫌でした。
豆の婚期が伸びていることもこのことは少なくとも影響を及ぼしているような気がします。
そのようなわけで、女性の心の都合だけで結婚したり離婚したり
何でも女性の意見がそのまままかり通るのは
将来に対してもの凄く不安を覚えました。
そこで、真理を知る神様は、この豆の不安についてどうお考えなのかを知るために、
いつものように聖書に立ち返ってみたのです。
すると、やっぱりありました。離婚についての真理の箇所が
聖書にはちゃんとかいてあるではありませんか!
そのような訳で、今日は結婚、離婚について
できれば結婚したことのある、かつ離婚も考えたこともある女性の方に
聖書に基づく考え方の学びを豆に分かち合わせてください。
実際のリアルなお声をいただけたら尚、幸いです。
誠に恐縮ではありますが、未熟な豆に最後までお付き合いいただければと存じます。
どうぞ宜しくお願いします。
*****
結婚、離婚については、以下の聖書箇所で触れられていました。
新約聖書、マタイの福音書19章です。
19:3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
(マタイ19:3〜6)
結論から言いますと、
神様は本来、創造の秩序の中で離婚というものを創造していません。
また、旧約聖書の申命記には離婚について、モーセの律法の箇所に記述があります。
申命記 24:1)によれば
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。
とあります。しかしこれは、モーセが、私が頑ななために、
離婚状をわたせば離婚して良いと
妥協しているのです。
ここでの「妻に何か恥ずべき事」とは何でしょうか。
聖書を正しく理解するためには、できるだけ聖書が書かれた当時のユダヤ人たちと
同じ視点を持って聖書を解釈しなければなりません。
ですから、ここで当時のユダヤ人たちの聖書理解と同じ立場に立てば、
離婚が見とれられるのは不貞(姦淫)だけです。
ここで注意すべきポイントは、2つです。
まず、1つめはモーセの律法の時代、すなわち旧約聖書の時代においては
離婚の権利があるのは男性だけです。
余談ですが、現在でのユダヤ教の地域では、
今でも法律で離婚が許されているのが男性だけだという地域が存在します。
それだけ、この時代でのユダヤ人たちの間では、男尊女卑のムードが強かったのです。
*****
イエス様がまだ生きておられたこの頃は、まだ旧約聖書の時代のムードが色濃い時代でした。
しかし、イエス様は
離婚の条件は「妻の不貞だけでなく、夫の不貞も問題にせよ。」と言われています。
つまり、女性だけでなく、男性側にも問題があるだろう?と指摘されているのです。
これが、旧約聖書の時代から新約聖書の時代になって
モーセの律法から解放された後の、新しい離婚に対する考え方なのです。
ではイエス様は離婚を認められたのでしょうか?
いいえ。違います。
この時代のイエス様は父である神様に従って、神の御心を伝えるお方でした。
神様の御心は完全で、永遠なものなので、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に変わったとしても
その意図は、つまり真理は変わらないはずです。
ですから、イエス様が神様の結婚と離婚についてのお考えをどのように私たちに教えてくださっているのか、1つ1つの聖句をもう少し詳しく見てみましょう。
*****
パリサイ人たちが離婚について、
イエス様に
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
と質問したとき、
イエス様は次のように答えられています。
19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。
つまりイエス様はこう教えられたのです。
神様は初めから人類を男と女に造られたんだ。だから人(=男)は必ずその妻と結ばれて一心同体、
ようやくそれで一人前になるのだ。だから離婚なんてあり得ることではないのです。
(【お詫び】当時のユダヤ人たちの間では、男性にのみ結婚・離婚の権利が与えられていました。ですから、「(=男)」としたのは、女性は結婚・離婚を決める立場になかったんだということを強調するためです。これは女性を差別しているのではなく、聖書を正しく理解する上ではどうしても当時のユダヤ人たちが理解したのとなるべく同じ理解になるように、意味を理解しなければならないためです。気分を害された女性の方がいらした場合は、何卒、ご容赦ください。)
これは創世記で、まず男性のアダムが大地の塵から造られ、続いて女性のエバがその助け手としてアダムのアバラ骨から造られたことを言っています。
アダムの使命は人類以外の地上のあらゆる生物たちを神の御心に従って支配することでした。
人間の感覚ですと、支配者は一人でいいはずです。
人間は今でも支配者が複数いると必ず争いが起きますよね?
しかし、神様は(神様の感覚では)助け手としてエバをわざわざお作りになられたのです。
つまり、人類は男と女、二人で一人前になるように、神様は私たちをお作りになったのです。
そして結論、
19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』
これが結婚というものの、神様の意図なのです。
ですから、
離婚はあり得ない。
これが、豆の離婚に関する聖書的理解です。
*****
私たちの天のお父様は、こうしてみると確かに
私たちは「妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる」のが当たり前だと
おっしゃっておられます。
でも、
実際私たちは、離婚を禁止することはあり得ません。
では、この離婚というものを
クリスチャンである私たちはどのように考えたら良いでしょうか。
実は、ここに人間の相手を許せない性質が現れているのだと
豆は思います。
前回の記事「恵みを受け、恵みを与える」で、
如何にクリスチャンにとって「許し」の聖書的理解を深めることが重要なのかを
まとめました。
それを基に考えてみると、
どうしても離婚から執着が離れないときの処方箋として
神様の御心に関する豆の結論はこうです。
離婚ではなく、許しと和解によって結婚を継続すること。
これが、神様が望んでおられる
私たちの結婚というものの在り方なのだと、豆は思います。
結局のところ、離婚問題も、その要は「許し」と「プライド」の問題に集約されるのです。
「あの男を許せというのか!」と怒る気持ちはわかりますが、
それこそ神様の深い愛と、自分がどれだけ神様に許してもらったかに立ち返り、
「許し」を実践すべきです。
それは何も相手のことだけではないでしょう。
未熟だった自分を許したり、おのおのの育った環境や今の状況を許したり、
許す対象も1つではないはずです。
それでも「やっぱり許せない!」
その通りでしょう。
それでいいのです。
私たちはそうやって「どんなに頑張ってもできないことがある」
ことを学ぶのです。
そうすると次は自然に
「ああ、神様・・・お願いします。。。どうか私に・・・させてください。」
と祈りたくなると思います。
18:4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
(マタイ18:4)
そのような訳で、イエス様は私たちの信仰が育つためには
そのような自分の弱さに気づき、単純な信頼を持って神様に近づく、
まるで子どものような心に立ち返ることが
何よりも大切なのですとお教えくださっているのです。
ですから、前回も触れましたが
1、プライドの問題
2、兄弟たちに対する許しの方法
3、許しに関する理解
この3つの聖書的理解をしっかりと深めていくことは
クリスチャン生活を本来あるべき自由で、ダイナミックなものにするためには、
やはり不可欠なのです。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Broken Vessels
追記
ニュースを見ていて、あるキーワードに違和感を覚えました。
それは「離婚」です。
結婚もまだな豆が離婚を心配するのはおかしいかもしれません。
国会でも女性の声をより反映させていく法律ができたようですが、
何でもかんでも女性が正しいというのには
いささか手放しでは喜べないのが本音です。
豆の家庭はいわゆる「かかあ天下」でしたが、良い面もあれば
悪い面もありました。
特に母が感情で家庭をかき回すのには、幼い頃から恐怖と怒りを
持っていました。やがて母が子どもらが全員就職して家に1人になる時間が増えると鬱になり、
それがまた家庭をかき回すのが豆はもの凄く嫌でした。
豆の婚期が伸びていることもこのことは少なくとも影響を及ぼしているような気がします。
そのようなわけで、女性の心の都合だけで結婚したり離婚したり
何でも女性の意見がそのまままかり通るのは
将来に対してもの凄く不安を覚えました。
そこで、真理を知る神様は、この豆の不安についてどうお考えなのかを知るために、
いつものように聖書に立ち返ってみたのです。
すると、やっぱりありました。離婚についての真理の箇所が
聖書にはちゃんとかいてあるではありませんか!
そのような訳で、今日は結婚、離婚について
できれば結婚したことのある、かつ離婚も考えたこともある女性の方に
聖書に基づく考え方の学びを豆に分かち合わせてください。
実際のリアルなお声をいただけたら尚、幸いです。
誠に恐縮ではありますが、未熟な豆に最後までお付き合いいただければと存じます。
どうぞ宜しくお願いします。
*****
結婚、離婚については、以下の聖書箇所で触れられていました。
新約聖書、マタイの福音書19章です。
19:3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
(マタイ19:3〜6)
結論から言いますと、
神様は本来、創造の秩序の中で離婚というものを創造していません。
また、旧約聖書の申命記には離婚について、モーセの律法の箇所に記述があります。
申命記 24:1)によれば
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。
とあります。しかしこれは、モーセが、私が頑ななために、
離婚状をわたせば離婚して良いと
妥協しているのです。
ここでの「妻に何か恥ずべき事」とは何でしょうか。
聖書を正しく理解するためには、できるだけ聖書が書かれた当時のユダヤ人たちと
同じ視点を持って聖書を解釈しなければなりません。
ですから、ここで当時のユダヤ人たちの聖書理解と同じ立場に立てば、
離婚が見とれられるのは不貞(姦淫)だけです。
ここで注意すべきポイントは、2つです。
まず、1つめはモーセの律法の時代、すなわち旧約聖書の時代においては
離婚の権利があるのは男性だけです。
余談ですが、現在でのユダヤ教の地域では、
今でも法律で離婚が許されているのが男性だけだという地域が存在します。
それだけ、この時代でのユダヤ人たちの間では、男尊女卑のムードが強かったのです。
*****
イエス様がまだ生きておられたこの頃は、まだ旧約聖書の時代のムードが色濃い時代でした。
しかし、イエス様は
離婚の条件は「妻の不貞だけでなく、夫の不貞も問題にせよ。」と言われています。
つまり、女性だけでなく、男性側にも問題があるだろう?と指摘されているのです。
これが、旧約聖書の時代から新約聖書の時代になって
モーセの律法から解放された後の、新しい離婚に対する考え方なのです。
ではイエス様は離婚を認められたのでしょうか?
いいえ。違います。
この時代のイエス様は父である神様に従って、神の御心を伝えるお方でした。
神様の御心は完全で、永遠なものなので、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に変わったとしても
その意図は、つまり真理は変わらないはずです。
ですから、イエス様が神様の結婚と離婚についてのお考えをどのように私たちに教えてくださっているのか、1つ1つの聖句をもう少し詳しく見てみましょう。
*****
パリサイ人たちが離婚について、
イエス様に
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
と質問したとき、
イエス様は次のように答えられています。
19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。
つまりイエス様はこう教えられたのです。
神様は初めから人類を男と女に造られたんだ。だから人(=男)は必ずその妻と結ばれて一心同体、
ようやくそれで一人前になるのだ。だから離婚なんてあり得ることではないのです。
(【お詫び】当時のユダヤ人たちの間では、男性にのみ結婚・離婚の権利が与えられていました。ですから、「(=男)」としたのは、女性は結婚・離婚を決める立場になかったんだということを強調するためです。これは女性を差別しているのではなく、聖書を正しく理解する上ではどうしても当時のユダヤ人たちが理解したのとなるべく同じ理解になるように、意味を理解しなければならないためです。気分を害された女性の方がいらした場合は、何卒、ご容赦ください。)
これは創世記で、まず男性のアダムが大地の塵から造られ、続いて女性のエバがその助け手としてアダムのアバラ骨から造られたことを言っています。
アダムの使命は人類以外の地上のあらゆる生物たちを神の御心に従って支配することでした。
人間の感覚ですと、支配者は一人でいいはずです。
人間は今でも支配者が複数いると必ず争いが起きますよね?
しかし、神様は(神様の感覚では)助け手としてエバをわざわざお作りになられたのです。
つまり、人類は男と女、二人で一人前になるように、神様は私たちをお作りになったのです。
そして結論、
19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』
これが結婚というものの、神様の意図なのです。
ですから、
離婚はあり得ない。
これが、豆の離婚に関する聖書的理解です。
*****
私たちの天のお父様は、こうしてみると確かに
私たちは「妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる」のが当たり前だと
おっしゃっておられます。
でも、
実際私たちは、離婚を禁止することはあり得ません。
では、この離婚というものを
クリスチャンである私たちはどのように考えたら良いでしょうか。
実は、ここに人間の相手を許せない性質が現れているのだと
豆は思います。
前回の記事「恵みを受け、恵みを与える」で、
如何にクリスチャンにとって「許し」の聖書的理解を深めることが重要なのかを
まとめました。
それを基に考えてみると、
どうしても離婚から執着が離れないときの処方箋として
神様の御心に関する豆の結論はこうです。
離婚ではなく、許しと和解によって結婚を継続すること。
これが、神様が望んでおられる
私たちの結婚というものの在り方なのだと、豆は思います。
結局のところ、離婚問題も、その要は「許し」と「プライド」の問題に集約されるのです。
「あの男を許せというのか!」と怒る気持ちはわかりますが、
それこそ神様の深い愛と、自分がどれだけ神様に許してもらったかに立ち返り、
「許し」を実践すべきです。
それは何も相手のことだけではないでしょう。
未熟だった自分を許したり、おのおのの育った環境や今の状況を許したり、
許す対象も1つではないはずです。
それでも「やっぱり許せない!」
その通りでしょう。
それでいいのです。
私たちはそうやって「どんなに頑張ってもできないことがある」
ことを学ぶのです。
そうすると次は自然に
「ああ、神様・・・お願いします。。。どうか私に・・・させてください。」
と祈りたくなると思います。
18:4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
(マタイ18:4)
そのような訳で、イエス様は私たちの信仰が育つためには
そのような自分の弱さに気づき、単純な信頼を持って神様に近づく、
まるで子どものような心に立ち返ることが
何よりも大切なのですとお教えくださっているのです。
ですから、前回も触れましたが
1、プライドの問題
2、兄弟たちに対する許しの方法
3、許しに関する理解
この3つの聖書的理解をしっかりと深めていくことは
クリスチャン生活を本来あるべき自由で、ダイナミックなものにするためには、
やはり不可欠なのです。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Broken Vessels
追記
タグ:イエス・キリスト
2018年05月14日
恵みを受け、恵みを与える
国王に対して一万タラントの借金をしていた人が、国王の憐みによってその一万タラントを許された。
でもその許された人は、100デナリの借金をしていた友人を許さず返すまで投獄した。
それを知って怒った国王は、その人の一万タラントの借金免除を取り消して同じように返すまで投獄した。
という聖書箇所の解説メッセージを聞きました。
一万タラントと100デナリの対比は、現在でいう6千万円に対して100円というのと同じです。
つまり、ここでの聖書箇所は、自分は6千万円の借金を免除されたのに、お前は友人の100円の借金が
許せないのかということを指摘しているのです。
この箇所は、次の部分の例として出ている個所でした。
18:21そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マルコ18:21〜22)
このときのペテロは自分がとても寛大な気持ちだったと思います。
当時の使途の間では、3回までは許しなさいと教えられていました。ですが
ここでは7回。この数字は、3の2倍でも寛大なのに、さらにもう1回おまけして与えたというのが
実際でしょう。
少なくとも、豆だったらそう考えると思います。
ですが、それに対してイエス様は、7の70倍までも許しなさいと教えています。
ですが、ここでの7の70倍とは490回という意味ではありません。
もし、490回許しても491回目にやったら許さなくて良いということは
それはどのようなことでしょうか。
491回目はどうなんだ?と聞く時点で
実はこれはおかしいのです。
490回もその人は許した回数をカウントしていたことになりますが、
それは1回だって許したことにはならないはずです。
「許す」とは「水に流す」こと。
つまり、忘れることです。
つまりイエス様がここでペテロに教えていることは、回数ではなく、
「忘れなさい」と言っているのです。
なぜならば、ペテロ、あなたはもう父なる神様に許されているではありませんか。と。
*****
ここまで理解が進むと、先ほどの一万タラントと100デナリの借金の許しの例の
内容が見えてきます。
神様の愛は、計り知れないほど大きなものです。
そもそも私たちには罪を許してもらえる資格すらありません。
だって、アダム以降から脈々と続く神様に対する罪を償うことなど
私たちにはできないではありませんか!
それでも神様は、私たちが主イエスを救い主と信じたときから
私たちに永遠の命を約束され、私たちのすべての罪を許してくださいました。
それほど計り知れない許しを受けているのに、
なぜ兄弟たちのちっぽけな罪が許せないのですか?
そんなもの忘れてしまいなさい。
そう、イエス様は聖書を通じて私たちに語りかけてくださっているのだと
豆はこのとき思いました。
*****
それでも私たちは、神様に許してくださいと祈りながら、
「でもあの人だけは許せない!」と、なかなか兄弟たちの罪が忘れられないものです。
ですからイエス様はここでも念を押して言われました。
18:18はっきり言っておきます。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれるのです。
(マタイ18:18)
ここで、「つなぐ」とは禁止すること。また「解く」とは許可することです。
これは主イエスが自分が死んだ後に使徒たちがどのように振舞えばいいかを教えている場面です。
このとき主イエス亡き後は、使徒たちが人々を導く、それがどういうことなのかをイエス様は
心配しておられました。
ですからここでイエス様は強調して、
「私は神以外の何物の奴隷にもならない。」というプライドを持てと
使徒たちに教えていたのです。
*****
さて、私たちは現在どのようなプライドを持っているでしょうか。
クリスチャンの持つべき正しいプライドは、今まさにイエス様が述べていた通り
「私は神以外の何者の奴隷にもならない。」というものです。
ですが、豆も含め、多くの兄弟たちは
人と比べ、妬む。
そのようなプライドを持っているのではないでしょうか。
それほど計り知れない許しを受けているのに、
なぜ兄弟たちのちっぽけな罪が許せないのですか?
そんなもの忘れてしまいなさい。
イエス様は先ほどそう言われましたね?
ちっぽけなプライドなど捨てなさいと。
それは何故かというと、
そのような自分というものに執着するさまざまなプライドを持っているせいで、
本来、この世のあらゆる束縛から解放された自由なクリスチャンライフが
満喫できなくなってしまうからです。
そんなもの忘れてしまいなさい。
この言葉はまさにそのような私たちの心の開放を促している言葉です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、
何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって、自分を変えなさい。
(ロマ書12:1~2)
「この世」とは、「この時代」と訳します。
また、「合わせる」という動詞は、原文のギリシャ語では受動態の動詞が使われています。
受動態が使われているとき、その動作の主体は自分ではなく、自分の外にあるということです。
また、ここでは否定命令文が使われていて、英語で言うA but B、
「Aではない。Bである。」の論法になっています。
それらを踏まえるとここは、次のような意味の理解になります。つまり、
「この時代」が、何らかの意図を持ってこちらを操作しよう強烈にこちらに働きかけてくるけれど、
しかし、その意図に従ってはいけません。
ほら、ここでも時代の流れに流されるなという心の解放の教えが説かれています。
繰り返しますが、クリスチャンの立ち位置は
「私は神以外の何者の奴隷にもならない。」
その軸のみです。クリスチャンである私たちは
変化する時代の価値観ではなく、時代が変わっても変わらない聖書に立ち返ればいいのです。
聖書は神様の栄光の書。栄光とはプライドのことです。
それは、神様の預言は必ず成就するという
完全で、永遠な、この世界の真理です。
真理は、時代の環境や人の世論などで変わったりはしません。
私たちクリスチャンは、その変わらない真理によって、恵みによって
守られています。
だからこそイエス様は、
神様の愛の中にあるのだから、ちっぽけなプライドは捨てなさい。
自由になっていいんだよ〜
と言ってくださっているのです。
*****
私たちの肉の心では常に、誰が1番か、などと優劣のプライドを持っています。
(正):私は神以外の何物の奴隷にもならない。
(違):人と比べる。妬む。
間違ったプライドを捨てることは、なんと難しいのでしょうか。
使徒たちですら、イエスの十字架による死を前にして
誰が一番偉い弟子であるかを競っています。
18:01そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:02そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 18:03言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:04自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
(マタイ18:01~04)
それに対してイエス様は、
そうではない。神の愛の中では皆、家族なのだ。愛されているという真理に、順番などあるだろうか。
と諭しています。
子どもは自分の弱さを知っているが故に、父親や母親に全幅の信頼を置いていなければ
生きていくことができません。子どもの頃に虐待を受けた人が大人になっても傷を引きずるのは
このためです。信頼してすがるしかなかったが故に、その傷はもの凄く深いのです。
このような、子どものような
自分の限界を知って、単純な信頼を持って神に近づくということ。
これがクリスチャンの基本姿勢です。
そもそも両親に子どもたちが信頼を置いている家庭では、
子どもたちの間に誰が一番だというふうな順位付けはありません。それは家族だからです。
おのおのがおのおのの特徴を認めることができ、互いに等しく愛に包まれて生活しているからです。
神の恵みを受けた人、つまり神の恵みがどれくらい大きなものかを受け入れた人は、
どんなに小さな価値のないと思えるようなものであっても、等しく、それを受け入れるようになります。
神様は誰に対してもその人に応じた最も必要な愛を恵みとして示されるだけです。
そこに、恵みの大小に関するプライドが論じられる余地はないハズです。
ですから、恵みにどれだけ応答でき、神のご計画の進展に協力したかが問われる天の御国では
子供のように自分を一番低くするものが、一番評価されるのです。
それは御子イエスの愛の性質に、愛に素直な子どもの性質が最も近いからです。
*****
まとめると、
恵みを受け、恵みを与えるその基本的な考え方は、
神様の愛から出ています。
そして、その愛をきちんと理解したならば、
その受けている神の神格(人で言う人格)を信頼しているが故に、
神様と同じように、兄弟たちに恵みを与えられるはずです。
このとき、
恵みを与える方は、神を信頼するというプライドのみしかなく、
恵みを与えられる方には、その恵みの大小を他人と比較するプライドは生じ得ません。
それは、赦し(=許し)についても同様です。
許すことは恵みを与えること。
神を信頼するプライドに立つならば、その与える恵みもそのプライドに沿って
ぐちぐち言うことなく、サッと忘れて水に流す恵みの形をとるはずです。
こうして私たちは信仰によって御子イエスの人格に近づくとき、
おのずとこの世の様々なプライドから解放され、大胆かつ自由に振舞うことが
できるようになります。
ですから私たちは
よく教理を学んで、まずよく知識を増やします。
そして、自分の心が神様が喜んでくれる状態かどうかを意識します。
あなたが御子イエスの人格に近づいていっているというプライドによって
自身の振る舞いが大胆、かつ自由になると、
その心が、あなたの周囲の人間関係に反映され
「この時代」などの環境の変化に関係なく、
いつも愛と喜びにあふれた生活を送れるようになります。
神の愛、すなわち、
あなたの「お心」ではなく神の「御心(みこころ)」に従って
もっと大胆に、
もっと自由に生きようではありませんか!
これが、クリスチャンライフの醍醐味です。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名: This Is Amazing Grace
タグ:イエス・キリスト
2018年05月12日
豆が思う、仏教とキリスト教の違い。
「なぜ、仏教からキリスト教へ移ったのですか?」
仏教が戒律ありきの頑張り信仰なのに対し、
キリスト教はイエス・キリストを救い主と受け入れることで始まる
非頑張り信仰だからです。
日本人は、頑張った結果、幸せになるのが好きです。
とりわけ頑張った結果、人より良い思いをしたいと思う傾向が
最近は特に強くなりました。
豆が、頑張り信仰は駄目だと思う理由は2つです。
まず1つ目。
人間は、頑張ってできることなどはこの世にほんの少ししかないと思うからです。
「私は無神論者です。」という現実主義の人はおそらく、
自分の限界と向き合った経験がないか、
論理的な神学的な観点を
非論理的なスピリチュアルな世界と勘違いしているのだと思います。
そして2つ目。
頑張り信仰の人たちには、自分に執着し過ぎな人、すなわち、
自己中心的が多すぎるからです。
*****
ここで、未信者のクリスチャンに対する誤解をいくつか紹介します。
教会に来るクリスチャンのようなふりをしている人たちは皆、
神様をご利益がもらえるものだと勘違いしています。
天の父なる神様は、確かに一方的に恵みを私たちに注いでくださいますが、
それは福音の三要素を信じたクリスチャンだけです。(※1)
ご利益信仰の神様は、すべての人に対して門を開き、
かつ誰でもそこにいくとご利益がもらえる神様です。
しかし、
キリスト教の神様は、すべての人に対して門を開いてはいますが、
イエス・キリストを救い主と受け入れていない人の願いは受け入れません。
クリスチャンに対しても多くの人が誤解をしています。
例えば、クリスチャンになったら毎日が必ずハッピーになる訳ではありません。
それどころか、精霊の働きによって不安や苦難は一層増えます。
また神様も恵みを一方的に与えてはくれていますが、
私たちがその恵みを実感するためには、神様の恵みに応答しなくてはなりません。
そして、その神様の恵みは、クリスチャンに内住する精霊の働きがあって
私たちがはじめて応答できるものです。
この精霊はとても紳士であるので、私たちの自由意志をとても尊重います。
逆に言って、少しでも私たちに我の思いがあれば、精霊はそれを尊重して後ろに隠れてしまいます。
精霊が隠れてしまうと私たちは恵みに応答することができません。
不幸にも、私たちが本当に神様を信頼し、どうか神様〜!と祈る心境にならなければ、
精霊は私たちのために働くことができないのです。
私たちが神様にすがるときはどういうときですか?
私たちが神様に祈るときは決まって、自分ではどうにもならない間違いを犯してしまったときです。
*****
聖書で神様の基準を学ぶと、本当に豆たちは
生かされているんだなぁ〜ということを感じずにはいられません。
聖書が教えている神様の基準は、完全でかつ永遠のものです。
完全かつ永遠は、正義であり、真理です。
ですから、
聖書的基準で生きることは、正義の基準で生きることと同じです。
ですが、この基準で物事を捉えることは、
クリスチャンといえど、なかなかできるものではありません。
もし、これが仏教なら、このような私たちにできないことが出てきたときに
「あなたは〇〇をしてきましたか?なぜしてこなかったのですか?」と、
できなかったことを指摘する説教がはじまります。
言われた人は、言われる度にできなかったことばかりに執着してしまいます。
当然、未来は暗〜くなります。
一方、クリスチャンであれば、そんなことはなりません。
イエス・キリストを救い主として受け入れれば、
その人は直ちに救われます。
できないことがあっても神様は責めません。
創造主である神様は私たち一人一人のことを髪の毛一本まで全てご存知なのです。
できないことを悲しむとき、神様はそれを憐れんでくださいます。
そして神の恵みを与えてくださいます。
どうですか?未来は、とても明るくなりますよね!
聖書理解が進むと、私たちはこれまでの過ちに対する気づきが起き、それによって
その都度悔い改めが生じます。
この悔い改めによって私たちは、その都度神の御子、イエス・キリストに近づくことができます。
それは結果として、神の基準が理解できる人格、
すなわち、完全で永遠な、正義の真理に基づく人格に、私たちの人格が作り変えられること、
それは、より精霊の声が聞こえやすく、神様の恵みに応答しやすくなるのです。
*****
福音の三要素を理解し、イエス・キリストを救い主と受け入れると、
ライフスタイルが、精霊の働きによって、非常に合理的かつ論理的な一貫したものへ
変わりはじめます。
また、イエス・キリストを救い主と受け入れた途端、
神様というものが、とても身近な存在になります。
これは非常に心強いものです。
豆が仏教の頃は、自分を戒めるばかりで生活に潤いがありませんでした。
ですが、神様と出会って、イエス・キリストを救い主と受け入れてからは、
神様との平和のもと、とても開放的な生活になりました。
聖書には、洗礼を受けなければ救われないとは
どこにも書かれていません。
書かれている救いの条件は、福音の三要素を受け入れているかどうかだけです。
もし、少しでも生き方に軸が欲しい思ったならば、
変なプライドは捨てて、素直に神様の招きに応答してみるのが良いと思います。
あなたにも、神様の招きが聞こえますように。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Blessed Be Your Name
----------------------------------------------------------------
【注釈】
※1・・・福音の三要素(過去の記事を参照)
仏教が戒律ありきの頑張り信仰なのに対し、
キリスト教はイエス・キリストを救い主と受け入れることで始まる
非頑張り信仰だからです。
日本人は、頑張った結果、幸せになるのが好きです。
とりわけ頑張った結果、人より良い思いをしたいと思う傾向が
最近は特に強くなりました。
豆が、頑張り信仰は駄目だと思う理由は2つです。
まず1つ目。
人間は、頑張ってできることなどはこの世にほんの少ししかないと思うからです。
「私は無神論者です。」という現実主義の人はおそらく、
自分の限界と向き合った経験がないか、
論理的な神学的な観点を
非論理的なスピリチュアルな世界と勘違いしているのだと思います。
そして2つ目。
頑張り信仰の人たちには、自分に執着し過ぎな人、すなわち、
自己中心的が多すぎるからです。
*****
ここで、未信者のクリスチャンに対する誤解をいくつか紹介します。
教会に来るクリスチャンのようなふりをしている人たちは皆、
神様をご利益がもらえるものだと勘違いしています。
天の父なる神様は、確かに一方的に恵みを私たちに注いでくださいますが、
それは福音の三要素を信じたクリスチャンだけです。(※1)
ご利益信仰の神様は、すべての人に対して門を開き、
かつ誰でもそこにいくとご利益がもらえる神様です。
しかし、
キリスト教の神様は、すべての人に対して門を開いてはいますが、
イエス・キリストを救い主と受け入れていない人の願いは受け入れません。
クリスチャンに対しても多くの人が誤解をしています。
例えば、クリスチャンになったら毎日が必ずハッピーになる訳ではありません。
それどころか、精霊の働きによって不安や苦難は一層増えます。
また神様も恵みを一方的に与えてはくれていますが、
私たちがその恵みを実感するためには、神様の恵みに応答しなくてはなりません。
そして、その神様の恵みは、クリスチャンに内住する精霊の働きがあって
私たちがはじめて応答できるものです。
この精霊はとても紳士であるので、私たちの自由意志をとても尊重います。
逆に言って、少しでも私たちに我の思いがあれば、精霊はそれを尊重して後ろに隠れてしまいます。
精霊が隠れてしまうと私たちは恵みに応答することができません。
不幸にも、私たちが本当に神様を信頼し、どうか神様〜!と祈る心境にならなければ、
精霊は私たちのために働くことができないのです。
私たちが神様にすがるときはどういうときですか?
私たちが神様に祈るときは決まって、自分ではどうにもならない間違いを犯してしまったときです。
*****
聖書で神様の基準を学ぶと、本当に豆たちは
生かされているんだなぁ〜ということを感じずにはいられません。
聖書が教えている神様の基準は、完全でかつ永遠のものです。
完全かつ永遠は、正義であり、真理です。
ですから、
聖書的基準で生きることは、正義の基準で生きることと同じです。
ですが、この基準で物事を捉えることは、
クリスチャンといえど、なかなかできるものではありません。
もし、これが仏教なら、このような私たちにできないことが出てきたときに
「あなたは〇〇をしてきましたか?なぜしてこなかったのですか?」と、
できなかったことを指摘する説教がはじまります。
言われた人は、言われる度にできなかったことばかりに執着してしまいます。
当然、未来は暗〜くなります。
一方、クリスチャンであれば、そんなことはなりません。
イエス・キリストを救い主として受け入れれば、
その人は直ちに救われます。
できないことがあっても神様は責めません。
創造主である神様は私たち一人一人のことを髪の毛一本まで全てご存知なのです。
できないことを悲しむとき、神様はそれを憐れんでくださいます。
そして神の恵みを与えてくださいます。
どうですか?未来は、とても明るくなりますよね!
聖書理解が進むと、私たちはこれまでの過ちに対する気づきが起き、それによって
その都度悔い改めが生じます。
この悔い改めによって私たちは、その都度神の御子、イエス・キリストに近づくことができます。
それは結果として、神の基準が理解できる人格、
すなわち、完全で永遠な、正義の真理に基づく人格に、私たちの人格が作り変えられること、
それは、より精霊の声が聞こえやすく、神様の恵みに応答しやすくなるのです。
*****
福音の三要素を理解し、イエス・キリストを救い主と受け入れると、
ライフスタイルが、精霊の働きによって、非常に合理的かつ論理的な一貫したものへ
変わりはじめます。
また、イエス・キリストを救い主と受け入れた途端、
神様というものが、とても身近な存在になります。
これは非常に心強いものです。
豆が仏教の頃は、自分を戒めるばかりで生活に潤いがありませんでした。
ですが、神様と出会って、イエス・キリストを救い主と受け入れてからは、
神様との平和のもと、とても開放的な生活になりました。
聖書には、洗礼を受けなければ救われないとは
どこにも書かれていません。
書かれている救いの条件は、福音の三要素を受け入れているかどうかだけです。
もし、少しでも生き方に軸が欲しい思ったならば、
変なプライドは捨てて、素直に神様の招きに応答してみるのが良いと思います。
あなたにも、神様の招きが聞こえますように。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Blessed Be Your Name
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【注釈】
※1・・・福音の三要素(過去の記事を参照)
タグ:イエス・キリスト
2018年05月08日
豆が感じた、クリスチャンとしての最初の苦しみ
ある起業研究会で知り合った女性との会話の中で、
豆が聖書について学んでいることに触れたときのこと。
「聖書にこう書いてあったらそれをやるんですか。」
「はい、できる限りそうありたいと望んでいます。」
すると彼女は突然ムッとして
「それではあなたの自由意志はどこにあるんですか?私はそんなの嫌です!」
と言われてしまいました。
当時、豆は心惹かれていた女性であったこともあって大変なショックで、
言われた直後は「確かにそうだなぁ〜」とも思ってしまいました。
*****
でも、聖書の理解が進んだ今では違います。
教会に行くようになる前の豆は、ちょうど個人のネットビジネスが流行り出した頃で、
豆も会社員では駄目だと焦っていた、世間の律法の奴隷だったと言えます。
その意味では彼女も同じ、世間の律法の奴隷でした。
世間の律法とは、彼女たちが言うところの常識や、文化や思想、働き方の流行などのことです。
ですが、聖書と出会ってからの豆は、精霊の内住を受け入れたことによって
この、世間の律法から自由になりました。
このことよって、あの時には既に
仕事をする目的も、お金を稼ぐ目的も、
その他もろもろの生きる目的が変わり始めていたのです。
おそらく彼女には、神様に喜んで自発的に奉仕することの喜びなど
理解できるはずがなかったでしょう。
これが、豆が最初に感じた
クリスチャンとしての苦しみでした。
*****
奴隷によく似た言葉で聖書には「しもべ」という言葉があります。
ですがこの言葉は世間一般に言われる「下僕」の意味ではなく、逆説的言葉です。
彼女は豆が自由意志を放棄したように言いましたが、それは全くの間違いです。
むしろクリスチャンになることはその逆で、自由意志がなければ神様からの
様々な恵みを受け取ることができません。
イエス・キリストを信じるようになるということは、神様の恵みによって信者の状態が
次のような状態に変えられることです。
1.最も低いところに降ろされたように見えて、最も高いところに上げられています。
→神様によって救われるべき人がすべて救われきったときに(携挙)、天に上げられることが
約束されているため。
2.最も不自由になったように見えて、最も自由です。
→霊的に一度死に、この世の律法からは完全に解放されるため。
3.最も弱くされたたように見えて、最も強い存在です。
→神様と和解できている、精霊の恵みがある、神様との平和、復活が約束されている、真実の愛が何であるかを理解している・・・etc。つまり、様々な希望を持っているから。
4.迫害されているように見えて、最も愛されています。
→万物の創造主に愛されている存在だから。
つまり、クリスチャンにとって神の「しもべ」になることは、
大変な喜びなのです。
一般的にクリスチャンになる過程では、次の3つの事が起こります。
1.神学的教理を理解し、世間の律法から解放される
2.自由になる。
3.よく神様の恵みを吟味した上で、自ら選択して福音の三要素を受け入れる。
彼女は自由意志がないと言いましたが、実際はこのように、
1で世俗的な一切のしがらみから解放され、と同時に2の真に自由の状態になり、そこから
3ので自由意志がしっかりと働いている訳です。
ですが、悲しいことに、クリスチャンでない人にこのことを理解してもらうためには、
このことを説明しなくてはなりません。
これが、一般に福音伝道が難しいと言われる理由です。
*****
さて、ここまでで一般の人たちとクリスチャンの世界観の違いが
わかっていただけたでしょうか。
冒頭のように、クリスチャンとして成熟してくると、
必ずと言っていいほどにこの世界観同士のギャップによって
苦難が訪れるようです。
ですがその苦難は、クリスチャン同士が励まし合い、
より強い信仰に立つチャンスです。
その苦難が神様さまのご計画の一部であるならば、
必ず、内なる精霊が働かれて神様の恵みを届けてくれます。
そのときに豆たちの目がしっかりと開かれていれば、
きっとその苦難は乗り越えられるはずです。
こんな豆でも、この体験を教会で証(あかし)して
自分だけでは絶対に出会えないような素晴らしい人たちとの絆ができました。
教会は人財の宝庫です。
神様の恵みと、十分な協力者がいれば、
どんなことでも喜んでいける気がします。
これを読んでくださっているあなたが今
豆と同じように試練の中にいるならばメッセージをください。
豆と、たくさんの豆のお友達が、
あなたのところへ励ましを届けます!
おしまい。
豆が聖書について学んでいることに触れたときのこと。
「聖書にこう書いてあったらそれをやるんですか。」
「はい、できる限りそうありたいと望んでいます。」
すると彼女は突然ムッとして
「それではあなたの自由意志はどこにあるんですか?私はそんなの嫌です!」
と言われてしまいました。
当時、豆は心惹かれていた女性であったこともあって大変なショックで、
言われた直後は「確かにそうだなぁ〜」とも思ってしまいました。
*****
でも、聖書の理解が進んだ今では違います。
教会に行くようになる前の豆は、ちょうど個人のネットビジネスが流行り出した頃で、
豆も会社員では駄目だと焦っていた、世間の律法の奴隷だったと言えます。
その意味では彼女も同じ、世間の律法の奴隷でした。
世間の律法とは、彼女たちが言うところの常識や、文化や思想、働き方の流行などのことです。
ですが、聖書と出会ってからの豆は、精霊の内住を受け入れたことによって
この、世間の律法から自由になりました。
このことよって、あの時には既に
仕事をする目的も、お金を稼ぐ目的も、
その他もろもろの生きる目的が変わり始めていたのです。
おそらく彼女には、神様に喜んで自発的に奉仕することの喜びなど
理解できるはずがなかったでしょう。
これが、豆が最初に感じた
クリスチャンとしての苦しみでした。
*****
奴隷によく似た言葉で聖書には「しもべ」という言葉があります。
ですがこの言葉は世間一般に言われる「下僕」の意味ではなく、逆説的言葉です。
彼女は豆が自由意志を放棄したように言いましたが、それは全くの間違いです。
むしろクリスチャンになることはその逆で、自由意志がなければ神様からの
様々な恵みを受け取ることができません。
イエス・キリストを信じるようになるということは、神様の恵みによって信者の状態が
次のような状態に変えられることです。
1.最も低いところに降ろされたように見えて、最も高いところに上げられています。
→神様によって救われるべき人がすべて救われきったときに(携挙)、天に上げられることが
約束されているため。
2.最も不自由になったように見えて、最も自由です。
→霊的に一度死に、この世の律法からは完全に解放されるため。
3.最も弱くされたたように見えて、最も強い存在です。
→神様と和解できている、精霊の恵みがある、神様との平和、復活が約束されている、真実の愛が何であるかを理解している・・・etc。つまり、様々な希望を持っているから。
4.迫害されているように見えて、最も愛されています。
→万物の創造主に愛されている存在だから。
つまり、クリスチャンにとって神の「しもべ」になることは、
大変な喜びなのです。
一般的にクリスチャンになる過程では、次の3つの事が起こります。
1.神学的教理を理解し、世間の律法から解放される
2.自由になる。
3.よく神様の恵みを吟味した上で、自ら選択して福音の三要素を受け入れる。
彼女は自由意志がないと言いましたが、実際はこのように、
1で世俗的な一切のしがらみから解放され、と同時に2の真に自由の状態になり、そこから
3ので自由意志がしっかりと働いている訳です。
ですが、悲しいことに、クリスチャンでない人にこのことを理解してもらうためには、
このことを説明しなくてはなりません。
これが、一般に福音伝道が難しいと言われる理由です。
*****
さて、ここまでで一般の人たちとクリスチャンの世界観の違いが
わかっていただけたでしょうか。
冒頭のように、クリスチャンとして成熟してくると、
必ずと言っていいほどにこの世界観同士のギャップによって
苦難が訪れるようです。
ですがその苦難は、クリスチャン同士が励まし合い、
より強い信仰に立つチャンスです。
その苦難が神様さまのご計画の一部であるならば、
必ず、内なる精霊が働かれて神様の恵みを届けてくれます。
そのときに豆たちの目がしっかりと開かれていれば、
きっとその苦難は乗り越えられるはずです。
こんな豆でも、この体験を教会で証(あかし)して
自分だけでは絶対に出会えないような素晴らしい人たちとの絆ができました。
教会は人財の宝庫です。
神様の恵みと、十分な協力者がいれば、
どんなことでも喜んでいける気がします。
これを読んでくださっているあなたが今
豆と同じように試練の中にいるならばメッセージをください。
豆と、たくさんの豆のお友達が、
あなたのところへ励ましを届けます!
おしまい。
2018年05月07日
豆と考える、人が神様の律法を守る方法!
教会は敷居が高いと考えている求道者の皆さん!
大丈夫です!
豆も最初は同じ、聖書をまずは全部読んでから行こうと躊躇したクチです。
でも、実際はまず聖書がぶ厚く、内容も面白くないので読み切れず、
教会に行ってから聖書のCDを買って聴き流しました。
今では一度耳で聞いたこともあり、教会のメッセージに参加したときなどに
ちゃんと紙の聖書を読むようになりました。
勉強も進み、少しずつではありますが、聖書が面白く感じ始めているところです。
そのような訳で、クリスチャンに興味のある方は是非、
教会に見学に行くことをオススメします。
教会の選び方を知りたいという方は気軽にコメントしておいてくださればお答えします。
あるいは追々、紹介する機会をいただくかもしれません。
*****
さて。
前回、多くの求道者、あるいは新規クリスチャンがぶち当たる壁に、
「頑張っているけれど、一向に祝福されている感じがしない」
だからイマイチ信じられない。続けられない。
というものがあることに触れました。
クリスチャンになる条件は、福音の三要素
を信じることなのです。
しかし、上記のような壁にぶち当たったとき、
そのような努力型クリスチャンの気(け)のある人は、
特に3つ目の「イエス・キリストが3日目に蘇った。」の箇所が
どうしても信じきれないというジレンマに陥ります。
そこで今日は、この「信じきれない」ということに対する癒しとして、
求道者の方や、新規クリスチャンの兄弟(妹も含む)の方に
豆的に理解したことを分かち合いたいと思います。
神様のことが嫌いでなければ、きっといずれかの楔が取れてくれると思うので、
少し長くなりますが、お付き合いください。
以下は、その内容です。
******
まず、「信じられない」ということがどういうことなのかをお話しします。
豆や、あなたのその「信じられない」という思いは、聖書的に言うと、
「人の基準では理解できない。」
ということになります。
ここで理解すべきポイントは2つです。
まず、一つ目のポイントは
「人の基準では」
という部分です。
そしてもう一つのポイントは、私たちが人の基準に立つ限り、
「(どんなに努力しても)理解できない。」
という真理です。
この2つ目のポイントは特に大切です。
まず、大前提として理解すべきことは
聖書は神様の基準で書かれているということです。
ですから、人の基準しか持たない私たちが聖書を正しく理解しようと思ったら、
まず、神様の基準が何かを学ばなければなりません。
ですからまず、そのためのヒントが書かれていると思われる聖書箇所を取り上げてみたいと思います。
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐みのゆえに、あなた方にお願いします。
あなた方の体を、神に受け入れられる、清い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、
何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって、自分を変えなさい。
(ロマ書12:1~2)
ここで、上記の2節、
「神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、何が神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、」
この部分をよく見ると、神様の基準がどういうものであるかが見えてきます。
実際にやってみると、
「神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、何が神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、」
ここで、上記のように赤字を追っていくと、神様の基準が、それを人の基準で見ると
1.良い事であり(それは)
2.神に受け入れられ(ること。それはつまり、)
3.完全である
のように見えることが理解できてくると思います。
以上を基にして、人の基準で生きる私たちが
どのようにして神様の基準で作られた聖書の御言葉、すなわち、神の律法を
守っていったらいいかを説明してみます。
少し前置きが長くなりましたが、ここから本論に入ります。
では、どうぞ!
■■■ 本論 ■■■
本来、キリスト教のメッセージというものは、前回の記事で豆が感じたように
信者を責めるものではありません。
信者を励まし、皆で喜び合うためのものです。
ちなみに、仏教は信者に戒めを与えてそれを守らせ悟りに導くものです。
ですからこれが仏教であれば、このように戒めを守っているかと信者を問い正すのは正解なのです。
キリスト教でもロマ書で律法の大切さが説かれていますが、仏教のように律法を守れとは教えていません。
聖書の御言葉の意味を正しく理解することは、人の自力では無理です。
(ですから、人の理解が少しでも神の基準、すなわち真理にに近づくようにするために、
クリスチャンの内には精霊が宿るのです。)
キリスト教で大切なのは信仰です。
そして信仰は、聖書の教えを頑張って守るものではなく、神様の恵みを信じて頼るものです。
そもそも聖書にある教えは、神様の基準で書かれたものです。
その聖書の教えを人の基準しか持たない人間がいくら頑張っても完璧に理解できるはずがありません。
聖書、つまり神様の基準から外れたものは罪であり、罪を犯した者はアダムのように滅ぶのが
聖書の律法です。それは神様が儀であられるからです。
であれば、罪という病に侵され、神様の律法を理解できないままの人類は
罪の遺伝が消えない限り、これからもことごとく罪を重ねて滅ぶしかないのです。
しかし、そもそも弟である人類がそうなってしまったのは、人類の兄であるアダムが罪を犯してしまったからに他なりません。アダムの子孫である私たちにとって、その遺伝した病はどうすることもできません。
神様はそれを憐れみ、聖なる御子イエス・キリストを十字架による死刑にかけることで儀を通し、
私たちを許されました。
そして、私たちの態度とは関係なく、神様ご自身が自らそれまでの怒りとは態度を一変して、
一方的に恵みを与えてくださっているのです。
このことを聖書的には「神様との和解」または「神様との平和」ともいいます。
余談ですが、
ここでの「神様との和解」は決して、
人類がイエス・キリストという清い犠牲を捧げたから神様が許して下さったのではありません。
神様が、自ら一方的に、人類に対する態度を変えてくださったのです。
父なる天の神様は、天地を創造したときから人(アダム)が罪を犯し、このようなことになるのを
予見して、御子であるイエス・キリストを十字架の犠牲にすることを決めておられました。
それでもなお、私たちがかつての旧約時代から何度神様の御心を裏切っても
神様は私たちを儀に導いてくださいました。
自分達が今、何をしているかもわからないような私たちのために、
父は私たちの儀のために御子イエス・キリストを差し出し、イエス・キリストもまた
父に従って私たちの儀のためにその命を差し出してくださいました。
人の基準しか持たないが故に、神様に(神様の基準で)報いることもできない私たちのためにです。
一切の見返りを期待せず、私たちを導いてくださった父なる神様とその御子の深い愛を
豆は感じずにはいられませんでした。
繰り返しますが、
普通、その人が正しい人であっても、命を差し出す人はいません。
もし、憐れみ深い人であれば、命を差し出すことも起こらなくはないかもしれないでしょう。
でも、父や御子イエス・キリストが命を差し出した相手は、
罪という遺伝病に侵され、聖書の啓示にも応答することができない、今後も罪しかない私たちでした。
だからこそ、イエス・キリストの死は、父なる神様の怒りを鎮めるに値する儀とされたのです。
神様は、イエス・キリストを復活させ、次の仕事として私たちの大祭司という役目をお与えになりました。
そして私たち信者には、人であるキリストを復活させることで
その栄光を示すとともに復活の希望を与えてくださると同時に、後の携挙までの間、
私たちの内に精霊を遣わし内住させて、その賜物によって神様の恵みにアクセスし、
今まで私たちができなかった聖書の本当の意味を理解したり、神様からの恵みを
受け取れるようにしてくださいました。
このように私たち信者は恵みにアクセスすることによって、その性質を
より一層イエス・キリストに近づかせることができるようになりました。
イエス・キリストは人であると同時に神でもあります。
ですから、私たちがイエス・キリストに近づくことは、それだけ私たちが自分達の基準を
人の基準から神の基準に引き上げることに繋がります。
それはつまり私たちが、今の罪の病に侵されたままでも、精霊の賜物による
神の恵みへのアクセスをベースに、普段の生活を神の基準でできるようになるということです。
すると結果として、私たちは信仰をベースに精霊の賜物による神の恵みへのアクセスを保っている間は
神の律法、つまり聖書の御言葉の教えを自然に守り続けることができるようになります。
これが、キリスト教の神の律法の中を、基準で劣る人が罪を犯さずに渡っていける仕組みになります。
最初に豆は言いました。
頑張らなくていいと。
そう言ったのは、こういう訳だったからです。
少しでも兄弟(妹を含む)の皆さんの信仰への抵抗が癒され、
このメッセージが神様の恵みへ近づくための
希望になってくれたら嬉しいです。
どうぞ一緒に
大胆に神様の恵みに近づこうではありませんか!
おしまい。
大丈夫です!
豆も最初は同じ、聖書をまずは全部読んでから行こうと躊躇したクチです。
でも、実際はまず聖書がぶ厚く、内容も面白くないので読み切れず、
教会に行ってから聖書のCDを買って聴き流しました。
今では一度耳で聞いたこともあり、教会のメッセージに参加したときなどに
ちゃんと紙の聖書を読むようになりました。
勉強も進み、少しずつではありますが、聖書が面白く感じ始めているところです。
そのような訳で、クリスチャンに興味のある方は是非、
教会に見学に行くことをオススメします。
教会の選び方を知りたいという方は気軽にコメントしておいてくださればお答えします。
あるいは追々、紹介する機会をいただくかもしれません。
*****
さて。
前回、多くの求道者、あるいは新規クリスチャンがぶち当たる壁に、
「頑張っているけれど、一向に祝福されている感じがしない」
だからイマイチ信じられない。続けられない。
というものがあることに触れました。
クリスチャンになる条件は、福音の三要素
を信じることなのです。
しかし、上記のような壁にぶち当たったとき、
そのような努力型クリスチャンの気(け)のある人は、
特に3つ目の「イエス・キリストが3日目に蘇った。」の箇所が
どうしても信じきれないというジレンマに陥ります。
そこで今日は、この「信じきれない」ということに対する癒しとして、
求道者の方や、新規クリスチャンの兄弟(妹も含む)の方に
豆的に理解したことを分かち合いたいと思います。
神様のことが嫌いでなければ、きっといずれかの楔が取れてくれると思うので、
少し長くなりますが、お付き合いください。
以下は、その内容です。
******
まず、「信じられない」ということがどういうことなのかをお話しします。
豆や、あなたのその「信じられない」という思いは、聖書的に言うと、
「人の基準では理解できない。」
ということになります。
ここで理解すべきポイントは2つです。
まず、一つ目のポイントは
「人の基準では」
という部分です。
そしてもう一つのポイントは、私たちが人の基準に立つ限り、
「(どんなに努力しても)理解できない。」
という真理です。
この2つ目のポイントは特に大切です。
まず、大前提として理解すべきことは
聖書は神様の基準で書かれているということです。
ですから、人の基準しか持たない私たちが聖書を正しく理解しようと思ったら、
まず、神様の基準が何かを学ばなければなりません。
ですからまず、そのためのヒントが書かれていると思われる聖書箇所を取り上げてみたいと思います。
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐みのゆえに、あなた方にお願いします。
あなた方の体を、神に受け入れられる、清い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、
何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって、自分を変えなさい。
(ロマ書12:1~2)
ここで、上記の2節、
「神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、何が神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、」
この部分をよく見ると、神様の基準がどういうものであるかが見えてきます。
実際にやってみると、
「神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、何が神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、」
ここで、上記のように赤字を追っていくと、神様の基準が、それを人の基準で見ると
1.良い事であり(それは)
2.神に受け入れられ(ること。それはつまり、)
3.完全である
のように見えることが理解できてくると思います。
以上を基にして、人の基準で生きる私たちが
どのようにして神様の基準で作られた聖書の御言葉、すなわち、神の律法を
守っていったらいいかを説明してみます。
少し前置きが長くなりましたが、ここから本論に入ります。
では、どうぞ!
■■■ 本論 ■■■
本来、キリスト教のメッセージというものは、前回の記事で豆が感じたように
信者を責めるものではありません。
信者を励まし、皆で喜び合うためのものです。
ちなみに、仏教は信者に戒めを与えてそれを守らせ悟りに導くものです。
ですからこれが仏教であれば、このように戒めを守っているかと信者を問い正すのは正解なのです。
キリスト教でもロマ書で律法の大切さが説かれていますが、仏教のように律法を守れとは教えていません。
聖書の御言葉の意味を正しく理解することは、人の自力では無理です。
(ですから、人の理解が少しでも神の基準、すなわち真理にに近づくようにするために、
クリスチャンの内には精霊が宿るのです。)
キリスト教で大切なのは信仰です。
そして信仰は、聖書の教えを頑張って守るものではなく、神様の恵みを信じて頼るものです。
そもそも聖書にある教えは、神様の基準で書かれたものです。
その聖書の教えを人の基準しか持たない人間がいくら頑張っても完璧に理解できるはずがありません。
聖書、つまり神様の基準から外れたものは罪であり、罪を犯した者はアダムのように滅ぶのが
聖書の律法です。それは神様が儀であられるからです。
であれば、罪という病に侵され、神様の律法を理解できないままの人類は
罪の遺伝が消えない限り、これからもことごとく罪を重ねて滅ぶしかないのです。
しかし、そもそも弟である人類がそうなってしまったのは、人類の兄であるアダムが罪を犯してしまったからに他なりません。アダムの子孫である私たちにとって、その遺伝した病はどうすることもできません。
神様はそれを憐れみ、聖なる御子イエス・キリストを十字架による死刑にかけることで儀を通し、
私たちを許されました。
そして、私たちの態度とは関係なく、神様ご自身が自らそれまでの怒りとは態度を一変して、
一方的に恵みを与えてくださっているのです。
このことを聖書的には「神様との和解」または「神様との平和」ともいいます。
余談ですが、
ここでの「神様との和解」は決して、
人類がイエス・キリストという清い犠牲を捧げたから神様が許して下さったのではありません。
神様が、自ら一方的に、人類に対する態度を変えてくださったのです。
父なる天の神様は、天地を創造したときから人(アダム)が罪を犯し、このようなことになるのを
予見して、御子であるイエス・キリストを十字架の犠牲にすることを決めておられました。
それでもなお、私たちがかつての旧約時代から何度神様の御心を裏切っても
神様は私たちを儀に導いてくださいました。
自分達が今、何をしているかもわからないような私たちのために、
父は私たちの儀のために御子イエス・キリストを差し出し、イエス・キリストもまた
父に従って私たちの儀のためにその命を差し出してくださいました。
人の基準しか持たないが故に、神様に(神様の基準で)報いることもできない私たちのためにです。
一切の見返りを期待せず、私たちを導いてくださった父なる神様とその御子の深い愛を
豆は感じずにはいられませんでした。
繰り返しますが、
普通、その人が正しい人であっても、命を差し出す人はいません。
もし、憐れみ深い人であれば、命を差し出すことも起こらなくはないかもしれないでしょう。
でも、父や御子イエス・キリストが命を差し出した相手は、
罪という遺伝病に侵され、聖書の啓示にも応答することができない、今後も罪しかない私たちでした。
だからこそ、イエス・キリストの死は、父なる神様の怒りを鎮めるに値する儀とされたのです。
神様は、イエス・キリストを復活させ、次の仕事として私たちの大祭司という役目をお与えになりました。
そして私たち信者には、人であるキリストを復活させることで
その栄光を示すとともに復活の希望を与えてくださると同時に、後の携挙までの間、
私たちの内に精霊を遣わし内住させて、その賜物によって神様の恵みにアクセスし、
今まで私たちができなかった聖書の本当の意味を理解したり、神様からの恵みを
受け取れるようにしてくださいました。
このように私たち信者は恵みにアクセスすることによって、その性質を
より一層イエス・キリストに近づかせることができるようになりました。
イエス・キリストは人であると同時に神でもあります。
ですから、私たちがイエス・キリストに近づくことは、それだけ私たちが自分達の基準を
人の基準から神の基準に引き上げることに繋がります。
それはつまり私たちが、今の罪の病に侵されたままでも、精霊の賜物による
神の恵みへのアクセスをベースに、普段の生活を神の基準でできるようになるということです。
すると結果として、私たちは信仰をベースに精霊の賜物による神の恵みへのアクセスを保っている間は
神の律法、つまり聖書の御言葉の教えを自然に守り続けることができるようになります。
これが、キリスト教の神の律法の中を、基準で劣る人が罪を犯さずに渡っていける仕組みになります。
最初に豆は言いました。
頑張らなくていいと。
そう言ったのは、こういう訳だったからです。
少しでも兄弟(妹を含む)の皆さんの信仰への抵抗が癒され、
このメッセージが神様の恵みへ近づくための
希望になってくれたら嬉しいです。
どうぞ一緒に
大胆に神様の恵みに近づこうではありませんか!
おしまい。
タグ:イエス・キリスト
2018年05月06日
豆の反応からわかる、教会のメッセージに違和感が出る理由
今日の教会でのメッセージはルカの福音書5章の第27節から第32節(※1:最下部に注釈)でした。
メッセージを聞いて、心に引っかかることがあったので分かち合わせてください。
違和感があったのは今日のメインメッセージで語られたルカの福音書5章第27節から第28節。
以下にその箇所を示します。
27その後、イエスは出ていって、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、
「私に従いなさい」と言われた。28彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
(ルカ5:27〜28)
メッセージが上記の28節(上記の青色部)の説明に来て、スピーカーはこのように説明されました。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
このメッセージにおける違和感を以下にまとめます。
【違和感1】メッセージは励ましのためのものではないのですか?
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
まず豆は、この説明を聞いて即座に自分にがっかりしました。
なぜなら上記の赤色部の言葉が、豆には
「あなたには本当に、今囚われているすべての物から自由になって、
イエス・キリストついていく覚悟がありますか!?」
と、問い正されているようにきこえたからです。
例えば仕事でも、まだ慣れていないことに関して「本当にあるのか!」と問い正されると、
だんだん自信がなくなってきませんか?
今日の豆のそうでした。
さっきまで「そうだ!そうだ!」と自分のことのように聞いていたのに、自信がなくなって、
「そうだ!そうだ!」が「そうでした・・・そうでした・・・」になってしまったのです。
でも、不幸はこれで終わりませんでした。
*****
【違和感2】私を叱らないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
次に豆は、「ごめんなさい」と謝りたくなりました。
上記の赤色部の言葉を聞いて
「今のお前は自分の中の優先順位が自分の基準の基準のままだ!
だからお前は【このようにするためには、自分の中の優先順位を変える必要がある】んだ!わかったか!!」
と、叱られている気持ちになったからです。
本来、キリスト教のメッセージというものは、このように信者を責めるものではありません。
信者を励まし、皆で喜び合うためのものです。(詳しくは次回の記事【人が神の律法を守る方法】を参照)
もう豆は豆のサイズでは居られなくなり、更に小さなゴマのサイズになってしまったのです。
しかし、不幸はそれで終わりませんでした。
ここまででも十分に瀕死の豆を、更なる強烈なトドメの一撃が襲いました。
*****
【違和感3】私を突き放さないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
自分に自信がないところへお叱りを受けると普通、人間は深く落ち込みます。
そこへ、上記の赤色部のトドメの一撃です。
もうこれは、
「お前には何が足りないか、よく考えろ!!」
と突き放されたも同じです。
こうして豆は、しょんぼりしながら家路につきました。
*****
【まとめ】
どうしてなのか、日本人は真面目過ぎるのか、このように卑屈に捉える傾向があるそうです。
クリスチャン同士で集まっても、日本人クリスチャンほど
救われているのを喜んでいるのか、いないのか
微妙な空気を出しているクリスチャンはいないそうです。
これは聞いた話ですが、どうも日本人の国民性がそうさせているそうです。
例えば、本来、クリスチャンの信仰は、聖書の教えを頑張って守るものではなく、
神様の恵みを信じて頼るものです。
しかし日本人は、これを努力でカバーしようとします。
その結果、
いくらやっても救われている感じがしないと言い出し、
やがて教会から離れていってしまいます。
*****
キリスト教の神髄は信仰、つまり、聖書にある超自然的なことを信じることから始まります。
よく、神様はいないとか、死んだ人が生き返るはずがないとか
福音の三要素を信じることができずに止まっている人を見かけます。
中には、「証明できたら信じる」という人もいます。
これはもう混乱でしかありません。言葉の使い方を間違えています。
もし、信じる対象が証明されてしまったら、それは信じる対象になりません。
証明がもう済んでしまったならば、あなたが信じようが、信じまいが、
それはもう真理です。変わりようのない真理に、信じる価値はないのです。
逆に、信じる価値があるものは、まだ人類が証明できないものです。
なぜ、証明できないものに、そこまでの価値を見出せるのでしょう。
それは、希望になるからです。
その点、聖書は歴史書です。記事にはまだ起きたことが証明されていないもののあります。
ですが、聖書を丁寧に読んでいくと、誰かが聞いた神の御言葉は、必ず成就していることがわかります。
ですから、まだ起きていない事でも今後、成就する可能性には十分希望が持てるのではないでしょうか。
ましてや、聖書は神様の栄光の記録なのです。
もし御言葉が1つでも成就しなければ、神様の栄光は地に落ちることになります。
もし、僕が神様であったなら、絶対にそんなことはさせません!
もし仮に、聖書が全部ウソだったとします。そしたらまず確実に、神様の栄光は地に落ちます。
でもそこまでして、こんなに精巧にウソををついて、
一体誰が得をするというのでしょうか。
それどころか、こんなに壮大で!緻密にウソをつける人物なんているのでしょうか!
その人こそ神がかってはいませんか!!
いや!その人こそ神です!!
やはり、神様は存在するのです!!
話が少し脱線しましたが、聖書はもっとポジティブに読まないといけないと思います。
英語圏のクリスチャンがとてもポジティブなのは、英語がポジティブに捉えやすい言語だからだと
言われています。例を挙げましょう。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。
(ロマ書5:1〜2)
この箇所を先ほどの豆のように普通に読んでいきますと、日本人であれば次のように解釈するのではないでしょうか。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られるのは、
私たちが信仰によって儀とされたなれたときの場合だ。)
なんとひねくれているのでしょうか。
これでは違和感を感じて当たり前です。
一方、英語圏の人たちは、この箇所を普通、次のように解釈します。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちが信仰によって儀とされたので、
私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られている。)
なんとポジティブなんでしょう!!
まさにこれですよ!コレ!コレ!!
このような違いが出る理由は、日本語は後ろから訳していく言語なのに対し、
英語は前から訳していく習慣があるためなんだそうです。面白いですね!
ですから、本当は日本人も英語で聖書を読んだり、英語でメッセージを聞いたりできた方が
良いかもしれません。求道者がいる場合は尚更、キリスト教が希望の教えであることを
しっかりとわかってもらわなくてはなりません。
病院で死の寸前であるとき、牧師とお坊さん、
あなたはどちらに来て欲しいでしょうか。
牧師さんであれば、死の淵にいる人にでも、主イエス様の福音による死後の希望を伝え、
死への恐怖を癒すことでしょう。
ではお坊さんはというと、おそらく「あなたは〇〇しましたか?」などと過去の行いを
ほじくり返し、つつき出すに違いありません。
ですから豆が死ぬ直前には絶対に牧師さんに来てもらいます!
もしお坊さんが来たら、「ちょっとまだ早いんとちがいますか!?」と追い返してもらいます!
(仏教とキリスト教の違いについても、次回の記事【人が神の律法を守る方法】で詳しく触れています。)
*****
さて、ここまで述べてきた通り、キリスト教は希望の教えです。
ですから、聖書を読むときも、メッセージをするときも、ポジティブ意味を取るようにしたいものです。
豆のようにネガティブな解釈をしていると、恵みになんて
絶対アクセスできるようになりませんからね!!
おしまい。
---------
【注釈】
※1・・・ルカの福音書 (05:27〜05:32)
メッセージを聞いて、心に引っかかることがあったので分かち合わせてください。
違和感があったのは今日のメインメッセージで語られたルカの福音書5章第27節から第28節。
以下にその箇所を示します。
27その後、イエスは出ていって、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、
「私に従いなさい」と言われた。28彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
(ルカ5:27〜28)
メッセージが上記の28節(上記の青色部)の説明に来て、スピーカーはこのように説明されました。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
このメッセージにおける違和感を以下にまとめます。
【違和感1】メッセージは励ましのためのものではないのですか?
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
まず豆は、この説明を聞いて即座に自分にがっかりしました。
なぜなら上記の赤色部の言葉が、豆には
「あなたには本当に、今囚われているすべての物から自由になって、
イエス・キリストついていく覚悟がありますか!?」
と、問い正されているようにきこえたからです。
例えば仕事でも、まだ慣れていないことに関して「本当にあるのか!」と問い正されると、
だんだん自信がなくなってきませんか?
今日の豆のそうでした。
さっきまで「そうだ!そうだ!」と自分のことのように聞いていたのに、自信がなくなって、
「そうだ!そうだ!」が「そうでした・・・そうでした・・・」になってしまったのです。
でも、不幸はこれで終わりませんでした。
*****
【違和感2】私を叱らないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
次に豆は、「ごめんなさい」と謝りたくなりました。
上記の赤色部の言葉を聞いて
「今のお前は自分の中の優先順位が自分の基準の基準のままだ!
だからお前は【このようにするためには、自分の中の優先順位を変える必要がある】んだ!わかったか!!」
と、叱られている気持ちになったからです。
本来、キリスト教のメッセージというものは、このように信者を責めるものではありません。
信者を励まし、皆で喜び合うためのものです。(詳しくは次回の記事【人が神の律法を守る方法】を参照)
もう豆は豆のサイズでは居られなくなり、更に小さなゴマのサイズになってしまったのです。
しかし、不幸はそれで終わりませんでした。
ここまででも十分に瀕死の豆を、更なる強烈なトドメの一撃が襲いました。
*****
【違和感3】私を突き放さないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
自分に自信がないところへお叱りを受けると普通、人間は深く落ち込みます。
そこへ、上記の赤色部のトドメの一撃です。
もうこれは、
「お前には何が足りないか、よく考えろ!!」
と突き放されたも同じです。
こうして豆は、しょんぼりしながら家路につきました。
*****
【まとめ】
どうしてなのか、日本人は真面目過ぎるのか、このように卑屈に捉える傾向があるそうです。
クリスチャン同士で集まっても、日本人クリスチャンほど
救われているのを喜んでいるのか、いないのか
微妙な空気を出しているクリスチャンはいないそうです。
これは聞いた話ですが、どうも日本人の国民性がそうさせているそうです。
例えば、本来、クリスチャンの信仰は、聖書の教えを頑張って守るものではなく、
神様の恵みを信じて頼るものです。
しかし日本人は、これを努力でカバーしようとします。
その結果、
いくらやっても救われている感じがしないと言い出し、
やがて教会から離れていってしまいます。
*****
キリスト教の神髄は信仰、つまり、聖書にある超自然的なことを信じることから始まります。
よく、神様はいないとか、死んだ人が生き返るはずがないとか
福音の三要素を信じることができずに止まっている人を見かけます。
中には、「証明できたら信じる」という人もいます。
これはもう混乱でしかありません。言葉の使い方を間違えています。
もし、信じる対象が証明されてしまったら、それは信じる対象になりません。
証明がもう済んでしまったならば、あなたが信じようが、信じまいが、
それはもう真理です。変わりようのない真理に、信じる価値はないのです。
逆に、信じる価値があるものは、まだ人類が証明できないものです。
なぜ、証明できないものに、そこまでの価値を見出せるのでしょう。
それは、希望になるからです。
その点、聖書は歴史書です。記事にはまだ起きたことが証明されていないもののあります。
ですが、聖書を丁寧に読んでいくと、誰かが聞いた神の御言葉は、必ず成就していることがわかります。
ですから、まだ起きていない事でも今後、成就する可能性には十分希望が持てるのではないでしょうか。
ましてや、聖書は神様の栄光の記録なのです。
もし御言葉が1つでも成就しなければ、神様の栄光は地に落ちることになります。
もし、僕が神様であったなら、絶対にそんなことはさせません!
もし仮に、聖書が全部ウソだったとします。そしたらまず確実に、神様の栄光は地に落ちます。
でもそこまでして、こんなに精巧にウソををついて、
一体誰が得をするというのでしょうか。
それどころか、こんなに壮大で!緻密にウソをつける人物なんているのでしょうか!
その人こそ神がかってはいませんか!!
いや!その人こそ神です!!
やはり、神様は存在するのです!!
話が少し脱線しましたが、聖書はもっとポジティブに読まないといけないと思います。
英語圏のクリスチャンがとてもポジティブなのは、英語がポジティブに捉えやすい言語だからだと
言われています。例を挙げましょう。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。
(ロマ書5:1〜2)
この箇所を先ほどの豆のように普通に読んでいきますと、日本人であれば次のように解釈するのではないでしょうか。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られるのは、
私たちが信仰によって儀とされたなれたときの場合だ。)
なんとひねくれているのでしょうか。
これでは違和感を感じて当たり前です。
一方、英語圏の人たちは、この箇所を普通、次のように解釈します。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちが信仰によって儀とされたので、
私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られている。)
なんとポジティブなんでしょう!!
まさにこれですよ!コレ!コレ!!
このような違いが出る理由は、日本語は後ろから訳していく言語なのに対し、
英語は前から訳していく習慣があるためなんだそうです。面白いですね!
ですから、本当は日本人も英語で聖書を読んだり、英語でメッセージを聞いたりできた方が
良いかもしれません。求道者がいる場合は尚更、キリスト教が希望の教えであることを
しっかりとわかってもらわなくてはなりません。
病院で死の寸前であるとき、牧師とお坊さん、
あなたはどちらに来て欲しいでしょうか。
牧師さんであれば、死の淵にいる人にでも、主イエス様の福音による死後の希望を伝え、
死への恐怖を癒すことでしょう。
ではお坊さんはというと、おそらく「あなたは〇〇しましたか?」などと過去の行いを
ほじくり返し、つつき出すに違いありません。
ですから豆が死ぬ直前には絶対に牧師さんに来てもらいます!
もしお坊さんが来たら、「ちょっとまだ早いんとちがいますか!?」と追い返してもらいます!
(仏教とキリスト教の違いについても、次回の記事【人が神の律法を守る方法】で詳しく触れています。)
*****
さて、ここまで述べてきた通り、キリスト教は希望の教えです。
ですから、聖書を読むときも、メッセージをするときも、ポジティブ意味を取るようにしたいものです。
豆のようにネガティブな解釈をしていると、恵みになんて
絶対アクセスできるようになりませんからね!!
おしまい。
---------
【注釈】
※1・・・ルカの福音書 (05:27〜05:32)
タグ:イエス・キリスト
2018年05月05日
豆、クリスチャン生活を学ぶ
神様を思うとき、豆は、自分の非力さを考えざるを得ません。
前回、(前回の内容はこちら)
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
という姿勢が、クリスチャン生活で最も重要だという話をしました。
よくあるクリスチャン生活にある誤解は、
クリスチャンになれば神様に祝福されて、迷いや苦難から解放され、毎日をハッピーな気持ちで
喜んで過ごせるというものです。
クリスチャンになると、肉の体の内に精霊が宿ります。
クリスチャンになるまでは、肉の体の声だけ聞いていれば良かったのですが、
クリスチャンになると、肉の体の声と、精霊の声の二つが聞こえてくるようになります。
肉の体、すなわち自分の声は、自分の感情からくる自己中心的な観点でものを言いますが、
精霊は神様が喜ばれることは何かという観点で声を発するので、
クリスチャンの内側では、この二つの声の衝突が多々起こります。
このような訳でクリスチャン生活には、クリスチャンになる前の生活より多くの
様々な不安や、試練や、疑いが襲ってきます。
自分一人で歩いていけるわけないんです。
ですからクリスチャンたちは教会に集い、お互いを励まし合うのです。
ここに教会の存在意義と、クリスチャンでしか得られない喜びがあるのです。
*****
一方、クリスチャンでない人たち、あるいは一部のクリスチャンの中には、
何でも自分でやろうとする人がいます。
特に信者になりたてのクリスチャンに多い例を挙げます。
洗礼を受けた後
「よし!頑張ろう!」と決意して、
神様の御言葉に従って生きようと頑張ります。
しばらくして彼らはこんなふうに呟き始めます。
「何だか、祝福されている気がしないなぁ〜」
そして、彼らはどんなに一生懸命御言葉に従っても、
ちっとも祝福されたり、天の恵みを感じられないことに悩み、
やがて、教会から離れて行ってしまうのです。
これは、特に日本人クリスチャンに多く見られるようです。
日本人クリスチャンはとても真面目な方が多いです。
頑張るところも日本文化の美学なのでしょうがないのかもしれません。
しかし、この「頑張る」という頑な(かたくな)になる性質が
クリスチャンとしての成長を妨げることを知っているクリスチャンは
ほとんどいないのではないでしょうか。
*****
ここからは、豆の学びを分かち合わせてください。
さて、御子イエス・キリストが十字架で死なれたとき、
神様はご自分から人類に対する態度を変えられました。
生まれてから十字架に掛けられて死ぬまで
人としてイエス・キリストは、人の苦しみや悲しみをわからない神ではありません。
その神が死ぬ直後に私たちのために祈るのをご覧になった天の父なる神様は
人を憐れみ、自ら私たちのそれまでの罪を許し、そして祝福してくださるようになりました。
ですから私たちが天から与えられる恵みは、神様からの一方的なプレゼントなのです。
一方、日本の真面目なクリスチャンたちは、それを受取ろうとはせず、
自分の努力によって乗り越えようとします。
努力することは日本人の美徳なのですが、この場合は間違いです。
心がこのように頑なになっていては、そのような恵みに対してアクセスすることができないのです。
頑なな彼らは新しい信者に向かっても「良かったね、頑張ろうね」といいます。
でもそれは間違ったアドバイスです。それではますます頑なな人を増やすだけです。
真面目な人ほど、クリスチャンになっても神様から祝福されている感覚がわからないといいます。
それで、最初は熱心に通っていたけれど、救われている感覚がないのでやっぱり信じられないという流れになり、
だんだんとその足が教会から離れていくのです。
もうお分かりのことと存じますが、それはその人たちが頑なだからです。
祝福や恵みは天から一方的に与えられているものです。努力で勝ち取るものではないのです。
神様は憐れみ深い方です。
神様は私たちの髪の毛1本までご存知です。ですから今更できないことを責めたりはしません。
むしろ、素直に
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、祈ってきてくれるのを待っています。冒頭で重要だと言ったのはこのためです。
このように言うと、人間が如何に無力で罪深いかを強調して、悲しませて救いを求めさせようとする教会が正しいかのように思えるかもしれませんが、それは信仰ではなくカルトです。
信仰は、未だ体験していないけれど、それが真実だと信じることです。
信仰に、感じる、感じないとかいうその人の心の状態は関係ありません。
水を最後に発見するのは魚だと言われるのと同じことです。
人類が空気を発見するのにも大変な時間がかかりました。ですが、
魚の周りには水が、人間の周りにも空気が、いつも存在していました。
これと同じで、私たちの周りに神様の恵みはいつも存在しているのです。
ですから、先ほどの新しい信者に対しても
「良かったね、これからも恵みに頼ろうね」というのが、正しいアドバイスなんです。
ちなみに恵みはギリシャ語で「カリス」、精霊の賜物は「カリスマ」と言います。
「あの人はカリスマ性がある」という言葉があります。
あのカリスマ性とは超自然的な資質のことで、
それはこの「カリスマ」から来ているのです。
カリスマ性のある人が「俺はカリスマ性がある」なんて言いませんよね?
そう、カリスマとは本人は意識していなくとも常に
そこに「恵み」としてその人に与えられているものなのです。
カリスマ性のある人は、与えられたその恵みを自分のものとして受け取り、
体験している人です。
何だかよくわからないけれど、自信があふれているように見えるのは、
彼が恵みにアクセスし、超自然的な力の後押しを感じて
これならきっとできるという確信を得ているからなのです。
このように恵みというのは、信者を祝福し、守り、支える、超自然的な神の御手です。
一方的な、神様からのプレゼントなのです。
結局、成熟したクリスチャンかどうかとうのは
この恵みを自分の物として受け取り、体験しているかどうかです。
豆も、
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、素直に祈れるようになりたいです。
おしまい。
前回、(前回の内容はこちら)
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
という姿勢が、クリスチャン生活で最も重要だという話をしました。
よくあるクリスチャン生活にある誤解は、
クリスチャンになれば神様に祝福されて、迷いや苦難から解放され、毎日をハッピーな気持ちで
喜んで過ごせるというものです。
クリスチャンになると、肉の体の内に精霊が宿ります。
クリスチャンになるまでは、肉の体の声だけ聞いていれば良かったのですが、
クリスチャンになると、肉の体の声と、精霊の声の二つが聞こえてくるようになります。
肉の体、すなわち自分の声は、自分の感情からくる自己中心的な観点でものを言いますが、
精霊は神様が喜ばれることは何かという観点で声を発するので、
クリスチャンの内側では、この二つの声の衝突が多々起こります。
このような訳でクリスチャン生活には、クリスチャンになる前の生活より多くの
様々な不安や、試練や、疑いが襲ってきます。
自分一人で歩いていけるわけないんです。
ですからクリスチャンたちは教会に集い、お互いを励まし合うのです。
ここに教会の存在意義と、クリスチャンでしか得られない喜びがあるのです。
*****
一方、クリスチャンでない人たち、あるいは一部のクリスチャンの中には、
何でも自分でやろうとする人がいます。
特に信者になりたてのクリスチャンに多い例を挙げます。
洗礼を受けた後
「よし!頑張ろう!」と決意して、
神様の御言葉に従って生きようと頑張ります。
しばらくして彼らはこんなふうに呟き始めます。
「何だか、祝福されている気がしないなぁ〜」
そして、彼らはどんなに一生懸命御言葉に従っても、
ちっとも祝福されたり、天の恵みを感じられないことに悩み、
やがて、教会から離れて行ってしまうのです。
これは、特に日本人クリスチャンに多く見られるようです。
日本人クリスチャンはとても真面目な方が多いです。
頑張るところも日本文化の美学なのでしょうがないのかもしれません。
しかし、この「頑張る」という頑な(かたくな)になる性質が
クリスチャンとしての成長を妨げることを知っているクリスチャンは
ほとんどいないのではないでしょうか。
*****
ここからは、豆の学びを分かち合わせてください。
さて、御子イエス・キリストが十字架で死なれたとき、
神様はご自分から人類に対する態度を変えられました。
生まれてから十字架に掛けられて死ぬまで
人としてイエス・キリストは、人の苦しみや悲しみをわからない神ではありません。
その神が死ぬ直後に私たちのために祈るのをご覧になった天の父なる神様は
人を憐れみ、自ら私たちのそれまでの罪を許し、そして祝福してくださるようになりました。
ですから私たちが天から与えられる恵みは、神様からの一方的なプレゼントなのです。
一方、日本の真面目なクリスチャンたちは、それを受取ろうとはせず、
自分の努力によって乗り越えようとします。
努力することは日本人の美徳なのですが、この場合は間違いです。
心がこのように頑なになっていては、そのような恵みに対してアクセスすることができないのです。
頑なな彼らは新しい信者に向かっても「良かったね、頑張ろうね」といいます。
でもそれは間違ったアドバイスです。それではますます頑なな人を増やすだけです。
真面目な人ほど、クリスチャンになっても神様から祝福されている感覚がわからないといいます。
それで、最初は熱心に通っていたけれど、救われている感覚がないのでやっぱり信じられないという流れになり、
だんだんとその足が教会から離れていくのです。
もうお分かりのことと存じますが、それはその人たちが頑なだからです。
祝福や恵みは天から一方的に与えられているものです。努力で勝ち取るものではないのです。
神様は憐れみ深い方です。
神様は私たちの髪の毛1本までご存知です。ですから今更できないことを責めたりはしません。
むしろ、素直に
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、祈ってきてくれるのを待っています。冒頭で重要だと言ったのはこのためです。
このように言うと、人間が如何に無力で罪深いかを強調して、悲しませて救いを求めさせようとする教会が正しいかのように思えるかもしれませんが、それは信仰ではなくカルトです。
信仰は、未だ体験していないけれど、それが真実だと信じることです。
信仰に、感じる、感じないとかいうその人の心の状態は関係ありません。
水を最後に発見するのは魚だと言われるのと同じことです。
人類が空気を発見するのにも大変な時間がかかりました。ですが、
魚の周りには水が、人間の周りにも空気が、いつも存在していました。
これと同じで、私たちの周りに神様の恵みはいつも存在しているのです。
ですから、先ほどの新しい信者に対しても
「良かったね、これからも恵みに頼ろうね」というのが、正しいアドバイスなんです。
ちなみに恵みはギリシャ語で「カリス」、精霊の賜物は「カリスマ」と言います。
「あの人はカリスマ性がある」という言葉があります。
あのカリスマ性とは超自然的な資質のことで、
それはこの「カリスマ」から来ているのです。
カリスマ性のある人が「俺はカリスマ性がある」なんて言いませんよね?
そう、カリスマとは本人は意識していなくとも常に
そこに「恵み」としてその人に与えられているものなのです。
カリスマ性のある人は、与えられたその恵みを自分のものとして受け取り、
体験している人です。
何だかよくわからないけれど、自信があふれているように見えるのは、
彼が恵みにアクセスし、超自然的な力の後押しを感じて
これならきっとできるという確信を得ているからなのです。
このように恵みというのは、信者を祝福し、守り、支える、超自然的な神の御手です。
一方的な、神様からのプレゼントなのです。
結局、成熟したクリスチャンかどうかとうのは
この恵みを自分の物として受け取り、体験しているかどうかです。
豆も、
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、素直に祈れるようになりたいです。
おしまい。
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