2018年05月16日
聖書が教えている結婚観、離婚観とは?
TVのニュースで女性の権利が拡大しているという
ニュースを見ていて、あるキーワードに違和感を覚えました。
それは「離婚」です。
結婚もまだな豆が離婚を心配するのはおかしいかもしれません。
国会でも女性の声をより反映させていく法律ができたようですが、
何でもかんでも女性が正しいというのには
いささか手放しでは喜べないのが本音です。
豆の家庭はいわゆる「かかあ天下」でしたが、良い面もあれば
悪い面もありました。
特に母が感情で家庭をかき回すのには、幼い頃から恐怖と怒りを
持っていました。やがて母が子どもらが全員就職して家に1人になる時間が増えると鬱になり、
それがまた家庭をかき回すのが豆はもの凄く嫌でした。
豆の婚期が伸びていることもこのことは少なくとも影響を及ぼしているような気がします。
そのようなわけで、女性の心の都合だけで結婚したり離婚したり
何でも女性の意見がそのまままかり通るのは
将来に対してもの凄く不安を覚えました。
そこで、真理を知る神様は、この豆の不安についてどうお考えなのかを知るために、
いつものように聖書に立ち返ってみたのです。
すると、やっぱりありました。離婚についての真理の箇所が
聖書にはちゃんとかいてあるではありませんか!
そのような訳で、今日は結婚、離婚について
できれば結婚したことのある、かつ離婚も考えたこともある女性の方に
聖書に基づく考え方の学びを豆に分かち合わせてください。
実際のリアルなお声をいただけたら尚、幸いです。
誠に恐縮ではありますが、未熟な豆に最後までお付き合いいただければと存じます。
どうぞ宜しくお願いします。
*****
結婚、離婚については、以下の聖書箇所で触れられていました。
新約聖書、マタイの福音書19章です。
19:3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
(マタイ19:3〜6)
結論から言いますと、
神様は本来、創造の秩序の中で離婚というものを創造していません。
また、旧約聖書の申命記には離婚について、モーセの律法の箇所に記述があります。
申命記 24:1)によれば
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。
とあります。しかしこれは、モーセが、私が頑ななために、
離婚状をわたせば離婚して良いと
妥協しているのです。
ここでの「妻に何か恥ずべき事」とは何でしょうか。
聖書を正しく理解するためには、できるだけ聖書が書かれた当時のユダヤ人たちと
同じ視点を持って聖書を解釈しなければなりません。
ですから、ここで当時のユダヤ人たちの聖書理解と同じ立場に立てば、
離婚が見とれられるのは不貞(姦淫)だけです。
ここで注意すべきポイントは、2つです。
まず、1つめはモーセの律法の時代、すなわち旧約聖書の時代においては
離婚の権利があるのは男性だけです。
余談ですが、現在でのユダヤ教の地域では、
今でも法律で離婚が許されているのが男性だけだという地域が存在します。
それだけ、この時代でのユダヤ人たちの間では、男尊女卑のムードが強かったのです。
*****
イエス様がまだ生きておられたこの頃は、まだ旧約聖書の時代のムードが色濃い時代でした。
しかし、イエス様は
離婚の条件は「妻の不貞だけでなく、夫の不貞も問題にせよ。」と言われています。
つまり、女性だけでなく、男性側にも問題があるだろう?と指摘されているのです。
これが、旧約聖書の時代から新約聖書の時代になって
モーセの律法から解放された後の、新しい離婚に対する考え方なのです。
ではイエス様は離婚を認められたのでしょうか?
いいえ。違います。
この時代のイエス様は父である神様に従って、神の御心を伝えるお方でした。
神様の御心は完全で、永遠なものなので、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に変わったとしても
その意図は、つまり真理は変わらないはずです。
ですから、イエス様が神様の結婚と離婚についてのお考えをどのように私たちに教えてくださっているのか、1つ1つの聖句をもう少し詳しく見てみましょう。
*****
パリサイ人たちが離婚について、
イエス様に
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
と質問したとき、
イエス様は次のように答えられています。
19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。
つまりイエス様はこう教えられたのです。
神様は初めから人類を男と女に造られたんだ。だから人(=男)は必ずその妻と結ばれて一心同体、
ようやくそれで一人前になるのだ。だから離婚なんてあり得ることではないのです。
(【お詫び】当時のユダヤ人たちの間では、男性にのみ結婚・離婚の権利が与えられていました。ですから、「(=男)」としたのは、女性は結婚・離婚を決める立場になかったんだということを強調するためです。これは女性を差別しているのではなく、聖書を正しく理解する上ではどうしても当時のユダヤ人たちが理解したのとなるべく同じ理解になるように、意味を理解しなければならないためです。気分を害された女性の方がいらした場合は、何卒、ご容赦ください。)
これは創世記で、まず男性のアダムが大地の塵から造られ、続いて女性のエバがその助け手としてアダムのアバラ骨から造られたことを言っています。
アダムの使命は人類以外の地上のあらゆる生物たちを神の御心に従って支配することでした。
人間の感覚ですと、支配者は一人でいいはずです。
人間は今でも支配者が複数いると必ず争いが起きますよね?
しかし、神様は(神様の感覚では)助け手としてエバをわざわざお作りになられたのです。
つまり、人類は男と女、二人で一人前になるように、神様は私たちをお作りになったのです。
そして結論、
19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』
これが結婚というものの、神様の意図なのです。
ですから、
離婚はあり得ない。
これが、豆の離婚に関する聖書的理解です。
*****
私たちの天のお父様は、こうしてみると確かに
私たちは「妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる」のが当たり前だと
おっしゃっておられます。
でも、
実際私たちは、離婚を禁止することはあり得ません。
では、この離婚というものを
クリスチャンである私たちはどのように考えたら良いでしょうか。
実は、ここに人間の相手を許せない性質が現れているのだと
豆は思います。
前回の記事「恵みを受け、恵みを与える」で、
如何にクリスチャンにとって「許し」の聖書的理解を深めることが重要なのかを
まとめました。
それを基に考えてみると、
どうしても離婚から執着が離れないときの処方箋として
神様の御心に関する豆の結論はこうです。
離婚ではなく、許しと和解によって結婚を継続すること。
これが、神様が望んでおられる
私たちの結婚というものの在り方なのだと、豆は思います。
結局のところ、離婚問題も、その要は「許し」と「プライド」の問題に集約されるのです。
「あの男を許せというのか!」と怒る気持ちはわかりますが、
それこそ神様の深い愛と、自分がどれだけ神様に許してもらったかに立ち返り、
「許し」を実践すべきです。
それは何も相手のことだけではないでしょう。
未熟だった自分を許したり、おのおのの育った環境や今の状況を許したり、
許す対象も1つではないはずです。
それでも「やっぱり許せない!」
その通りでしょう。
それでいいのです。
私たちはそうやって「どんなに頑張ってもできないことがある」
ことを学ぶのです。
そうすると次は自然に
「ああ、神様・・・お願いします。。。どうか私に・・・させてください。」
と祈りたくなると思います。
18:4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
(マタイ18:4)
そのような訳で、イエス様は私たちの信仰が育つためには
そのような自分の弱さに気づき、単純な信頼を持って神様に近づく、
まるで子どものような心に立ち返ることが
何よりも大切なのですとお教えくださっているのです。
ですから、前回も触れましたが
1、プライドの問題
2、兄弟たちに対する許しの方法
3、許しに関する理解
この3つの聖書的理解をしっかりと深めていくことは
クリスチャン生活を本来あるべき自由で、ダイナミックなものにするためには、
やはり不可欠なのです。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Broken Vessels
----以下、追記(それからしばらくして)----
(1)クリスチャン女性とのお付き合いを経験
豆は、それからしばらくしてクリスチャン女性とお付き合いをさせていただく事になりました。
お相手はお付き合いがはじめての30代前半の女性で、豆は当時38歳。とても心が躍りました。
時を重ねるにつれて、なんだかずいぶん高圧的な人だなと思いましたが、
自分の母親の耐え難いマウンティングな圧に比べたら似たようなもので
耐えられない程度ではないと思った豆は、数々の価値観の違いと戦いながら関係を維持し、
やがて40歳を迎えました。
豆が自身で決めていた結婚のリミット、40歳を迎えても、
高圧的な態度が変わることはありませんでした。
しかし、純粋な女性ほど憶病で、
憶病なゆえに色々と試すのだ、と心得ていましたので、
彼女の我がままは、最初は子供が我がままで親がどこまで自分の言うことを聞いてくれるかを
試すようなものだろうと思えばその辛さに耐え忍ぶことができました。
しかし一向に衰えず、むしろ次々に追加されてる否定と課題で
次第に豆のそのような一見堅牢な忍耐は、彼女への愛からただの忍耐、
そしてついには白けてしまうようになりました。
そこまで来ても、彼女の高圧的な態度はついに止むことはなく、
むしろ気を遣わない関係を正とする意志がはっきりと見て取れるようになったとき、
豆の彼女の態度への忍耐は、
神様の与えてくれた出会いだからという最後の望みと希望の否定と共に
砕けていったのです。
そして、彼女がようやく豆との結婚を決意できたとき、豆も彼女との別れを決意したのです。
(2)止まない喧嘩や意見の不一致。その原因とは・・・
「喧嘩が止まないようであれば、離婚しないさい。
主である私への信頼が失われるくらいならその方がマシです。」
別れの決意が固まった夜、
「この女性との出会いは本当に御心でしょうか」という長年の結婚の祈りに神様が答えられ、
そう聞こえたような気がしました。
実際、「彼女が御心で派遣されてきてくれた相手だ」という神様への信頼は、その時の一瞬、
完全に消え去りました。
そして彼女を振った後で心が彼女から自由になってから、その失われた神様への信頼は戻ったのです。
彼女は神様をもその手に従えていたという別れの理由と共に。
(3)男性として、愛する人のために聖で居続けるためにできる唯一のこと
それから1回、別れの理由をきちんと聞かせてほしいという連絡が来て以来、彼女とは連絡を取っていません。彼女からもありませんし、私からもしていません。
時が経つにつれ、あれほど嫌だった彼女の高圧的な態度も、今では正直な態度で接してくれた、その意味で
誠実な人だったという良き思い出に変わってきています。
そしてまたその誠実さは彼女自身の神様への信頼の証しだったとも思います。
彼女が豆との結婚を決意した理由もこの「神様への信頼」であったことを確信します。
彼女の神様への信頼とは、「神様は粘り強く祈れば必ず私の願いを聞いてくださる。」という事に基づく
ものであったに違いありません。
ここに、豆に別れを決意させた彼女と豆の神観との決定的な違いがあったのです。
すなわち、
「私の祈りは必ず聞き入れられる。神様はきっと答えてくださる。」そう彼女は信じていたことでしょう。
しかし豆のそれは
「豆の祈りは必ず聞いていてくださる。そして神様はきっと答えてくださる。それは豆の願いを叶えるという形ではなくとも豆はその決定を最善だと信じます。」でした。
彼女には、自分を疑うという姿勢が私に比べて少なかったと思います。
自分を否定する代わりに神様に祈り、教会の牧師先生らに相談して必ず自分の意見を肯定して戻ってくる。
私が彼女と結婚はできないと思った最大の理由はここにありました。
豆が今思う、男性が愛する女性のために、聖なる者として御前で彼女への愛を告白するまでに出来得る唯一のこと。
それは、神より彼女の地位を自分の中で一番にしないということです。
豆は自身のこの神観ゆえに、彼女の高圧的な態度にも耐えることができました。
神様の決定は絶対だからです。
しかし彼女は彼女の祈り通りにならない現実を決して受け入れませんでした。それはおそらく
「神様は私の祈りを聞き入れてくださる」という神様への信頼は絶対だったからだろうと思います。
(4)結婚を祈る女性が陥りやすい聖書違反
熱心なクリスチャン女性ほど、具体的な祈りが重要として、とても詳細な祈りのリストを持って
神様に祈ることを日課にしておられるようです。これは豆がいくつかクリスチャン婚活サービスを
利用した経験に基づくものですが。
豆に言わせれば、彼女の神観は、自分の願いを聞き入れてるという条件下での神に対する実効支配。
女性の神を神とも思わない無意識。
つまりそれは、彼女の神は自分自身であること、
もっと言えば、彼女が実際に信じていたのは神をも味方につけた自分だということです。
これが事実なら、おそらく彼女は3代目のクリスチャンであるにもかかわらず聖書の神様を理解していないばかりか、今までずっと理解しようと意識もしていなかったと言えるでしょう。
そんな自己中心的な女性と結婚などしたら、豆は神様ではなく彼女を神様より優先させなければならず、
それは神の戒めを守らないという重大な罪を犯すことになります。
夫婦として彼女と一体となるにはそうするしかないからですが、それはアダムがエバから善悪の木の実を
受け取って食べたのと同じことになってしまいます。アダムの行動が、結果的に愛するエバをも神の愛から
引き離してしまった。
そうさせないためにも、豆は、彼女に「彼にとっては女は私だけ」と安心させてはなりません。
他の女性の影をちらつかせるということではありません。
彼女と一緒にいるのはあくまで神の戒めを豆が守っているからであって、彼女に心を捧げた訳ではない。
そう彼女に示すことで、彼女の「男性の神、すなわち唯一の存在」に成り上がろうとする高慢な態度を
芽生える度に打ち砕く必要があると思うのです。一見するととても不誠実で残酷のように思えますが。
(5)愛する女性のために男性だからこそできる、神に対する忠義とは何か
二人の間に平安がないと思ったら、豆はまず、自分が神の戒めを破っていないか総点検する必要があります。
戒めは、それを守ることで自動的にそれをする対象が神の支配下に入るための救済装置だからです。
価値観は夫婦で違っていても問題ない。衝突があるのも含めて。
男と女、そもそも性質が違うのですから。
しかし神観は一致していなければならない。
しかも、その神観は、神様を各々の奉献生活における絶対的な支配者として。
ここが一致してさえいれば、夫婦はたとえ意見が対立しても、夫婦として一致することができます。
対立が生じたときのお互いの取るべき態度はシンプルに
夫は妻をキリストを愛するように愛することで一歩引き、
妻は夫をキリストを敬うように敬うことで一歩引くのです。
お互いが一歩ずつ引き、間にキリストの平和を招くことで、夫婦は心ひとつに一体となることができます。
ひとえに、キリストの戒めのゆえに。戒めを破りキリストを悲しませてはならないゆえに。
自分の気持ちに沿わなくとも、神の戒めのゆえに、その戒めを自分の気持ちより優先させる。
戒めの理解が夫婦で一致しなければ、それこそ牧師先生に聞くなどして一致させればよく、
最終的には解釈を一致させたその戒めのゆえに、夫婦、いや、二人の心を一体に戻す。
キリストの平安が、私たちにありますように。
こうしてキリストの平安にあずかって、問題のたびに
二人は本当の意味で結ばれていく。神の御心のゆえに。
聖書について語るとき、やたら神様の愛や赦しばかりを強調しがちな
自己否定と悔い改めの少ない女性とは、
結婚に係る戒め違反の罪という障壁のゆえに、そもそも婚を結ぶことができないのかもしれません。
だとしても、それならそれで結婚を阻止できたことをむしろ喜ぶべきです。
往々にして離婚は男性が女性に従わないことで起こるものです。
それは一見すると、女性の尊厳を男性が尊重しなかった、傷つけたという愛の欠如み見えるかもしれません。
しかし、それはもしかすると
聖書的に言って、
男性が神より女性を愛し、神の戒めより女性の意思を優先させたという
聖書の戒め違反の中でも極めて重い偶像崇拝の罪から起きているのかもしれないのです。
男性にとって、愛する女性に責められるのは大変心が痛む、とても辛い事かもしれません。
ですが男性が愛する女性を特別な人として神に告白する前に、
まずは男性自身が神に対して聖であり続ける必要があります。
そしてそのためには、
きっと、
本当にお相手の女性を愛しているならば、
女性の気持ちに共感はしても、女性の気持ちを盲目的でかつ全面的に支持してはいけないのです。
ニュースを見ていて、あるキーワードに違和感を覚えました。
それは「離婚」です。
結婚もまだな豆が離婚を心配するのはおかしいかもしれません。
国会でも女性の声をより反映させていく法律ができたようですが、
何でもかんでも女性が正しいというのには
いささか手放しでは喜べないのが本音です。
豆の家庭はいわゆる「かかあ天下」でしたが、良い面もあれば
悪い面もありました。
特に母が感情で家庭をかき回すのには、幼い頃から恐怖と怒りを
持っていました。やがて母が子どもらが全員就職して家に1人になる時間が増えると鬱になり、
それがまた家庭をかき回すのが豆はもの凄く嫌でした。
豆の婚期が伸びていることもこのことは少なくとも影響を及ぼしているような気がします。
そのようなわけで、女性の心の都合だけで結婚したり離婚したり
何でも女性の意見がそのまままかり通るのは
将来に対してもの凄く不安を覚えました。
そこで、真理を知る神様は、この豆の不安についてどうお考えなのかを知るために、
いつものように聖書に立ち返ってみたのです。
すると、やっぱりありました。離婚についての真理の箇所が
聖書にはちゃんとかいてあるではありませんか!
そのような訳で、今日は結婚、離婚について
できれば結婚したことのある、かつ離婚も考えたこともある女性の方に
聖書に基づく考え方の学びを豆に分かち合わせてください。
実際のリアルなお声をいただけたら尚、幸いです。
誠に恐縮ではありますが、未熟な豆に最後までお付き合いいただければと存じます。
どうぞ宜しくお願いします。
*****
結婚、離婚については、以下の聖書箇所で触れられていました。
新約聖書、マタイの福音書19章です。
19:3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
(マタイ19:3〜6)
結論から言いますと、
神様は本来、創造の秩序の中で離婚というものを創造していません。
また、旧約聖書の申命記には離婚について、モーセの律法の箇所に記述があります。
申命記 24:1)によれば
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。
とあります。しかしこれは、モーセが、私が頑ななために、
離婚状をわたせば離婚して良いと
妥協しているのです。
ここでの「妻に何か恥ずべき事」とは何でしょうか。
聖書を正しく理解するためには、できるだけ聖書が書かれた当時のユダヤ人たちと
同じ視点を持って聖書を解釈しなければなりません。
ですから、ここで当時のユダヤ人たちの聖書理解と同じ立場に立てば、
離婚が見とれられるのは不貞(姦淫)だけです。
ここで注意すべきポイントは、2つです。
まず、1つめはモーセの律法の時代、すなわち旧約聖書の時代においては
離婚の権利があるのは男性だけです。
余談ですが、現在でのユダヤ教の地域では、
今でも法律で離婚が許されているのが男性だけだという地域が存在します。
それだけ、この時代でのユダヤ人たちの間では、男尊女卑のムードが強かったのです。
*****
イエス様がまだ生きておられたこの頃は、まだ旧約聖書の時代のムードが色濃い時代でした。
しかし、イエス様は
離婚の条件は「妻の不貞だけでなく、夫の不貞も問題にせよ。」と言われています。
つまり、女性だけでなく、男性側にも問題があるだろう?と指摘されているのです。
これが、旧約聖書の時代から新約聖書の時代になって
モーセの律法から解放された後の、新しい離婚に対する考え方なのです。
ではイエス様は離婚を認められたのでしょうか?
いいえ。違います。
この時代のイエス様は父である神様に従って、神の御心を伝えるお方でした。
神様の御心は完全で、永遠なものなので、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に変わったとしても
その意図は、つまり真理は変わらないはずです。
ですから、イエス様が神様の結婚と離婚についてのお考えをどのように私たちに教えてくださっているのか、1つ1つの聖句をもう少し詳しく見てみましょう。
*****
パリサイ人たちが離婚について、
イエス様に
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
と質問したとき、
イエス様は次のように答えられています。
19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。
つまりイエス様はこう教えられたのです。
神様は初めから人類を男と女に造られたんだ。だから人(=男)は必ずその妻と結ばれて一心同体、
ようやくそれで一人前になるのだ。だから離婚なんてあり得ることではないのです。
(【お詫び】当時のユダヤ人たちの間では、男性にのみ結婚・離婚の権利が与えられていました。ですから、「(=男)」としたのは、女性は結婚・離婚を決める立場になかったんだということを強調するためです。これは女性を差別しているのではなく、聖書を正しく理解する上ではどうしても当時のユダヤ人たちが理解したのとなるべく同じ理解になるように、意味を理解しなければならないためです。気分を害された女性の方がいらした場合は、何卒、ご容赦ください。)
これは創世記で、まず男性のアダムが大地の塵から造られ、続いて女性のエバがその助け手としてアダムのアバラ骨から造られたことを言っています。
アダムの使命は人類以外の地上のあらゆる生物たちを神の御心に従って支配することでした。
人間の感覚ですと、支配者は一人でいいはずです。
人間は今でも支配者が複数いると必ず争いが起きますよね?
しかし、神様は(神様の感覚では)助け手としてエバをわざわざお作りになられたのです。
つまり、人類は男と女、二人で一人前になるように、神様は私たちをお作りになったのです。
そして結論、
19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』
これが結婚というものの、神様の意図なのです。
ですから、
離婚はあり得ない。
これが、豆の離婚に関する聖書的理解です。
*****
私たちの天のお父様は、こうしてみると確かに
私たちは「妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる」のが当たり前だと
おっしゃっておられます。
でも、
実際私たちは、離婚を禁止することはあり得ません。
では、この離婚というものを
クリスチャンである私たちはどのように考えたら良いでしょうか。
実は、ここに人間の相手を許せない性質が現れているのだと
豆は思います。
前回の記事「恵みを受け、恵みを与える」で、
如何にクリスチャンにとって「許し」の聖書的理解を深めることが重要なのかを
まとめました。
それを基に考えてみると、
どうしても離婚から執着が離れないときの処方箋として
神様の御心に関する豆の結論はこうです。
離婚ではなく、許しと和解によって結婚を継続すること。
これが、神様が望んでおられる
私たちの結婚というものの在り方なのだと、豆は思います。
結局のところ、離婚問題も、その要は「許し」と「プライド」の問題に集約されるのです。
「あの男を許せというのか!」と怒る気持ちはわかりますが、
それこそ神様の深い愛と、自分がどれだけ神様に許してもらったかに立ち返り、
「許し」を実践すべきです。
それは何も相手のことだけではないでしょう。
未熟だった自分を許したり、おのおのの育った環境や今の状況を許したり、
許す対象も1つではないはずです。
それでも「やっぱり許せない!」
その通りでしょう。
それでいいのです。
私たちはそうやって「どんなに頑張ってもできないことがある」
ことを学ぶのです。
そうすると次は自然に
「ああ、神様・・・お願いします。。。どうか私に・・・させてください。」
と祈りたくなると思います。
18:4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
(マタイ18:4)
そのような訳で、イエス様は私たちの信仰が育つためには
そのような自分の弱さに気づき、単純な信頼を持って神様に近づく、
まるで子どものような心に立ち返ることが
何よりも大切なのですとお教えくださっているのです。
ですから、前回も触れましたが
1、プライドの問題
2、兄弟たちに対する許しの方法
3、許しに関する理解
この3つの聖書的理解をしっかりと深めていくことは
クリスチャン生活を本来あるべき自由で、ダイナミックなものにするためには、
やはり不可欠なのです。
おしまい。
♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪
曲名:Broken Vessels
----以下、追記(それからしばらくして)----
(1)クリスチャン女性とのお付き合いを経験
豆は、それからしばらくしてクリスチャン女性とお付き合いをさせていただく事になりました。
お相手はお付き合いがはじめての30代前半の女性で、豆は当時38歳。とても心が躍りました。
時を重ねるにつれて、なんだかずいぶん高圧的な人だなと思いましたが、
自分の母親の耐え難いマウンティングな圧に比べたら似たようなもので
耐えられない程度ではないと思った豆は、数々の価値観の違いと戦いながら関係を維持し、
やがて40歳を迎えました。
豆が自身で決めていた結婚のリミット、40歳を迎えても、
高圧的な態度が変わることはありませんでした。
しかし、純粋な女性ほど憶病で、
憶病なゆえに色々と試すのだ、と心得ていましたので、
彼女の我がままは、最初は子供が我がままで親がどこまで自分の言うことを聞いてくれるかを
試すようなものだろうと思えばその辛さに耐え忍ぶことができました。
しかし一向に衰えず、むしろ次々に追加されてる否定と課題で
次第に豆のそのような一見堅牢な忍耐は、彼女への愛からただの忍耐、
そしてついには白けてしまうようになりました。
そこまで来ても、彼女の高圧的な態度はついに止むことはなく、
むしろ気を遣わない関係を正とする意志がはっきりと見て取れるようになったとき、
豆の彼女の態度への忍耐は、
神様の与えてくれた出会いだからという最後の望みと希望の否定と共に
砕けていったのです。
そして、彼女がようやく豆との結婚を決意できたとき、豆も彼女との別れを決意したのです。
(2)止まない喧嘩や意見の不一致。その原因とは・・・
「喧嘩が止まないようであれば、離婚しないさい。
主である私への信頼が失われるくらいならその方がマシです。」
別れの決意が固まった夜、
「この女性との出会いは本当に御心でしょうか」という長年の結婚の祈りに神様が答えられ、
そう聞こえたような気がしました。
実際、「彼女が御心で派遣されてきてくれた相手だ」という神様への信頼は、その時の一瞬、
完全に消え去りました。
そして彼女を振った後で心が彼女から自由になってから、その失われた神様への信頼は戻ったのです。
彼女は神様をもその手に従えていたという別れの理由と共に。
(3)男性として、愛する人のために聖で居続けるためにできる唯一のこと
それから1回、別れの理由をきちんと聞かせてほしいという連絡が来て以来、彼女とは連絡を取っていません。彼女からもありませんし、私からもしていません。
時が経つにつれ、あれほど嫌だった彼女の高圧的な態度も、今では正直な態度で接してくれた、その意味で
誠実な人だったという良き思い出に変わってきています。
そしてまたその誠実さは彼女自身の神様への信頼の証しだったとも思います。
彼女が豆との結婚を決意した理由もこの「神様への信頼」であったことを確信します。
彼女の神様への信頼とは、「神様は粘り強く祈れば必ず私の願いを聞いてくださる。」という事に基づく
ものであったに違いありません。
ここに、豆に別れを決意させた彼女と豆の神観との決定的な違いがあったのです。
すなわち、
「私の祈りは必ず聞き入れられる。神様はきっと答えてくださる。」そう彼女は信じていたことでしょう。
しかし豆のそれは
「豆の祈りは必ず聞いていてくださる。そして神様はきっと答えてくださる。それは豆の願いを叶えるという形ではなくとも豆はその決定を最善だと信じます。」でした。
彼女には、自分を疑うという姿勢が私に比べて少なかったと思います。
自分を否定する代わりに神様に祈り、教会の牧師先生らに相談して必ず自分の意見を肯定して戻ってくる。
私が彼女と結婚はできないと思った最大の理由はここにありました。
豆が今思う、男性が愛する女性のために、聖なる者として御前で彼女への愛を告白するまでに出来得る唯一のこと。
それは、神より彼女の地位を自分の中で一番にしないということです。
豆は自身のこの神観ゆえに、彼女の高圧的な態度にも耐えることができました。
神様の決定は絶対だからです。
しかし彼女は彼女の祈り通りにならない現実を決して受け入れませんでした。それはおそらく
「神様は私の祈りを聞き入れてくださる」という神様への信頼は絶対だったからだろうと思います。
(4)結婚を祈る女性が陥りやすい聖書違反
熱心なクリスチャン女性ほど、具体的な祈りが重要として、とても詳細な祈りのリストを持って
神様に祈ることを日課にしておられるようです。これは豆がいくつかクリスチャン婚活サービスを
利用した経験に基づくものですが。
豆に言わせれば、彼女の神観は、自分の願いを聞き入れてるという条件下での神に対する実効支配。
女性の神を神とも思わない無意識。
つまりそれは、彼女の神は自分自身であること、
もっと言えば、彼女が実際に信じていたのは神をも味方につけた自分だということです。
これが事実なら、おそらく彼女は3代目のクリスチャンであるにもかかわらず聖書の神様を理解していないばかりか、今までずっと理解しようと意識もしていなかったと言えるでしょう。
そんな自己中心的な女性と結婚などしたら、豆は神様ではなく彼女を神様より優先させなければならず、
それは神の戒めを守らないという重大な罪を犯すことになります。
夫婦として彼女と一体となるにはそうするしかないからですが、それはアダムがエバから善悪の木の実を
受け取って食べたのと同じことになってしまいます。アダムの行動が、結果的に愛するエバをも神の愛から
引き離してしまった。
そうさせないためにも、豆は、彼女に「彼にとっては女は私だけ」と安心させてはなりません。
他の女性の影をちらつかせるということではありません。
彼女と一緒にいるのはあくまで神の戒めを豆が守っているからであって、彼女に心を捧げた訳ではない。
そう彼女に示すことで、彼女の「男性の神、すなわち唯一の存在」に成り上がろうとする高慢な態度を
芽生える度に打ち砕く必要があると思うのです。一見するととても不誠実で残酷のように思えますが。
(5)愛する女性のために男性だからこそできる、神に対する忠義とは何か
二人の間に平安がないと思ったら、豆はまず、自分が神の戒めを破っていないか総点検する必要があります。
戒めは、それを守ることで自動的にそれをする対象が神の支配下に入るための救済装置だからです。
価値観は夫婦で違っていても問題ない。衝突があるのも含めて。
男と女、そもそも性質が違うのですから。
しかし神観は一致していなければならない。
しかも、その神観は、神様を各々の奉献生活における絶対的な支配者として。
ここが一致してさえいれば、夫婦はたとえ意見が対立しても、夫婦として一致することができます。
対立が生じたときのお互いの取るべき態度はシンプルに
夫は妻をキリストを愛するように愛することで一歩引き、
妻は夫をキリストを敬うように敬うことで一歩引くのです。
お互いが一歩ずつ引き、間にキリストの平和を招くことで、夫婦は心ひとつに一体となることができます。
ひとえに、キリストの戒めのゆえに。戒めを破りキリストを悲しませてはならないゆえに。
自分の気持ちに沿わなくとも、神の戒めのゆえに、その戒めを自分の気持ちより優先させる。
戒めの理解が夫婦で一致しなければ、それこそ牧師先生に聞くなどして一致させればよく、
最終的には解釈を一致させたその戒めのゆえに、夫婦、いや、二人の心を一体に戻す。
キリストの平安が、私たちにありますように。
こうしてキリストの平安にあずかって、問題のたびに
二人は本当の意味で結ばれていく。神の御心のゆえに。
聖書について語るとき、やたら神様の愛や赦しばかりを強調しがちな
自己否定と悔い改めの少ない女性とは、
結婚に係る戒め違反の罪という障壁のゆえに、そもそも婚を結ぶことができないのかもしれません。
だとしても、それならそれで結婚を阻止できたことをむしろ喜ぶべきです。
往々にして離婚は男性が女性に従わないことで起こるものです。
それは一見すると、女性の尊厳を男性が尊重しなかった、傷つけたという愛の欠如み見えるかもしれません。
しかし、それはもしかすると
聖書的に言って、
男性が神より女性を愛し、神の戒めより女性の意思を優先させたという
聖書の戒め違反の中でも極めて重い偶像崇拝の罪から起きているのかもしれないのです。
男性にとって、愛する女性に責められるのは大変心が痛む、とても辛い事かもしれません。
ですが男性が愛する女性を特別な人として神に告白する前に、
まずは男性自身が神に対して聖であり続ける必要があります。
そしてそのためには、
きっと、
本当にお相手の女性を愛しているならば、
女性の気持ちに共感はしても、女性の気持ちを盲目的でかつ全面的に支持してはいけないのです。
タグ:イエス・キリスト
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