2024年05月18日
【人間関係】「他人のためになんか祈りたくない」は悪ですか?
(1)他人の不幸をいちいち自分の祈りの課題にしたくない人々
教会で行う祈り会で、祈り会が辛いということを受けてその人に聞いてみたところ、
「自分の事ならいいですが、
他人の問題のことの為に祈るのが嫌だというのは何故ダメなのですかね」
と言われて考えたことがある。
後になって、その時のことを別の体験を通して振り返るきっかけが巡ってきたときに、
そこで出会った「その人の苦しみは、それ以上先に進まないようにするための神様のブレーキ」
という考え方に、当時は素敵だなあと感心したことを思い出す。
「その人の苦しみ」はその人のものだから、共感はしても支持はできないなら、
そのような自分とは関係のない苦しみに
「祈りの時だから」という理由だけで安易にその人のために祈らされるのはいかがなものか。
このような事を言うと非難される方がおられるが、
私もどちらかというと共感はできても支持できないことは支持しない派だ。
雰囲気に呑まれてやることのほとんどは薬であっても害であることが多いと思う。
支持しないことを支持するかのように振る舞うのは、後々祈ってあげた相手との関係にも
自分の心の中にも矛盾が出てきて苦しくなるのは明白だ。
苦しみを自ら背負ったところで、周囲は一時的に称賛するかもしれないが、
その苦しみに最後まで寄り添ってくれるような人は教会に通う信仰者であっても滅多にいない。
特に日本では。
(2)自分の心を見張る習慣をつける
「自分の心を見張れ」との聖書の言葉通り、
自分の心の健康を害するような事が何かを日々、瞑想でも日記で方法は何でもよいから
振り返り見張る習慣をつけたい。
聖書を研究し尽くしたユダヤのラビ達のタルムードには、家庭の教育方針として
「自分がしてもらった良いことを人にしないさい」という教えがある。
※参考文献:絵本「母鳥と三羽のヒナ」
ユダヤ人はお金持ちが多いと言わているが、その根底にある聖書の教え、特に聖書の隣人愛は、
このような「まず自分がしてもらった良いこと」から始まっている。
自分がしてもらったことの良い事を次の世代に引き継ぐ。
それがユダヤ人コミュニティーの民族教育としての強さだ。
家庭において最初に「自分がしてもらった良い事」をしてもらうのは子どもだが
子どもが親にしてもらった良い事が、親の愛情の気まぐれや押し売りではなく、
タルムード、すなわち聖書から出ていることが大事である。
時には親もやりたくなかったかもしれないが、
「タルムードに(すなわち聖書に)そう書いてあるから」を動機としてそれを敬い
感情を殺して聖書の教えを実践する。
大人の感情をしのぐ「(神様の)変わらない真理」をお父さん(またはお母さん)が
自分の感情より聖なるものとして大事にしている。
その聖なるものが、親の実践を通じてお父さん(またはお母さん)の子どもである自分に良くしてくれた。
そのような周り人の気持ちに左右されない小さい、でも確かな自分幸せが
親から子へと時代を経てもなお、良きものとしてユダヤ人コミュニティー全体として家庭を最小単位として今もなお保存、継承され続けている。
彼らはそのようにしてずっと、もちろん今日も自分の心を聖なるものから逸脱していないか見張り続けている。
方法は聖書通読でもシナゴーグでの集会でも、もちろん仏教のような瞑想でもかまわない。
「自分の心を見張る」。これが出来れば。
信仰とはこのような自分の心に見張りと守るべき指針を持つことだと思う。
そしてこれが信仰の本当の素晴らしさではないかとも。
(3)「自分の心を傷つけるもの」から遠ざかる
後に、他の教会でさりげなくこの事、つまり「他の人の不幸のことを自分は祈りたくない」と聞いた事
また、「その人の不幸はその人がそれよりも悪い状況にならないためのブレーキとして神様は備えている」
という考えをシェアしたとき、
一つは「状況は不幸だがそれが御心のブレーキならば、感謝の祈りをすればいい。」
もう一つは「その人は面倒くさいからやりたくないだけ」
この二通りの答えが返ってきた。
私はこのどちらにも共感できるが、支持はしない。
(a)最初の「不幸がその人のブレーキ」論だが、それは神様がブレーキをかけてるだけで、
本人はそれを感謝できる状況ではないはずだ。
不本意な感謝はしなくてもよい。
たとえそれが牧師先生に諭された感謝であっても、それに乗っかることは
その牧師先生の価値観を生きるということだ。
自分の思いより聖書の教えを大切にしなさいと「強要」するのであれば、それは神の御心ではなく牧師先生の聖書研究「に基づく考え」だろう。
聖書の教えは「恵み」を受けた人がそれを良きものだと認識し、この先もずっと残したい、伝えたいと思って書き残し、受け継がれてきたはずだ。そうでなければ「働き方改革」などのように、人は自分に利益が無いと判断したら止めてしまったり、書き換えてしまうから。
感謝も同様に、人から言われてするのはおかしくて、自分の人生を生きる上で感謝したいならすればいいが、そうでないならしなくてもよい。まさに聞く耳があれば(それが良いと思ったなら)、聞くがよい。(従いなさい。)である。
元々、その人の身に降りかかった不幸はその人のものだし、本人が嫌でもそれはあえてこちらがどうこうする必要があるものではない。むしろ、知った事ではないだろう。神様だってそうされる。
祈り会でも何でも、それに出たからといって他人の不幸の片棒を担がされるくらいなら
嫌味を言われながら退場した方が良かろう。それが「自分の心(人生そのもの)を見張る」ということだと私は思う。
鳩のように賢く、それが自分の関わることであるかどうか見張り、無用であれば手を引くことだ。
むしろそのために罵倒や嫌味に耐えなければならないならば、耐えて忍んで、自分の不幸を人に追わせようとする悪しきプレッシャーに勝利しに行こうぞ。
そして(自分が仕組んだのではない)その経験から自分が得た「良きもの」を自分の子(後に同じ経験をする大切な人)に引き継ごうではないか!
(B)については、もはや論外というべきか。
面倒くさがるのがなぜ悪いのか。その人の幸不幸が自分にとって大切でないのに。
教会のイベントがお互いに大事だというのなら関わってもいいだろうが、その人個人の不幸のどうのこうのというのは、その人が自分にとって大切な人でないならば面倒事として避けるのが正しい判断だ。
教会の問題と個人の問題を同じにしないで欲しい。それは協調性とは言わない。教会に協力するかどうかですら、一信徒であっても個人の判断の範疇のはずだ。
もっと言えば、教会を人助けビジネスかサービスと勘違いしないで欲しい。神様の仕事だって「人助け」ではない。
「やりたくないのは皆同じだから」というのなら、やりたくないのに従わなければ自身の人生を維持していけない状況を作ってきた、その人自身の責任だろう。聖書もます神は、「(最初は「私について来なさい」、あるいは「私と共に」と言って)個人を訓練し、整えてから世に派遣される。この流れからしても、「祈りたくない人」はまず自分の問題が優先されるべき人であって、そのような人にも「人のため」を強要してくるような人たちからは、明らかに他人に自分の不幸を担がせようという悪しき集団心理が見てとれる。
(5)執着を離れ、心と行いを清らかに整えていくために「法」に身を委ねる生き方を
他人のために祈る、祈らないの判断は、仏教でいう「自灯明」の考え方と同じだと思う。
自灯明の裏には「私の気持ち」よりもっと聖な、「法(仏教)」による「法灯明」がある。
キリスト教では聖書(タルムード等)が「法」であり、それに従って自分の道を自分で選択して歩んでよい「自由」は「自灯明」である。
どちらも「私」を人生の土台には据えていない。
私より聖なるものが、より良き生き方、より多き幸せには必要なのではないかと思う。
仏教では瞑想、キリスト教では祈りを通じて、
おのおのその「私」より聖なるものに自分の心を委ね、静寂もしくは平安にして
「自分」の心と行いを整えていくところに真の幸福を見い出す営みである。きっとそうだと思う。
自分ではこう思う。
でも人からはこう言われる。
これらを気にしてその場から動けなくなること。これが「執着」だ。
そのいずれからも静寂と平安によって自分を切り離し、まず「自分」に良き気づきを与え、
それを自分の大切な人に「私にもそういう時があったから、そういう時にはこうしたらいいよ」と
伝えてあげられるように人々がなっていける「聖なる、清き力」
それが「法」の恵みなのだ。
教会で行う祈り会で、祈り会が辛いということを受けてその人に聞いてみたところ、
「自分の事ならいいですが、
他人の問題のことの為に祈るのが嫌だというのは何故ダメなのですかね」
と言われて考えたことがある。
後になって、その時のことを別の体験を通して振り返るきっかけが巡ってきたときに、
そこで出会った「その人の苦しみは、それ以上先に進まないようにするための神様のブレーキ」
という考え方に、当時は素敵だなあと感心したことを思い出す。
「その人の苦しみ」はその人のものだから、共感はしても支持はできないなら、
そのような自分とは関係のない苦しみに
「祈りの時だから」という理由だけで安易にその人のために祈らされるのはいかがなものか。
このような事を言うと非難される方がおられるが、
私もどちらかというと共感はできても支持できないことは支持しない派だ。
雰囲気に呑まれてやることのほとんどは薬であっても害であることが多いと思う。
支持しないことを支持するかのように振る舞うのは、後々祈ってあげた相手との関係にも
自分の心の中にも矛盾が出てきて苦しくなるのは明白だ。
苦しみを自ら背負ったところで、周囲は一時的に称賛するかもしれないが、
その苦しみに最後まで寄り添ってくれるような人は教会に通う信仰者であっても滅多にいない。
特に日本では。
(2)自分の心を見張る習慣をつける
「自分の心を見張れ」との聖書の言葉通り、
自分の心の健康を害するような事が何かを日々、瞑想でも日記で方法は何でもよいから
振り返り見張る習慣をつけたい。
聖書を研究し尽くしたユダヤのラビ達のタルムードには、家庭の教育方針として
「自分がしてもらった良いことを人にしないさい」という教えがある。
※参考文献:絵本「母鳥と三羽のヒナ」
ユダヤ人はお金持ちが多いと言わているが、その根底にある聖書の教え、特に聖書の隣人愛は、
このような「まず自分がしてもらった良いこと」から始まっている。
自分がしてもらったことの良い事を次の世代に引き継ぐ。
それがユダヤ人コミュニティーの民族教育としての強さだ。
家庭において最初に「自分がしてもらった良い事」をしてもらうのは子どもだが
子どもが親にしてもらった良い事が、親の愛情の気まぐれや押し売りではなく、
タルムード、すなわち聖書から出ていることが大事である。
時には親もやりたくなかったかもしれないが、
「タルムードに(すなわち聖書に)そう書いてあるから」を動機としてそれを敬い
感情を殺して聖書の教えを実践する。
大人の感情をしのぐ「(神様の)変わらない真理」をお父さん(またはお母さん)が
自分の感情より聖なるものとして大事にしている。
その聖なるものが、親の実践を通じてお父さん(またはお母さん)の子どもである自分に良くしてくれた。
そのような周り人の気持ちに左右されない小さい、でも確かな自分幸せが
親から子へと時代を経てもなお、良きものとしてユダヤ人コミュニティー全体として家庭を最小単位として今もなお保存、継承され続けている。
彼らはそのようにしてずっと、もちろん今日も自分の心を聖なるものから逸脱していないか見張り続けている。
方法は聖書通読でもシナゴーグでの集会でも、もちろん仏教のような瞑想でもかまわない。
「自分の心を見張る」。これが出来れば。
信仰とはこのような自分の心に見張りと守るべき指針を持つことだと思う。
そしてこれが信仰の本当の素晴らしさではないかとも。
(3)「自分の心を傷つけるもの」から遠ざかる
後に、他の教会でさりげなくこの事、つまり「他の人の不幸のことを自分は祈りたくない」と聞いた事
また、「その人の不幸はその人がそれよりも悪い状況にならないためのブレーキとして神様は備えている」
という考えをシェアしたとき、
一つは「状況は不幸だがそれが御心のブレーキならば、感謝の祈りをすればいい。」
もう一つは「その人は面倒くさいからやりたくないだけ」
この二通りの答えが返ってきた。
私はこのどちらにも共感できるが、支持はしない。
(a)最初の「不幸がその人のブレーキ」論だが、それは神様がブレーキをかけてるだけで、
本人はそれを感謝できる状況ではないはずだ。
不本意な感謝はしなくてもよい。
たとえそれが牧師先生に諭された感謝であっても、それに乗っかることは
その牧師先生の価値観を生きるということだ。
自分の思いより聖書の教えを大切にしなさいと「強要」するのであれば、それは神の御心ではなく牧師先生の聖書研究「に基づく考え」だろう。
聖書の教えは「恵み」を受けた人がそれを良きものだと認識し、この先もずっと残したい、伝えたいと思って書き残し、受け継がれてきたはずだ。そうでなければ「働き方改革」などのように、人は自分に利益が無いと判断したら止めてしまったり、書き換えてしまうから。
感謝も同様に、人から言われてするのはおかしくて、自分の人生を生きる上で感謝したいならすればいいが、そうでないならしなくてもよい。まさに聞く耳があれば(それが良いと思ったなら)、聞くがよい。(従いなさい。)である。
元々、その人の身に降りかかった不幸はその人のものだし、本人が嫌でもそれはあえてこちらがどうこうする必要があるものではない。むしろ、知った事ではないだろう。神様だってそうされる。
祈り会でも何でも、それに出たからといって他人の不幸の片棒を担がされるくらいなら
嫌味を言われながら退場した方が良かろう。それが「自分の心(人生そのもの)を見張る」ということだと私は思う。
鳩のように賢く、それが自分の関わることであるかどうか見張り、無用であれば手を引くことだ。
むしろそのために罵倒や嫌味に耐えなければならないならば、耐えて忍んで、自分の不幸を人に追わせようとする悪しきプレッシャーに勝利しに行こうぞ。
そして(自分が仕組んだのではない)その経験から自分が得た「良きもの」を自分の子(後に同じ経験をする大切な人)に引き継ごうではないか!
(B)については、もはや論外というべきか。
面倒くさがるのがなぜ悪いのか。その人の幸不幸が自分にとって大切でないのに。
教会のイベントがお互いに大事だというのなら関わってもいいだろうが、その人個人の不幸のどうのこうのというのは、その人が自分にとって大切な人でないならば面倒事として避けるのが正しい判断だ。
教会の問題と個人の問題を同じにしないで欲しい。それは協調性とは言わない。教会に協力するかどうかですら、一信徒であっても個人の判断の範疇のはずだ。
もっと言えば、教会を人助けビジネスかサービスと勘違いしないで欲しい。神様の仕事だって「人助け」ではない。
「やりたくないのは皆同じだから」というのなら、やりたくないのに従わなければ自身の人生を維持していけない状況を作ってきた、その人自身の責任だろう。聖書もます神は、「(最初は「私について来なさい」、あるいは「私と共に」と言って)個人を訓練し、整えてから世に派遣される。この流れからしても、「祈りたくない人」はまず自分の問題が優先されるべき人であって、そのような人にも「人のため」を強要してくるような人たちからは、明らかに他人に自分の不幸を担がせようという悪しき集団心理が見てとれる。
(5)執着を離れ、心と行いを清らかに整えていくために「法」に身を委ねる生き方を
他人のために祈る、祈らないの判断は、仏教でいう「自灯明」の考え方と同じだと思う。
自灯明の裏には「私の気持ち」よりもっと聖な、「法(仏教)」による「法灯明」がある。
キリスト教では聖書(タルムード等)が「法」であり、それに従って自分の道を自分で選択して歩んでよい「自由」は「自灯明」である。
どちらも「私」を人生の土台には据えていない。
私より聖なるものが、より良き生き方、より多き幸せには必要なのではないかと思う。
仏教では瞑想、キリスト教では祈りを通じて、
おのおのその「私」より聖なるものに自分の心を委ね、静寂もしくは平安にして
「自分」の心と行いを整えていくところに真の幸福を見い出す営みである。きっとそうだと思う。
自分ではこう思う。
でも人からはこう言われる。
これらを気にしてその場から動けなくなること。これが「執着」だ。
そのいずれからも静寂と平安によって自分を切り離し、まず「自分」に良き気づきを与え、
それを自分の大切な人に「私にもそういう時があったから、そういう時にはこうしたらいいよ」と
伝えてあげられるように人々がなっていける「聖なる、清き力」
それが「法」の恵みなのだ。
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