2024年04月05日
【ワークライフバランス】無私の奉仕。素晴らしい、けど正直辛い。そんな時に思い出しててほしい8つの事・・・
(1)キリストの生き方
キリストに従う生き方は聖書における神の愛の実践。
だが、現実社会でこの生き方をするのはとても難しい。
私自身、かつて自分として仏教で説かれるような自分に厳しく他人に感謝する生き方で疲労困憊し、
その時に聞いた神の愛の説法を聞いて、枯渇していた自己愛が少し取り戻せたような気がした。
だが現実では神の教えを実践しようしても、相変わらず利他の実践でエネルギーを出し、
たまに聖書の御言葉、すなわち神の愛、主なるキリスの愛で
自分のしていることは正しいんだと行いの報酬として元気を頂き感謝を増し加え
利他の生き方の中にあって、
今日も(なんとか)心のバランスを(仏と神に)整えて頂きながら日々を送っている。
だが40歳を過ぎてから、利他も相手がこちらの在り方に関心がなければただ「いい人」として
利用されてしまうだけの現実にどうにも目が背けられなくなりつつある自分を無視しずらくなってきた。
そして、これまでの、そしてこれから(ものはず)の利他の実践にだんだんと疲れを感じてきたのが
正直なところだ。
仕事はなくならない。
利他を優先すれば結局は鬱等心が病んで、頼りなる先輩のように力尽きるまで消耗してしまうだけだろう。
増え続ける仕事に潰されて。
(2)ワークライフバランス
ワークライフバランス。
これは個人の自由の保障せよという社会の要求するワークに敵対する言葉だ。
この言葉の起源は確か、女性が社会の煩わしさから自分を守ろうとする願いから生まれたものだ。
だが思うに、これを社会通念にするには準備が足りな過ぎたと思う。
「今だけ、金だけ、自分だけ」。
意識はしてなくともこの3つが現代の正義にとても近い存在ではないだろうか。
社会の要求するワーク、つまり仕事は、個人の思い描くワークの対価とは必ずしも一致しない。
社会の要求するワーク、すなわち仕事とは、人の嫌がること・やりたくない事をお金をもらう代わりに
請け負うことだ。
自分の嫌がることを無償でやってくれるなら感謝もするだろうが、お金を渡すのであれば対価より
要求が上回るのは当然のことだ。
できるだけコストは安く、たくさん自分の願いを叶えたい。
ワークライフバランスの真の狙いは、人々のこのような願いにあるのかもしれない。
自分が不当な扱いを受けているかどうかはおまけの理由で。
(3)自分の善意との闘い
ワークライフバランスが始まっても、働かされ方に変化はほとんどなかった。
そんな中で最近思うようになったことがある。
ただの利他優先では生き残れない。
女性社員が残業もせず、夜勤もせず、やった事のない仕事も覚えず、もちろん無償奉仕など絶対にない。
自分のワークライフバランスを守ろうとする姿には羨ましさを感じる。
毎日女性、みんなが帰った後も会社に残って、「みんながやり残した仕事」を片付ける日々。
そこで小さな闘いが始まった。
それは自分の善意との闘い。
利他の精神で勝手出た小さな善意はいつしか職場では当たり前の空気のようになり、
いつしか今度はその当たり前の中で、始めの小さな善意が宿しだしたアイデンティティーの力、すなわち「自分との約束」とで戦わなくてはならなくなった。
自分の心に描いた善意と、現実の社会の善意の闘い。
社会が自分の心を裏切ったのか、自分の心が社会を裏切ろうとしているのか。
小さな善意をめぐり、それを撤回しようとする自分自身の正義とその撤回を許さない社会的正義の闘い。
一人対多。たとえ霊的に心は負けてなくとも肉体は確実に消耗するため、
心身一体の人間のこの体に、このての戦いは不利だ。
(4)十字架という「無償の自己犠牲」に対して父なる神が与えたもの
十字架に象徴される自己犠牲の生き方。
イエス・キリストは本当にすごいと思う。
無償の愛の象徴とされる十字架だが、これは
イエスの十字架は、父なる神がイエス復活とイエス権威を保証してなければ無駄死にに終わると、
聖書にも、もちろん牧師の説教にもしっかり出てくる。
またイエス自身も十字架の死は、ユダに裏切られ捕らわれの身になった日の夜よりはるか以前から、
すなわち「この神の怒りの盃をできることなら取り除けてください」祈る前ずっと前から知っていて、
それが無駄死にではないことも当然理解していた。
この夜イエスが恐怖だったのは、神から見放されることでこれから起こる現実的な出来事であり、
イエスがこの夜祈っていたのはその恐怖に対して自身の腹をくくるため、
すなわち
「この胚をできることなら取り除けてください(でも真実であるあなた(=父なる神)は、
そののちの私に知らせたご計画とその約束のためにそうはなさらないでしょう。だからせめて、これから訪れる苦難を耐えきれるよう、私を励まし、勇気づけてください)。」
と祈ったのである。
私自身も体験的に、今もこうして無償の愛の与える側にあっては大きな苦労がある。しかし、
報われるのが今か、3年後5年後、10年後20年後、あるいは死後かはわからない、けれども、
そこには必ず神の約束と、愛の慰めや報いがあるから耐えれられた。
そう、けして、報いなしにイエスが無駄死にする話を聖書は言いたかった訳ではない。
十字架は目的を持ったイエスの生き様のワンシーンに過ぎなかった。
そのことを新約聖書は示している。
私たち人間の感覚からすると、イエスの十字架は行いから報酬を受け取るまでのスパンがとてつもなく長かったというだけだ。つまり、実はイエスでさえも報酬なしでは働かなかったことを聖書は言っているのだ。
一方、我々も、目的があってイエスを介して神から買い戻された者たちだ。
神の目から見たら、人間の目からは到底測り得ない使い道(つまり価値)が人間にはある。
それは(人間にはその意図が到底計り知れないが)、父なる神を永遠に賛美するためと聖書にも書いてある。
ある教会は言う。十字架をイエスの無償の愛だと言い、我々にもそれを模範にせよと。
だがそれは教会が自分たちの権威を誤解しているだけではないか。
聖書が言う十字架の愛の無償である理由、それは単純に、
イエスの十字架の対価の支払い能力が私たちにはないからだ。
聖書はけして、この教会の言うように無償の愛を強要していない。よくよく読めばわかる。
聖書が語る十字架にまつわるイエスの愛の行動は、報酬を支払うのが人間ではなく神様であるだけで、
それはれっきとしたと有償の愛なのだ。
そしてそこに支払われる報酬は、支払う神自身が「はなはだ良い」と誇るほど高価で素晴らしかった。
さてそこで、
キリストの無償の愛を改めて解釈するとこうなるかもしれない。
人が人に対して自己犠牲的な愛に基づく働きを行うときには、まずそこに
どんな報酬が伴うのかよく考え吟味せよ。安易に無償で自分の資源を切り売りしてはならない。
人間は対して支払い能力がない。にもかかわらず、彼らは自分の支払い能力以上の報酬を
さも当然のように欲しがり、要求してくるから。
自分の命、自分の誇りを大切にせよ。
神が約束したのでなければ、私(イエス)の十字架に復活とすべての権威と自由が約束されていたのと
同じような対価が、彼らに支払われることはけしてないと知りなさい。
私は先日のイースターから聖書でイエスが十字架にかかり死んで復活するまでの物語をこのようにも
読めるような気がしている。
いや、むしろ経験的にはこの読み方が聖書の真理に近いんじゃないかとさえ思う。
(5)自身の「はじまり」に自分の尺度で決めた報酬が、報酬の奴隷としての未来を自分に約束させてしまう真実
現在、多くの洗礼は、洗礼を受けと神の寵愛によりすべての望みが叶うと誤解されていると思う。
特に女性は神の愛を誤解している。祈ってさえいれば、教会に真面目に通ってさえいれば
自分は神の寵愛を無償で受けられ、以降のすべての苦難から守られ自分の自由が保障されると思っている
ように思える。
彼女たちは新しい主にある兄弟姉妹の洗礼に「おめでとう」と祝福の言葉をかける。
だが、本当に洗礼はおめでたいのだろうか?
例えば港を想像するとき、港を船が出航するときに多くの人は祝福の言葉を述べ、
逆に船が港に入港するときは物事が終わったかのように平然としている。
この4月も、入学式、入社式に皆がその新しい門出をおめでとうと祝福する。
赤ちゃんが生まれたら「おめでとう」と新しい誕生を祝う。
結婚すれば「おめでとう」と祝福をする。
だがこれは逆だと思う。
本来は、船が港に入港した時こそ、「おめでとう」と祝福されるべきである。
なぜなら、入港は船が無事に航海を終えて帰ってきたからだ。
学業困難や、いじめ、受験の失敗、就職難は入学してから卒業するまでの間、学生には必ず課せられる課題だ。
荷重労働、低賃金、長時間拘束、うつ病などは、社会人なら入社してから大抵ぶちあたる壁だろう。
これらに対して「おめでとう」と言えるだろうか。
否、そうではない。
「おめでとう」の祝福は、実は始まりではなく終わりにこそ存在する。
無事に卒業できておめでとう。
たくさんの苦労もあっただろうが、無事に定年まで勤めあげることができておめでとう。
小さい頃は大変だったけど、ここまで立派な大人に育ってくれてありがとう。
色々衝突もあったけど、最後まで僕の妻でいてくれてありがとう。
今、さまざまな結婚が離婚に終わり、さまざまな職場で人不足や仕事上で問題を抱えている。
そう、報酬や祝福は最後に支払われるまでわからない。
だから、特に最初に変に祝福されるべきではない。
人の歩む未来にはたいてい困難が待ち受けている。にもかかわらず、「云々〜これさえすれば」と
多くの人が「新しい始まり」に異常な情熱を燃やしている。
はじまりこそ祝福。これこそサタンの嘘だ。
冒頭の教会でのお互いの「はじまり」を祝福し合う女性たちも同様で
彼女たちは自分の尺度で考え、しかも自分で勝手に決めた報酬に酔いしれ
単に「はじまりの理想郷」に浮かれてているに過ぎない。
しかし、同じく冒頭で述べた通り、
人には対して報酬の支払い能力はないし、報酬を決めるのは神であって、
その支払いは、彼女たちの浮かれている「はじまり」から「終わりの日」まで
どう歩んだがで決まるものだといういうことを忘れてはならない。
もちろん、人の歩みには困難は付き物だ。
大切な事は、そこで勝手に報酬を自分のでっち上げた理想にすり替えて
自分の貴重な命の営みを歪めないことだ。
人はあの木の実だけは食べるなという(神にとっては)小さな約束ですら守れずに
父なる神の愛と期待に反してエデンの園を追放されてしまった存在で、
キリストの十字架で神との和解はできたものの、以降もずっと罪の性質を負いながら生きている。
神ははじめ人を自分と同じ清い聖なるものとして創造されたから、人の命の営みも自然であれば清くなる。
それはイエスがしたように、貧しい人を見たらちょっと何かをしてあげたくなったり、
ラザロのような親しい友達が死んでしまったら悲しくて、マリアと一緒に泣いたりしたような
人として当たり前のような共感力だったり、自分には力がなくても神に祈ったりして何とかして
この辛い状況を良きものにしようかという発想だったり、行動だったりで表現されるものだ。
けれど、ここに「自分の理想」とか「自分の利益」といった報酬追求の理想が加わると、その営みは
途端に継続不可能な状態になって、人は心や体を病んでしまう。
アダムもエバも、はじまりに「自分の理想」は必要がなかった。
なぜなら、神が彼らの「はじまり」を作りったから。
また神は彼らに「神の人以外の被造物を管理せよ」とこれから先どう生きるべきかを教え、
それが実行できるだけの糧と報酬をも与えてくれていたからだ。
だが、ある日サタンの化けた蛇に女性であるエバが出会ってしまい、
心の清いエバは蛇に誘惑されてしまう。
そのとき蛇はエバにこう言ったんだ。
「神はキミたちの味方ではないよ。あの木の実を食べたら君たちは神のようになれるのに
神はそれを恐れてキミたちにそれを禁じているんだ。どうだい?キミたちだって神様のように
何でも自分で自由に決められて、何でも欲しいものは自由に手に入れてみたいだろう?」
と。
ところが実際、神が決めたのはこの世界が清い聖なるものであるための「秩序」に過ぎないんだ。
そしてこれは神のご性質である「真実の愛」から出たもので、神でさえ、自分の性質から逸脱した
自由を行使したりはできなかったんだ。
僕たちも、当然神から作られて、「こうありなさい」という性質を与えられているんだけれども、
僕たちはエバがそうであったように「我」と「慢」が刺激されると「こうありなさい」という性質
つまり「はじまり」の「我」を忘れてしまうんだ。
「はじまり」の「我」とはもちろん、神の似姿としての性質である「真実の愛」なんだけれども、
イエスが地上に降りたときに、彼は僕たちがなんでこんなに自分の理想ばっかりに生きて、
はじめの、本来の生を忘れてしまったのか、と愕然として嘆かれた。
そしてこれこそがイエスの公生涯のトリガーになっていくんだけれども、
この時のイエスの起業理念が、今の僕らが抱くものとは性質が全く違うもの、すなわち
「@神を一番に愛しなさい。作り手を愛することは自分を愛することに等しいことだから」
「A自分を愛するように隣人も愛しなさい。隣人になる人はあなたとどうように神が作られた者だから」
であって、
イエスの公生涯の理想、目的は、自分で作ったものではなく父なる神が作ったそれそのものだったんだ。
そしてそういった「神の創造理念を起点とした」公生涯の出発が、途中十字架を通ったけれども、
最終的には彼(イエス)自身の復活と、彼のすべての権威と栄光につながっていって、
それを僕らはアーメンと言って賛美、祝福をしている訳だ。
(6)神が創造した「はじまり」の想いに従って、終わりまで命の営みを貫く生き方を
話は長くなったが、ではどのようにして物事の「はじまり」を乗り越えていくべきか。
未知、あるいは既知の苦難に対しどう対処していくべきか。
人の命の営みにおける「はじまり」の鍵は、
創造時に神が抱いた希望にある。
たとえば聖書で言えば、神への信仰。だが希望も持ち方を間違えてはいけない。
誤った希望の持ち方は、望み過ぎる報酬と同じで、願った者の将来を未来の奴隷にし生き甲斐を奪い去る。
間違った神への希望。
それには例えば次のようなものがある。
ノーと言わずに自己犠牲的に神の愛を貫け。そうすれば与えた愛が何倍にもなって戻ってくるから。
これは非常にうまくできた嘘、サタンの誘惑だ。
はじまりを自分の理想の希望で満たしてはならない。
だが、多くの人が物事のはじまりを自分の理想で満たし、それを実現するために行動を開始する。
そこで彼らに必要なのは、彼らの理想に共感してくれる言葉、理想の実現を後押ししてくれる仲間、
そしてそれらを約束してくれる神、すなわち地上の権威者だ。聖書的にはそれを「サタン」と呼ぶ。
今、この地上の権威者によって多くの離職が、離婚が、自分勝手な自立が肯定される社会が誕生している。
だが、もちろんサタンは神ではない。いずれ滅びる存在だ。
しかしそれを知りつつも、サタンは希望を失わない。
たとえサタンの肉体は滅びても、サタンの思考を支持する人間がいる限り、
サタンは彼らの中で生き続けられるからだ。
そしてサタンは決して愛が無償だとは語らない。
サタンのつく嘘にも必ず報酬が伴う。
例えばそれが私たちには経済的自由であったり、
サタンにとっては神の民になるはずの人類の死、神の国の不成就だったりする。
いずれにせよ、サタンですら無報酬では働かない。
与えられるのが裁きによる死だとしても、神に対する罪を重ねなくて良くなるという点では、
サタンですら神による報酬を得ているとも言えよう。
(7)神が創造時に想像した自分の貸借対照表、損益計算書を想像してみる
ただノーと言わない、または言えない側でひたすら忍耐する生き方というのは
辛くなって当たり前だ。
無報酬の愛。そんなものは存在しない。
神の愛なる人間の人生設計。それはけして自分自身の無償の切り売りではない。
自分とは愛の製造業みたいなもので、その適切な運営方法は、
わかりやすく言えばそれは簿記のように、自分といいう資本を用いて隣人に尽くす商いをし、
神の目線で損益を適切にやりくりすることによって、自分という命の営みを賜物という資本を用いて
堅牢に維持管理していくものだと言えよう。もちろんそれは自分以外に対して有償だ。
父なる神ですら、私たち一人ひとりに対してそれを買い戻すのに御子の十字架の対価を支払ったほど
私たち人ひとりの命というのは高価で、尊いものだったのだから、
それほどの命の価値が神の民にはあるんだということをを前提として、自分というものの命の運営を
考えていかなければならない。
まずは自分がプラスになるように自分を愛すること。自分の必要をよく知っておくこと。
次は他の人もプラスになるように、他人の必要にも意識を向け、その人の幸せのためにも上手く
自分の資本を使えるようになること。
与える方が、ただ与えられるだけより何倍も幸福度が高いから。
(8)買い戻された清い聖なる人生を、周りに譲らず最後の一押しで勝ち取る
現代は人に与えられる恵みと祝福が、人によって再定義され、神の創造した時よりはるかに劣ったものとして
人間の考える理想の尺度でしか味わえない、すぐ飽きの来る永遠の価値とは程遠いものに変えられてしまっている。
人は自分が再定義した幸せに何度も飽き、何度も壊しては作り直すをただ繰り返して人生を終えるような、
永遠を見据えて設計された神の創造したものに比べてはるかに量でも質でも劣った人生を、
皮肉にも、それをつくった人間によって歩まされているように思えはしないか。
SNSが発達し、誰もが人と比べて少しでもマシな生き方をしていることに安心を見い出そうとする傾向が
近年はとても強いと思う。
だが忘れないでほしい。
人間の書く脚本は全て、現実にはあり得ないから作品になり、人の興味をそそるのだ。
例えば経済的安定を考えるとき、会社員として会社に勤め、それなりに昇進すれば、それなりの安定した
生活を維持できる確率は上がるだろう。会社員であれば「ほぼ」毎月の生活費は100パーセントに近い確率で
調達することができるだろう。
だが、その延長線上に自分の生き方を自分で100パーセントアレンジできると思いあがってはいけない。
自分の一生を自分で決めることなどできない。
もとより、あなたの人生の完璧なアレンジは、神によって清く聖なるものに整っている。
後は、その清く聖なるものをこの薄汚れた地上世界でどう本来の味わいを失わずに終わりの日まで生きられるかどうかだと思う。
福音、それは神が私たちの人生をどうアレンジしたかを知ることのできる天国からのはしごだ。
聖書は読もうと思えば誰でも読むことはできる。はしごは誰にでも見えるところに降ろされている。
しかし、手が届くかどうかは、その人と神の御心の距離によると思う。
自分の時間と自由を捧げて神を知っていくと、ある日ふと天からはしごが降りていることに気づく。
なんだろうと思って利き手をはしごにかける。
ふと気が付くと、利き手じゃない方には聖書を持っていて、周りにはたくさんの人が前を向いて座っていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、大勢の人と一緒になって、利き手を上げて讃美歌を歌っていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、足はたたまれ自分は床にひざまずいて、頭を垂れてアーメンと小さく呟いて祈っていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、はしごに手をかけたはずの利き手にはクイックルワイパーが握られていて、
しばらくしていなかった部屋の掃除をしていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気か付くと、はしごに手をかけたはずの利き手には菜箸が握られていて、
しばらく食べていなかった野菜を自分で調理して食べようとしていた。
このように、本来の清い聖なる人生のはしごに手をかけると、
人生の舵は清く聖なる方向へと修正されていく。
教会の規律は嫌いだし、人間関係も奉仕も面倒だ。だが、天からのはしごに利き手をかけるとき、
足は自然と教会へ向き、体は教会の奉仕活動に身を投じられ、心は聖書の御言葉を詠唱していることに気づく。
そうやって、確かに清く生きるのは辛いし逃げたくもなるのだけど、神が僕たちを創造されたときの
想いに触れて、折しも本来の命の使い方に目を留めるとき、
そこにはこの現実をなんとかしたい、けど自分ではどうにもならないんだよ〜という祈りがあり、
予想通りの苦痛があるんだけれど心には賛美があり、
この現実から逃げずに立ち向かった誇りが大切に守られていて、
なによりそれは、蓄積されると地上の理屈よりもはるかに信頼度の高い人格が自分にも備わっているじゃないかということに気づかされる。
人生は勝ち取るもの。
神が御子を犠牲にしてでも味わって欲しかった清い聖なる命の営みを。
買い戻され祝福に値する、神の手によって差し出されるところまで来ている人生を。
あなたは掴み取り、受け取ることができるだろうか。
キリストに従う生き方は聖書における神の愛の実践。
だが、現実社会でこの生き方をするのはとても難しい。
私自身、かつて自分として仏教で説かれるような自分に厳しく他人に感謝する生き方で疲労困憊し、
その時に聞いた神の愛の説法を聞いて、枯渇していた自己愛が少し取り戻せたような気がした。
だが現実では神の教えを実践しようしても、相変わらず利他の実践でエネルギーを出し、
たまに聖書の御言葉、すなわち神の愛、主なるキリスの愛で
自分のしていることは正しいんだと行いの報酬として元気を頂き感謝を増し加え
利他の生き方の中にあって、
今日も(なんとか)心のバランスを(仏と神に)整えて頂きながら日々を送っている。
だが40歳を過ぎてから、利他も相手がこちらの在り方に関心がなければただ「いい人」として
利用されてしまうだけの現実にどうにも目が背けられなくなりつつある自分を無視しずらくなってきた。
そして、これまでの、そしてこれから(ものはず)の利他の実践にだんだんと疲れを感じてきたのが
正直なところだ。
仕事はなくならない。
利他を優先すれば結局は鬱等心が病んで、頼りなる先輩のように力尽きるまで消耗してしまうだけだろう。
増え続ける仕事に潰されて。
(2)ワークライフバランス
ワークライフバランス。
これは個人の自由の保障せよという社会の要求するワークに敵対する言葉だ。
この言葉の起源は確か、女性が社会の煩わしさから自分を守ろうとする願いから生まれたものだ。
だが思うに、これを社会通念にするには準備が足りな過ぎたと思う。
「今だけ、金だけ、自分だけ」。
意識はしてなくともこの3つが現代の正義にとても近い存在ではないだろうか。
社会の要求するワーク、つまり仕事は、個人の思い描くワークの対価とは必ずしも一致しない。
社会の要求するワーク、すなわち仕事とは、人の嫌がること・やりたくない事をお金をもらう代わりに
請け負うことだ。
自分の嫌がることを無償でやってくれるなら感謝もするだろうが、お金を渡すのであれば対価より
要求が上回るのは当然のことだ。
できるだけコストは安く、たくさん自分の願いを叶えたい。
ワークライフバランスの真の狙いは、人々のこのような願いにあるのかもしれない。
自分が不当な扱いを受けているかどうかはおまけの理由で。
(3)自分の善意との闘い
ワークライフバランスが始まっても、働かされ方に変化はほとんどなかった。
そんな中で最近思うようになったことがある。
ただの利他優先では生き残れない。
女性社員が残業もせず、夜勤もせず、やった事のない仕事も覚えず、もちろん無償奉仕など絶対にない。
自分のワークライフバランスを守ろうとする姿には羨ましさを感じる。
毎日女性、みんなが帰った後も会社に残って、「みんながやり残した仕事」を片付ける日々。
そこで小さな闘いが始まった。
それは自分の善意との闘い。
利他の精神で勝手出た小さな善意はいつしか職場では当たり前の空気のようになり、
いつしか今度はその当たり前の中で、始めの小さな善意が宿しだしたアイデンティティーの力、すなわち「自分との約束」とで戦わなくてはならなくなった。
自分の心に描いた善意と、現実の社会の善意の闘い。
社会が自分の心を裏切ったのか、自分の心が社会を裏切ろうとしているのか。
小さな善意をめぐり、それを撤回しようとする自分自身の正義とその撤回を許さない社会的正義の闘い。
一人対多。たとえ霊的に心は負けてなくとも肉体は確実に消耗するため、
心身一体の人間のこの体に、このての戦いは不利だ。
(4)十字架という「無償の自己犠牲」に対して父なる神が与えたもの
十字架に象徴される自己犠牲の生き方。
イエス・キリストは本当にすごいと思う。
無償の愛の象徴とされる十字架だが、これは
イエスの十字架は、父なる神がイエス復活とイエス権威を保証してなければ無駄死にに終わると、
聖書にも、もちろん牧師の説教にもしっかり出てくる。
またイエス自身も十字架の死は、ユダに裏切られ捕らわれの身になった日の夜よりはるか以前から、
すなわち「この神の怒りの盃をできることなら取り除けてください」祈る前ずっと前から知っていて、
それが無駄死にではないことも当然理解していた。
この夜イエスが恐怖だったのは、神から見放されることでこれから起こる現実的な出来事であり、
イエスがこの夜祈っていたのはその恐怖に対して自身の腹をくくるため、
すなわち
「この胚をできることなら取り除けてください(でも真実であるあなた(=父なる神)は、
そののちの私に知らせたご計画とその約束のためにそうはなさらないでしょう。だからせめて、これから訪れる苦難を耐えきれるよう、私を励まし、勇気づけてください)。」
と祈ったのである。
私自身も体験的に、今もこうして無償の愛の与える側にあっては大きな苦労がある。しかし、
報われるのが今か、3年後5年後、10年後20年後、あるいは死後かはわからない、けれども、
そこには必ず神の約束と、愛の慰めや報いがあるから耐えれられた。
そう、けして、報いなしにイエスが無駄死にする話を聖書は言いたかった訳ではない。
十字架は目的を持ったイエスの生き様のワンシーンに過ぎなかった。
そのことを新約聖書は示している。
私たち人間の感覚からすると、イエスの十字架は行いから報酬を受け取るまでのスパンがとてつもなく長かったというだけだ。つまり、実はイエスでさえも報酬なしでは働かなかったことを聖書は言っているのだ。
一方、我々も、目的があってイエスを介して神から買い戻された者たちだ。
神の目から見たら、人間の目からは到底測り得ない使い道(つまり価値)が人間にはある。
それは(人間にはその意図が到底計り知れないが)、父なる神を永遠に賛美するためと聖書にも書いてある。
ある教会は言う。十字架をイエスの無償の愛だと言い、我々にもそれを模範にせよと。
だがそれは教会が自分たちの権威を誤解しているだけではないか。
聖書が言う十字架の愛の無償である理由、それは単純に、
イエスの十字架の対価の支払い能力が私たちにはないからだ。
聖書はけして、この教会の言うように無償の愛を強要していない。よくよく読めばわかる。
聖書が語る十字架にまつわるイエスの愛の行動は、報酬を支払うのが人間ではなく神様であるだけで、
それはれっきとしたと有償の愛なのだ。
そしてそこに支払われる報酬は、支払う神自身が「はなはだ良い」と誇るほど高価で素晴らしかった。
さてそこで、
キリストの無償の愛を改めて解釈するとこうなるかもしれない。
人が人に対して自己犠牲的な愛に基づく働きを行うときには、まずそこに
どんな報酬が伴うのかよく考え吟味せよ。安易に無償で自分の資源を切り売りしてはならない。
人間は対して支払い能力がない。にもかかわらず、彼らは自分の支払い能力以上の報酬を
さも当然のように欲しがり、要求してくるから。
自分の命、自分の誇りを大切にせよ。
神が約束したのでなければ、私(イエス)の十字架に復活とすべての権威と自由が約束されていたのと
同じような対価が、彼らに支払われることはけしてないと知りなさい。
私は先日のイースターから聖書でイエスが十字架にかかり死んで復活するまでの物語をこのようにも
読めるような気がしている。
いや、むしろ経験的にはこの読み方が聖書の真理に近いんじゃないかとさえ思う。
(5)自身の「はじまり」に自分の尺度で決めた報酬が、報酬の奴隷としての未来を自分に約束させてしまう真実
現在、多くの洗礼は、洗礼を受けと神の寵愛によりすべての望みが叶うと誤解されていると思う。
特に女性は神の愛を誤解している。祈ってさえいれば、教会に真面目に通ってさえいれば
自分は神の寵愛を無償で受けられ、以降のすべての苦難から守られ自分の自由が保障されると思っている
ように思える。
彼女たちは新しい主にある兄弟姉妹の洗礼に「おめでとう」と祝福の言葉をかける。
だが、本当に洗礼はおめでたいのだろうか?
例えば港を想像するとき、港を船が出航するときに多くの人は祝福の言葉を述べ、
逆に船が港に入港するときは物事が終わったかのように平然としている。
この4月も、入学式、入社式に皆がその新しい門出をおめでとうと祝福する。
赤ちゃんが生まれたら「おめでとう」と新しい誕生を祝う。
結婚すれば「おめでとう」と祝福をする。
だがこれは逆だと思う。
本来は、船が港に入港した時こそ、「おめでとう」と祝福されるべきである。
なぜなら、入港は船が無事に航海を終えて帰ってきたからだ。
学業困難や、いじめ、受験の失敗、就職難は入学してから卒業するまでの間、学生には必ず課せられる課題だ。
荷重労働、低賃金、長時間拘束、うつ病などは、社会人なら入社してから大抵ぶちあたる壁だろう。
これらに対して「おめでとう」と言えるだろうか。
否、そうではない。
「おめでとう」の祝福は、実は始まりではなく終わりにこそ存在する。
無事に卒業できておめでとう。
たくさんの苦労もあっただろうが、無事に定年まで勤めあげることができておめでとう。
小さい頃は大変だったけど、ここまで立派な大人に育ってくれてありがとう。
色々衝突もあったけど、最後まで僕の妻でいてくれてありがとう。
今、さまざまな結婚が離婚に終わり、さまざまな職場で人不足や仕事上で問題を抱えている。
そう、報酬や祝福は最後に支払われるまでわからない。
だから、特に最初に変に祝福されるべきではない。
人の歩む未来にはたいてい困難が待ち受けている。にもかかわらず、「云々〜これさえすれば」と
多くの人が「新しい始まり」に異常な情熱を燃やしている。
はじまりこそ祝福。これこそサタンの嘘だ。
冒頭の教会でのお互いの「はじまり」を祝福し合う女性たちも同様で
彼女たちは自分の尺度で考え、しかも自分で勝手に決めた報酬に酔いしれ
単に「はじまりの理想郷」に浮かれてているに過ぎない。
しかし、同じく冒頭で述べた通り、
人には対して報酬の支払い能力はないし、報酬を決めるのは神であって、
その支払いは、彼女たちの浮かれている「はじまり」から「終わりの日」まで
どう歩んだがで決まるものだといういうことを忘れてはならない。
もちろん、人の歩みには困難は付き物だ。
大切な事は、そこで勝手に報酬を自分のでっち上げた理想にすり替えて
自分の貴重な命の営みを歪めないことだ。
人はあの木の実だけは食べるなという(神にとっては)小さな約束ですら守れずに
父なる神の愛と期待に反してエデンの園を追放されてしまった存在で、
キリストの十字架で神との和解はできたものの、以降もずっと罪の性質を負いながら生きている。
神ははじめ人を自分と同じ清い聖なるものとして創造されたから、人の命の営みも自然であれば清くなる。
それはイエスがしたように、貧しい人を見たらちょっと何かをしてあげたくなったり、
ラザロのような親しい友達が死んでしまったら悲しくて、マリアと一緒に泣いたりしたような
人として当たり前のような共感力だったり、自分には力がなくても神に祈ったりして何とかして
この辛い状況を良きものにしようかという発想だったり、行動だったりで表現されるものだ。
けれど、ここに「自分の理想」とか「自分の利益」といった報酬追求の理想が加わると、その営みは
途端に継続不可能な状態になって、人は心や体を病んでしまう。
アダムもエバも、はじまりに「自分の理想」は必要がなかった。
なぜなら、神が彼らの「はじまり」を作りったから。
また神は彼らに「神の人以外の被造物を管理せよ」とこれから先どう生きるべきかを教え、
それが実行できるだけの糧と報酬をも与えてくれていたからだ。
だが、ある日サタンの化けた蛇に女性であるエバが出会ってしまい、
心の清いエバは蛇に誘惑されてしまう。
そのとき蛇はエバにこう言ったんだ。
「神はキミたちの味方ではないよ。あの木の実を食べたら君たちは神のようになれるのに
神はそれを恐れてキミたちにそれを禁じているんだ。どうだい?キミたちだって神様のように
何でも自分で自由に決められて、何でも欲しいものは自由に手に入れてみたいだろう?」
と。
ところが実際、神が決めたのはこの世界が清い聖なるものであるための「秩序」に過ぎないんだ。
そしてこれは神のご性質である「真実の愛」から出たもので、神でさえ、自分の性質から逸脱した
自由を行使したりはできなかったんだ。
僕たちも、当然神から作られて、「こうありなさい」という性質を与えられているんだけれども、
僕たちはエバがそうであったように「我」と「慢」が刺激されると「こうありなさい」という性質
つまり「はじまり」の「我」を忘れてしまうんだ。
「はじまり」の「我」とはもちろん、神の似姿としての性質である「真実の愛」なんだけれども、
イエスが地上に降りたときに、彼は僕たちがなんでこんなに自分の理想ばっかりに生きて、
はじめの、本来の生を忘れてしまったのか、と愕然として嘆かれた。
そしてこれこそがイエスの公生涯のトリガーになっていくんだけれども、
この時のイエスの起業理念が、今の僕らが抱くものとは性質が全く違うもの、すなわち
「@神を一番に愛しなさい。作り手を愛することは自分を愛することに等しいことだから」
「A自分を愛するように隣人も愛しなさい。隣人になる人はあなたとどうように神が作られた者だから」
であって、
イエスの公生涯の理想、目的は、自分で作ったものではなく父なる神が作ったそれそのものだったんだ。
そしてそういった「神の創造理念を起点とした」公生涯の出発が、途中十字架を通ったけれども、
最終的には彼(イエス)自身の復活と、彼のすべての権威と栄光につながっていって、
それを僕らはアーメンと言って賛美、祝福をしている訳だ。
(6)神が創造した「はじまり」の想いに従って、終わりまで命の営みを貫く生き方を
話は長くなったが、ではどのようにして物事の「はじまり」を乗り越えていくべきか。
未知、あるいは既知の苦難に対しどう対処していくべきか。
人の命の営みにおける「はじまり」の鍵は、
創造時に神が抱いた希望にある。
たとえば聖書で言えば、神への信仰。だが希望も持ち方を間違えてはいけない。
誤った希望の持ち方は、望み過ぎる報酬と同じで、願った者の将来を未来の奴隷にし生き甲斐を奪い去る。
間違った神への希望。
それには例えば次のようなものがある。
ノーと言わずに自己犠牲的に神の愛を貫け。そうすれば与えた愛が何倍にもなって戻ってくるから。
これは非常にうまくできた嘘、サタンの誘惑だ。
はじまりを自分の理想の希望で満たしてはならない。
だが、多くの人が物事のはじまりを自分の理想で満たし、それを実現するために行動を開始する。
そこで彼らに必要なのは、彼らの理想に共感してくれる言葉、理想の実現を後押ししてくれる仲間、
そしてそれらを約束してくれる神、すなわち地上の権威者だ。聖書的にはそれを「サタン」と呼ぶ。
今、この地上の権威者によって多くの離職が、離婚が、自分勝手な自立が肯定される社会が誕生している。
だが、もちろんサタンは神ではない。いずれ滅びる存在だ。
しかしそれを知りつつも、サタンは希望を失わない。
たとえサタンの肉体は滅びても、サタンの思考を支持する人間がいる限り、
サタンは彼らの中で生き続けられるからだ。
そしてサタンは決して愛が無償だとは語らない。
サタンのつく嘘にも必ず報酬が伴う。
例えばそれが私たちには経済的自由であったり、
サタンにとっては神の民になるはずの人類の死、神の国の不成就だったりする。
いずれにせよ、サタンですら無報酬では働かない。
与えられるのが裁きによる死だとしても、神に対する罪を重ねなくて良くなるという点では、
サタンですら神による報酬を得ているとも言えよう。
(7)神が創造時に想像した自分の貸借対照表、損益計算書を想像してみる
ただノーと言わない、または言えない側でひたすら忍耐する生き方というのは
辛くなって当たり前だ。
無報酬の愛。そんなものは存在しない。
神の愛なる人間の人生設計。それはけして自分自身の無償の切り売りではない。
自分とは愛の製造業みたいなもので、その適切な運営方法は、
わかりやすく言えばそれは簿記のように、自分といいう資本を用いて隣人に尽くす商いをし、
神の目線で損益を適切にやりくりすることによって、自分という命の営みを賜物という資本を用いて
堅牢に維持管理していくものだと言えよう。もちろんそれは自分以外に対して有償だ。
父なる神ですら、私たち一人ひとりに対してそれを買い戻すのに御子の十字架の対価を支払ったほど
私たち人ひとりの命というのは高価で、尊いものだったのだから、
それほどの命の価値が神の民にはあるんだということをを前提として、自分というものの命の運営を
考えていかなければならない。
まずは自分がプラスになるように自分を愛すること。自分の必要をよく知っておくこと。
次は他の人もプラスになるように、他人の必要にも意識を向け、その人の幸せのためにも上手く
自分の資本を使えるようになること。
与える方が、ただ与えられるだけより何倍も幸福度が高いから。
(8)買い戻された清い聖なる人生を、周りに譲らず最後の一押しで勝ち取る
現代は人に与えられる恵みと祝福が、人によって再定義され、神の創造した時よりはるかに劣ったものとして
人間の考える理想の尺度でしか味わえない、すぐ飽きの来る永遠の価値とは程遠いものに変えられてしまっている。
人は自分が再定義した幸せに何度も飽き、何度も壊しては作り直すをただ繰り返して人生を終えるような、
永遠を見据えて設計された神の創造したものに比べてはるかに量でも質でも劣った人生を、
皮肉にも、それをつくった人間によって歩まされているように思えはしないか。
SNSが発達し、誰もが人と比べて少しでもマシな生き方をしていることに安心を見い出そうとする傾向が
近年はとても強いと思う。
だが忘れないでほしい。
人間の書く脚本は全て、現実にはあり得ないから作品になり、人の興味をそそるのだ。
例えば経済的安定を考えるとき、会社員として会社に勤め、それなりに昇進すれば、それなりの安定した
生活を維持できる確率は上がるだろう。会社員であれば「ほぼ」毎月の生活費は100パーセントに近い確率で
調達することができるだろう。
だが、その延長線上に自分の生き方を自分で100パーセントアレンジできると思いあがってはいけない。
自分の一生を自分で決めることなどできない。
もとより、あなたの人生の完璧なアレンジは、神によって清く聖なるものに整っている。
後は、その清く聖なるものをこの薄汚れた地上世界でどう本来の味わいを失わずに終わりの日まで生きられるかどうかだと思う。
福音、それは神が私たちの人生をどうアレンジしたかを知ることのできる天国からのはしごだ。
聖書は読もうと思えば誰でも読むことはできる。はしごは誰にでも見えるところに降ろされている。
しかし、手が届くかどうかは、その人と神の御心の距離によると思う。
自分の時間と自由を捧げて神を知っていくと、ある日ふと天からはしごが降りていることに気づく。
なんだろうと思って利き手をはしごにかける。
ふと気が付くと、利き手じゃない方には聖書を持っていて、周りにはたくさんの人が前を向いて座っていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、大勢の人と一緒になって、利き手を上げて讃美歌を歌っていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、足はたたまれ自分は床にひざまずいて、頭を垂れてアーメンと小さく呟いて祈っていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、はしごに手をかけたはずの利き手にはクイックルワイパーが握られていて、
しばらくしていなかった部屋の掃除をしていた。
あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気か付くと、はしごに手をかけたはずの利き手には菜箸が握られていて、
しばらく食べていなかった野菜を自分で調理して食べようとしていた。
このように、本来の清い聖なる人生のはしごに手をかけると、
人生の舵は清く聖なる方向へと修正されていく。
教会の規律は嫌いだし、人間関係も奉仕も面倒だ。だが、天からのはしごに利き手をかけるとき、
足は自然と教会へ向き、体は教会の奉仕活動に身を投じられ、心は聖書の御言葉を詠唱していることに気づく。
そうやって、確かに清く生きるのは辛いし逃げたくもなるのだけど、神が僕たちを創造されたときの
想いに触れて、折しも本来の命の使い方に目を留めるとき、
そこにはこの現実をなんとかしたい、けど自分ではどうにもならないんだよ〜という祈りがあり、
予想通りの苦痛があるんだけれど心には賛美があり、
この現実から逃げずに立ち向かった誇りが大切に守られていて、
なによりそれは、蓄積されると地上の理屈よりもはるかに信頼度の高い人格が自分にも備わっているじゃないかということに気づかされる。
人生は勝ち取るもの。
神が御子を犠牲にしてでも味わって欲しかった清い聖なる命の営みを。
買い戻され祝福に値する、神の手によって差し出されるところまで来ている人生を。
あなたは掴み取り、受け取ることができるだろうか。
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