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2024年04月21日

ワーキングプア脱出のカギ「奉献生活=祈り+感謝」両輪の法則

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(ピリピ人の手紙4章16節)


・真の祈りがそこにあるなら、祈りが聞き入れられたときには、感謝の思いと言葉があふれ出します。
祈りが答えをもたらすように、答えは感謝と賛美をもたらします。
・祈りによって神が業をおこなってくださるように、聞き入れられた祈りによって感謝が捧げられます。
夜の後に昼が来るように。
・真の祈りと感謝は、完全な奉献を伴い、奉献は更なる祈りを伴います。
奉献生活とは、祈りと感謝の生活なのです。
※1分間の瞑想「祈りの力」より引用



教会生活の違和感を1つあげるとすれば、それは祈りが感謝から始まることだ。
いや、それは私の教会生活だけのことかもしれないが。

1分間の瞑想「祈りの力」によれば、信仰に伴う奉献生活は次のようなものだそうだ。
奉献生活=祈り(求める)+感謝(捧げる)

だが、これを私はいつの間にか以下のようにとらえてしまっていた。
感謝(捧げる)=奉献生活(捧げる)ー祈り(求める)
これだと左辺と右辺は両立しない。


感謝(捧げる)=奉献生活(求め・捧げる)ー祈り(求める)
当たり前のことだが、感謝は、求めに答えがもたらされたときに捧げられるものだ。
また、
祈り(求める)=奉献生活(求め・捧げる)ー感謝(捧げる)
祈りは、祈りに答えがもたらされたことによる(こちらが捧げる)感謝が、さらなる祈り(こちらの求め)を生む。

教会で祈りに感謝を含めるから、祈りも捧げるものだとばかり思っていた。
だが、祈りは求めるものだ。
奉献生活は、捧げてばかりでは苦しくなる。

さて、奉献生活というと、私たちはどのように理解しているだろうか。
私のように捧げることばかりに注意が生き、やがて消耗して自滅するような愚かなイメージを
もっているならこの記事はあなたの役に立つかもしれない。

今日のテーマは、ワーキングプア。
教会生活では奉仕疲れと言うこともある。だがそれは教会に限ったことではない。
仕事におけるワーキングプアは、むしろ、信仰を持たない無神論者たちの方が辛いだろう。
遣り甲斐搾取などのキーワードは、まさにそのような心の悲しみの声から生まれた言葉だ。

さて、特に会社員が遭遇しがちなこのワーキングプアだが、
いくら働いても仕事が苦しくなるとき、そこにはどのような仕事にまつわるボタンの掛け違いがあるのだろうか。


(1)仕事における奉献生活


奉献生活において大切な事は、主語が全て同じだということだ。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

仕事においては、会社への貢献だとか、お客様への感謝だけが強調される。
だが、貢献(業を行って祈りに答える)を言う前に、どのようなサイクルが
会社に存在するのか整理してみよう。

奉献生活(お客様が求め、捧げる)=祈り(お客様が求める)+感謝(こちらが捧げる)
まずはお客様側の発注サイクルが存在する。

あるいは
奉献生活(上司、部下、同僚が求め・捧げる)=祈り(上司、部下、同僚が求める)+感謝(上司、部下、同僚が捧げる)
こちらは、上司、部下、同僚が仕事を頼んでくるケースだ。

仕事においては、お客様や上司、部下、同僚の祈りによってこちらが業を行い祈りに答える側だ。

ん?
答える側にはサイクルがないのか?

仕事が楽しくなくなる場合というのはこういう場合何だと思う。
すなわち、周りには奉献生活があるのに、自分にはそれがない。


(2)信仰による、私生活における奉献生活


さて、私生活に話を戻そう。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

そこにはきちんと私の求める機会と私の答えられる機会が存在していた。
ここで私の求めのために働かれているのは主であるイエス、神様だ。

そして、働かれる神にもきちんと奉献生活のサイクルは存在する。
奉献生活(主が私たちに求め・与える)=祈り(主が私たちに求める)+感謝(主が私たちに与える)

私と神様、お互いの奉献生活がかみ合うとき、私たちはそこにいてその暮らしに満足し、
幸せになれる。そこに行き来するものの程度の差はあれど。


(3)互いの奉献生活における、かみ合わない感謝が仕事を止める


仕事が面白くないとき、私たちはその職場で神の役割をさせられている。
またこのとき、神の側の奉献生活は、以下のように仕事を依頼される側に誤解されている。
奉献生活(神が求め・与える)=祈り(神が聖書で私たちに求める戒めや栄光)+感謝(神が賛美を受ける

このように神の奉献生活が解釈されるとき、上司、部下、同僚の奉献生活である以下
奉献生活(上司、部下、同僚が求め・捧げる)=祈り(上司、部下、同僚が求める仕事)+感謝(上司、部下、同僚が捧げる)
は、神の奉献生活とかみ合うだろうか。

否、感謝がかみ合わない。
このようなとき、神の奉献生活における感謝を、私たちは私たちの賛美と勘違いしている。

感謝とは、その主体が欲しいものではない。その主体が対象に対して捧げるものだ。
また、主体のそのような感謝は、その感謝によって主体からの対象に更なる祈りをもたらす。


主体と対象、双方の奉献生活が仕事を通してかみ合いお互いの奉献生活の営みを支えるもの、それが仕事だ。

仕事が回ると双方の独立した奉献生活がかみ合いながら各々の奉献生活のギアを回す。
仕事とは、そういうモーターだと言えよう。

相手に何ができるかで仕事は依頼されるものだから、
仕事を依頼する者と依頼される者との間で大抵、祈りはかみ合うものだ。

しかし、感謝は違う。
独立している2つのギアを1つのモーターで回すとき、そこには必ずかみ合ったベルトが必要だ。
感謝はこのベルトである。
溝の合わないギア同士に無理にベルトをかけてモーターを回すと、ベルトは擦れて焼き切れる。
ベルトがなければ仕事も当然止まるだろう。


(4)仕事における奉献生活はおのおの主体的に。ただし、捧げる感謝のかみ合う仕事をする。


例えば私がライフステージを少しだけ上げるために部屋に花を飾りたいと思った場合、そこには生花を生業とする「お花で人を幸せにしたい」と願うお花屋さんという職人と、今の生活のステージを少しだけアップグレードしたいという私の「祈り」がマッチして仕事が起こる。
もしその生花職人の仕事がこちらの祈りにピタリとハマったなら、そこには対価などの「感謝」、および「もっと他にステージを上げるに相応しい方法はないか」とかいう新しい祈りが生ずる。



このように仕事というベルトの両輪には、互いの奉献生活というギアがあり、仕事を回すことによって
お互いの奉献生活のギアは回る。
このとき、各々の奉献生活は以下のようであった。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

結局のところ、仕事が貧しさに終わらないカギは、こちらが捧げた「感謝」が相手のギアとかみ合うかどうかだ。
だから逆に、自分の希望のみの仕事探しや、頼まれてもいない先行した自分磨きによってはワーキングプアが終わることは決してない。前者は捧げる感謝が相手の奉献生活のギアにかみ合うことはほとんどない。また、後者はこちらの祈りでは無いことを感謝として要求されされる犠牲的な奉献生活を強いられることになる。また、こちらの祈りを相手の祈りに書き換えられる可能性があるため極めて危険だ。

祈りと祈りが溶け合って仕事を生む。
仕事が回ると双方の奉献生活のギアが回り、感謝が生まれる。
生まれた感謝は互いの奉献生活に新たな祈りを生み、それがまた仕事につながり互いのギアを回す。
こうして仕事が1周、2週と回るごとに、そこに営みが生じる。

この営みを長期運営する鍵は、お互いの奉献生活の安定を支える「感謝」の生成だ。
そしてこの感謝の重要な性質は、それが捧げものであることは言うまでもないが、こちらの祈りを増幅させるものでなければならない点だ。自分の相手への感謝が、自分のやる気や生活の豊かさ等、こちらの新たな祈りを生まないならば、それは感謝という名の「搾取」である可能性が高い。そのような感謝の仕方は自分がみじめになるだけだからやめるべきだ。

仕事をした後の後味、すなわち自分の内に生じた感謝が、
「仕事が無いよりマシだから。」や「他にできる仕事が無いから。」だったら得られるものは感謝ではない。
これは祈りを強くもしなければ、新たな祈りも生まないから。

「生活費を稼ぐため」や「資格を取って転職するための腰掛」、これも得られる感謝としては弱い。
はじめの祈りが一定期間は継続するかもしれないが、しかし初めの祈りが強くなったり、新しい祈りが増えることはあまりないから。むしろ、祈りが今の仕事とは関係ない方向へ行きやすいかもしれないという点では、適切な感謝を得にくいものだろう。

ベストな仕事の後味は、その仕事が継続することで、次は(得られたものの質、量において)もっと良いものを、または新しい更なるものを祈れるものだ。

仕事の好循環を生むもの、こちらの奉献生活における感謝を生成のは「祈り」であるから、仕事をする前にまずは何が願いであるか祈ることが重要だ。

ワーキングプアは仕事が先行し、祈りが後回しになることで起こる。
祈りの無い仕事は、相手の奉献生活を回すためのモーターにされやすい。こうなると相手は仕事をしなくてもあなたの犠牲で自分を肥やすようになる。これは最悪のワーキングプアだ。

ワーキングプアを感じたら、まずは手を止めて祈ることだ。
そしてわずかでも今の仕事で答えられた祈りがあるなら、その答えられた祈りに対する感謝を紙に書き出し、
祈りがきちんと答えられているか精査しよう。そして仕事を通じて相手からエネルギーを貰い、自分の新しい祈りの生成、または更なる良質な祈りにつなげることだ。

仕事にまつわる奉献生活は、相手のものと自分のものの、2つが両輪で回っていることを忘れてはならない。




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