2024年04月29日
【人間関係】年次総会で年長者に意見を申し上げる態度 = お奉行様に申し開きをするときの態度 = 神に申し開きをするときの態度
(1)雑だと思われた教会奉仕を指摘した時のこと
昨日行われた教会での年次総会で会計報告がなされた際、
若輩者ながら
2023年から引き継いだお茶会の会計が、出費ありきで行われているのではないかとの
懸念をご報告させていただいた。
年長者ばかりだったので、懸念という形で指摘を上げさせていただくのは
大変な畏れ(おそれ)多い事だった。
報告後も気まずさが残り、何か指摘について言われたわけではないが
急ぎ足で会場を後にしてきた。
神の前で申し開きをするときというのはこういう心地なのかもしれない。
(2)若輩者として、この奉仕に召された者として
時代が変わっても、若輩者が年長者の仕事に意見を言うのは畏れ多いことだ。
一般の会社では、自分が若輩に数えられるうちは黙っていて、
言ってよい機会、あるいは言える立場になってから申し上げるのがマナーである。
年長者を敬いつつ、一方でその仕事の雑さと対峙するには、マナーなしには成し得ない。
こちらの意見がどこまで聞いていただけるかはわからないが、
与えられた仕事、こと会計においては「雑さ」がそこにあってはならないので
若輩者から見えるその「雑さ」が本当はどうなのか、問いを上げ学ばせていただく必要がある。
「知恵」とは、キリスト教においても仏教においても「物事をあるがままに見る」こと。
そして「あるがまま」の反対は「我がまま」だ。
若輩者は文字通り年長者にたいして物を見る経験が足りない。
だから自分の見たいように物事をみて、我がままな言葉を口にしがちだ。
会計においては確かに「雑」は学問上タブーであるが、
申し上げたのは「お茶会の会計」の事であるから、教会の会計の中ではそれほど重要では
ないかもしれない。
若輩者は自分の仕事を誇りがちだから、必要以上の評価を求めないよう厳重な注意が必要だ。
会計は、実践の場において、また扱う人において、それが「雑」で良い場合もある。
とにかく次へ怒って寝てはいけない、明日へつなげるためにも、聖書が言う通り
その場で頭の中がモヤモヤするこの態度だけでも解決しておくべきだと思った。
それでこの会計の私の疑問をこの総会で申し上げるべきかと知恵を求めて問うた短いお祈りの後、
総会ならば教会の運営メンバーしかおらず、また一対一でないので年齢と経験で不利に攻撃されることもないだろうとの理由で、その場で申し上げることにした。
(3-1)総会が終わった後に起きたこと(その1)
総会は、司会の方のスムーズな運びと出席された方たちの和やかな空気の恵みもあって無事に終わった。
出しなに時折お茶会の準備とお片付けをお手伝いいただく女性の会員様に
「今日はありがとうございました」と言われた。
僕と同じくお茶会でも会計が雑なのはよくないと思っていたのだろうか。
お茶会でも、企画しただけで任せる側と、それを任され毎月運営していく側とは、
その仕事に抱く熱量に差が出てくるものだ。
僕と同じく、お茶会を大事に思ってくれていたというのなら、あの場で発言して良かったと思う。
(3-2)総会が終わった後に起きたこと(その2)
その夜、運営チームの牧師先生からLINEが来て、僕が「雑」だと指摘した時の場が
どういう場で、どういう意図の会計処理でよかったかを説明していただいた。
そしてそこには、誠実な奉仕と奉仕への御礼も記していただいていた。
「誠実さ」とは聞こえはいいが、若輩者の誠実さは浅い経験に裏打ちされた「彼の正義」である
場合が往々にしてあり、職場などでのトラブルの原因となるので注意が必要だ。
ことに令和の若者は、インターネットなどで簡単に知識が得られるため、
浅い経験、簡単に知り得た知識に、実際よりかなり浅い洞察を加えた「正義」を構築し易い。
職場の面接で、スキルはあっても職務経歴の内容が語れるに薄く、また非常に正義感の強い人を
落とす傾向にあるのは、彼のそのような正義が往々にして、その職場においても「我がまま」な正義で
その職場全体の空気を乱す可能性があるからだ。彼は自分では気づかない職場のトラブルメーカーである。
これは体の年齢に関わらず精神的な若輩者にとてもよく当てはまる。
(4)聖書では、このような誠実さをどのように区分けしているか
貧しくても賢い若者は、どんな忠告も受け付けない年取った愚かな王おりもましです。
(伝道者の書4:13 JCB)
”賢い若者”とは善への衝動のことだ。なぜ若者と言われるのか。この衝動は13歳以上にならないと芽生えないからだ。なぜ貧しいと言われるのか。誰もその言うことを聞かないからだ。なぜ賢いと言われるのか。それは被造物すべてにとって正しい道を示すからである。
また"愚かな王"とは悪への衝動のことだ。なぜ王と呼ばれるのか。誰もがその言うことを聞くからである。なぜ「年取った」と言われるのか。それは生まれたときから人にずっと付きまとうからだ。なぜ愚かと言われるのか。それは人に誤った道を指し示すからである。
年長者が全て正しいとも言うつもりはないし、若輩者が全てにおいて愚かだとも言うつもりはない。
もしこの総会での私の発言が元で、人や教会を正しい道へと進んだなら、
「あの時のことは正しかったのだ」と後でわかるだろう。
もし、この時の私の発言が元で人が、教会が正しくない道へ進んだら、
「あの時のことは間違いだった」と後でわかるだろう。
ただ、これだけは言える。
LINEの本分の結びには「これからもよろしくお願いします。」とも書かれていた。
お奉行様に申し上げるようなことをしてドキドキしたが、
とりあえず、仕事は継続して励んでよろしいようだ。
昨日行われた教会での年次総会で会計報告がなされた際、
若輩者ながら
2023年から引き継いだお茶会の会計が、出費ありきで行われているのではないかとの
懸念をご報告させていただいた。
年長者ばかりだったので、懸念という形で指摘を上げさせていただくのは
大変な畏れ(おそれ)多い事だった。
報告後も気まずさが残り、何か指摘について言われたわけではないが
急ぎ足で会場を後にしてきた。
神の前で申し開きをするときというのはこういう心地なのかもしれない。
(2)若輩者として、この奉仕に召された者として
時代が変わっても、若輩者が年長者の仕事に意見を言うのは畏れ多いことだ。
一般の会社では、自分が若輩に数えられるうちは黙っていて、
言ってよい機会、あるいは言える立場になってから申し上げるのがマナーである。
年長者を敬いつつ、一方でその仕事の雑さと対峙するには、マナーなしには成し得ない。
こちらの意見がどこまで聞いていただけるかはわからないが、
与えられた仕事、こと会計においては「雑さ」がそこにあってはならないので
若輩者から見えるその「雑さ」が本当はどうなのか、問いを上げ学ばせていただく必要がある。
「知恵」とは、キリスト教においても仏教においても「物事をあるがままに見る」こと。
そして「あるがまま」の反対は「我がまま」だ。
若輩者は文字通り年長者にたいして物を見る経験が足りない。
だから自分の見たいように物事をみて、我がままな言葉を口にしがちだ。
会計においては確かに「雑」は学問上タブーであるが、
申し上げたのは「お茶会の会計」の事であるから、教会の会計の中ではそれほど重要では
ないかもしれない。
若輩者は自分の仕事を誇りがちだから、必要以上の評価を求めないよう厳重な注意が必要だ。
会計は、実践の場において、また扱う人において、それが「雑」で良い場合もある。
とにかく次へ怒って寝てはいけない、明日へつなげるためにも、聖書が言う通り
その場で頭の中がモヤモヤするこの態度だけでも解決しておくべきだと思った。
それでこの会計の私の疑問をこの総会で申し上げるべきかと知恵を求めて問うた短いお祈りの後、
総会ならば教会の運営メンバーしかおらず、また一対一でないので年齢と経験で不利に攻撃されることもないだろうとの理由で、その場で申し上げることにした。
(3-1)総会が終わった後に起きたこと(その1)
総会は、司会の方のスムーズな運びと出席された方たちの和やかな空気の恵みもあって無事に終わった。
出しなに時折お茶会の準備とお片付けをお手伝いいただく女性の会員様に
「今日はありがとうございました」と言われた。
僕と同じくお茶会でも会計が雑なのはよくないと思っていたのだろうか。
お茶会でも、企画しただけで任せる側と、それを任され毎月運営していく側とは、
その仕事に抱く熱量に差が出てくるものだ。
僕と同じく、お茶会を大事に思ってくれていたというのなら、あの場で発言して良かったと思う。
(3-2)総会が終わった後に起きたこと(その2)
その夜、運営チームの牧師先生からLINEが来て、僕が「雑」だと指摘した時の場が
どういう場で、どういう意図の会計処理でよかったかを説明していただいた。
そしてそこには、誠実な奉仕と奉仕への御礼も記していただいていた。
「誠実さ」とは聞こえはいいが、若輩者の誠実さは浅い経験に裏打ちされた「彼の正義」である
場合が往々にしてあり、職場などでのトラブルの原因となるので注意が必要だ。
ことに令和の若者は、インターネットなどで簡単に知識が得られるため、
浅い経験、簡単に知り得た知識に、実際よりかなり浅い洞察を加えた「正義」を構築し易い。
職場の面接で、スキルはあっても職務経歴の内容が語れるに薄く、また非常に正義感の強い人を
落とす傾向にあるのは、彼のそのような正義が往々にして、その職場においても「我がまま」な正義で
その職場全体の空気を乱す可能性があるからだ。彼は自分では気づかない職場のトラブルメーカーである。
これは体の年齢に関わらず精神的な若輩者にとてもよく当てはまる。
(4)聖書では、このような誠実さをどのように区分けしているか
貧しくても賢い若者は、どんな忠告も受け付けない年取った愚かな王おりもましです。
(伝道者の書4:13 JCB)
”賢い若者”とは善への衝動のことだ。なぜ若者と言われるのか。この衝動は13歳以上にならないと芽生えないからだ。なぜ貧しいと言われるのか。誰もその言うことを聞かないからだ。なぜ賢いと言われるのか。それは被造物すべてにとって正しい道を示すからである。
また"愚かな王"とは悪への衝動のことだ。なぜ王と呼ばれるのか。誰もがその言うことを聞くからである。なぜ「年取った」と言われるのか。それは生まれたときから人にずっと付きまとうからだ。なぜ愚かと言われるのか。それは人に誤った道を指し示すからである。
年長者が全て正しいとも言うつもりはないし、若輩者が全てにおいて愚かだとも言うつもりはない。
もしこの総会での私の発言が元で、人や教会を正しい道へと進んだなら、
「あの時のことは正しかったのだ」と後でわかるだろう。
もし、この時の私の発言が元で人が、教会が正しくない道へ進んだら、
「あの時のことは間違いだった」と後でわかるだろう。
ただ、これだけは言える。
LINEの本分の結びには「これからもよろしくお願いします。」とも書かれていた。
お奉行様に申し上げるようなことをしてドキドキしたが、
とりあえず、仕事は継続して励んでよろしいようだ。
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