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2024年09月10日
【社会現象】コミュニティー化すべきでなかった「自立誤り」と彼女たちの機能不全な実態
(1)とどまることを知らない人の欲望
ほんの小さな欲望が、人生を狂わせることがある。
食欲、性欲、睡眠欲。
適切に満たせるものならよいが、ことさら今のこの令和の時代では、
その手法でお金が稼げるほど複雑かつ、良心にとって難しいものになっている。
例えば仕事のストレス。
誰もが抱えているありふれた話題だ。
だがこの仕事での小さなストレスが小さな不眠を積もらせるとどうなるか。
それによってその人の生活に小さな「ほころび」や「くるい」が生じはじめ、
やがてその人の職場で周りと人間関係をこじらせはじめたり、或いは自分から仕事をやめたりと・・・
その、個人が負った小さな「人生のほころび」は、スピートの遅い早いはあれど確実に
「ほころび」程度では済まない大きな痛みとなる。
時には自分だけでなく、自分以外に危害を及ぼすことも「当然の事」と自制解除を躊躇しないほどに。
(2)自制教育としての「信仰」の役割
仏教は自分の欲望を抑え、コントロールすることを教える。
キリスト教は自分よりも相手を愛し・・・つつ、やはり自分の欲望を適切に処理する方法を教えているように
私は思う。
「人はひとりではよくない」
これは聖書の創世記における有名な神の言葉だ。なぜか。
人はひとりでいれば問題は起こらない。エデンの園にも罪もなかった。
ではなぜ神はもうひとり「人」を作ったのか。
聖書には「助け手」と書いてあるが、私にはこの「もうひとり」は一人ではないと読める。
このもう一人は、「一人でいるときも常にもうひとりを意識していた」のではないだろうか。
(3)「退屈」によって死にかけてしまったアダム
人は一人ではその思い、行いは正しく無害だったが、なぜか人をひとりにしておくと
彼は退屈によってすぐ生気を失い死にかけてしまった。
実際どうだったかはわからない。これは私の完全な憶測だ。
だが、あながち嘘ではないかもしれない。
実際、人は複雑さを欲している。いや、むしろ問題を欲していると言っても良いかもしれない。
思えば神が作った人も、世界も、相当複雑なシロモノである。
この世界はものすごく緻密に、かつ複雑な調和の下で運営されている。
人は「神の似姿」として創造されたというのなら、人もこの緻密さ、そして複雑さを好むに違いない。
だから神は人を「もう一人」作られた。
そして人はすぐ死にそうになることはなくなった。(注※これは完全な私の憶測です!)
(4)死にかけるアダムを不憫に思い、神はアダムに「複雑さ」を与えるも・・・
実際人類は無用な競争や争いをたくさん起こし、世の中を複雑なものに「見せてきた」。
男と女が一緒になったとて、普通に子どもを産んでそれを育てることを楽しみとして、
夫婦仲良く過ごせばよい。が、実際はそうはならない。
人がひとりだったときは、好き放題させていてもその限度はたかが知れていた。
だが、ふたりになった途端に人と人との関係はややこしくなった。
そしてそこに神が絡んだとなると、いよいよ兄弟でカインとアベルは殺し合いをしてしまった。
兄弟の殺し合いの最中、弟は「やめてよ!兄さん!」と叫んだかもしれない。
しかし兄は止まらない。
なんせこの兄は後に神の前でも悪態をつくほどの「大物」だったから。
そこで「女性」の登場である。
最初の人、男性アダムの”あばら骨”から作られた二人目の人、女性「エバ」は、やはり神の似姿らしく複雑さを好んだがが、その性質には「自制」が宿っていた。
エバはアダムと争うことも、神を疑うこともしなかった。
だがエバにも決して欲望が無かったわけではない。彼女もまた複雑さを好んだが、問題にならなかったのは一重に彼女の中の「自制心」の賜物に尽きる。
人がふたりになっても仲むつまじく暮らせていたのは、アダムの愛とエバの自制心が見事に複雑かつ緻密に絡み合いながら一体となって機能していたからだ。
つまるところ、人が複数いるところでは必ずと言っても良いほど「自制心」と「愛」が必要になると言えよう。
男性は愛する方法が望ましい。自分を捧げて相手を愛する。
女性は(男性から愛のカタチを学び)自分を愛する、すなわち自制に徹することが望ましい。
女性は男性が自分以外に自分を捧げすぎているときに彼に寄り添い、「自制」を促す。これ以上の捧げものは必要ないと彼をさとすことで彼は命を落とすまで捧げあるいは奪われることに「制限」をかけることができるようになる。これが「助け手」の所以であり、男と女が一体であることの根拠である。
(5)聖書の要「自制心」と「愛」
人は男と女、それぞれ単体でもふたり一体でも複雑さの中にいることには変わりない。
だが、そこにはまず、「自制」の実が必要だ。
アダムが善悪の木の実だけは食べるなと命じられていたのも、この「自制」の実を育てるためのレッスン、いわゆるそれは神の愛だったかもしれない。
ともかく私たちには二人以上になるときはまず「自制」が必要だ。自制なき「愛」はやがて自分の命を危機にさらす。
教会においても「愛」をもって神に身を捧げた結果として、職務としての御言葉の代行を行う中で「自制を教える」ことはあっても、実際、黙って聞くなどの自制をその場にいる全員に「しつけ」しているのは「女性会員の態度」であることが多いと思う。
女性がしっかりとしている教会は、奉仕も礼もピカイチである。
男性は、そんな女性に影響されて自分も自制心が「あるように」「最初は」「振る舞う」。
男性が自制心を自分の物として身に着け、社会でそれらしく振る舞えるようになるには13歳以上にならなければならないとタルムードにもある。
それまでは廊下は走るし、モノは散らかし、親や目上の人の言う事は基本聞かない。
男性が奉仕や礼に基づいて行動するようになるきっかけ。例えるなら雄から漢になるような。
それはおそらく「異性への恋心」であろう。
(6)もはや女性に「欲情」することはあっても「恋」をしなくたった雄(オス)たち
しかし現在、この女性におけるその性(サガ)でもあろう「自制心」が社会の中で機能していない。
インスタグラムやFacebookから、女性ファッション誌まで、現在の女性は「自制からの解放」の
シンボルである。
かつての神のデザインとは異なり、女性は人類に自制心を起こさせる存在から、
自制から解放させる存在となった。
自制心なくして人の世は治まらない。
言いすぎを承知で言えば、最近のいじめや戦争は女性のこの「変異化」が原因かもしれない。
(7)欲望に負け、人としての成長をやめた女性たち
人間関係がなぜ複雑か。それは複雑でないと「人は興味を持たない」からだ。
数学、化学、物理・・・理系の学問は複雑だ。
文学・・・これも複雑な方が面白いと私たちは感じる。
自然は・・・複雑にしたのは「人間」だ。
「人はひとりではよくない」
人は複雑さの中で活力を見い出して生きていくものだから。
だが、人の複雑さにはお互いに制限が必要だ。それは
1.自分の欲望における制限だけでなく、
2.相手が自分の中に必要以上に入ってこないようにする制限、
3.相手が自分の必要以上に頑張らせて結果、奪われた格好にしないための制限
も同様である。
1.は実践に易しい。
2.は自分を守るという点では易しいが、相手に失礼を及ぼすリスクを考慮するとやや難易度が上がる。
そして3.は、多くの場合、相手に遠慮しすぎでバランスを欠き挫折する点で、1と2が出来るようにならないと至らない、より高次元での実践となる。
悲しいかな、今は男性がこの2.3.を教え、また実践の教師になっている場合が多い。
周りを見渡せば、昔は尊敬すべき助け手だった対象の自己中心的な態度と要望を、男性が全て受け止めているのが「当たり前」の光景となっている。
育休は特にその典型だと思う。
聞こえは良く聞こえるかもしれないが、それは社会で女性「たち」が全体として担う分担と責任ではなかっただろうか。
女性同士の人間関係の不出来が各家庭まで影響を及ぼし、本来、女性だけの専売特許だった育児を女性自身が「幸せな経験(体験)」から「単なる負担」に落としめ、その「負担部分だけ」を男性に「押し付けて」いる。
男性は命を捧げる生き物だから、たとえ「愛していなくとも」、「男性の責任として」その負担の押し付けにも甘んじるだろう。
「女性としての責務」を男性に「押し付け」て、平気な顔をしている。
これは男女の性差を述べる前に、実に「人として愚かな態度」だと思う。
お金の稼ぎ方のセミナー講師はできても、社会の在り方には無関心で無知。
それでいて、かつての漢たちが「これではいかん」と言って、苦心の末につむぎだした”社会の理想”である「法と律」にまで口(くち)を出し、ずかずかと彼らが築いてきた聖域を台所を片付けるように勝手に自分のしたいような形に「整理」してしまう。
父親のいない家庭の「子どもの貧困」の半分はもしかするとそのせいかもしれない。
その口(くち)一つで所かまわず攻撃するのが自立か。
家の中ですら抑えられない舌を、社会でどう役立つと言えるのか。
聖書時代のタルムードを社会に浸透させ秩序を守ってきたのは、各家庭における女性たちの「教師」としての役割と態度であった。
だが、法にも律にも無知な現代の状態ではいずれ、かつて漢たちが”社会の理想”を掲げ、それによってこれまで「かろうじて」阻止してきた「現実」を、再び歴史で繰り返すことになるかもしれない。
「現実が見えていない」と彼女たちは言うだろう。
だが、「現実にしてはいけない現実」に対しては「理想」で戦うしかないこの社会の「現実」を
哀れなことに彼女たちはまだ知らない。
日本国憲法はその一例である。
「オジたち」の「頭が古いから」「現実に合っていない」ことが「わからない」と彼女たちは笑う。
だが、あれは「過去に起きた現実」を「二度と起こさないため」に「起きてはならない現実」の「回避策」として作られたものだ。
そういうものをむやみに「現実に」「合わせてはいけない」とは思わないところが「無知」と言わざるを得ない。
確かにあなたたちの「現実の生活」には直接には関係なかろう。
だが、あなたの現実の生活から「直接、関わらないように」その「起きては困るもう一つの現実」を遠ざけているのも、今あなたたちが「時代に合わない」と言って変更してしまった「それ」なのだ。
彼女たちは「片方の現実しか見ない。」
そして「もう片方の現実」が来ても、その時に彼女たちはまた、その「責任」を「男性」に「押し付け」、自分の身の回りは台所を整理するように「整理」していくに違いない。
不幸なことに、社会はメディアを通じてその「一端」を既に目撃している。
漢の中の漢「イエス・キリスト」が天からこの光景を見ているとしたら、
もう既に神に祈っていることだろう。
「父よ彼女たちを御赦しください。
彼女たちは自分が何をしているのか、わからないでいるのです。」と。
ほんの小さな欲望が、人生を狂わせることがある。
食欲、性欲、睡眠欲。
適切に満たせるものならよいが、ことさら今のこの令和の時代では、
その手法でお金が稼げるほど複雑かつ、良心にとって難しいものになっている。
例えば仕事のストレス。
誰もが抱えているありふれた話題だ。
だがこの仕事での小さなストレスが小さな不眠を積もらせるとどうなるか。
それによってその人の生活に小さな「ほころび」や「くるい」が生じはじめ、
やがてその人の職場で周りと人間関係をこじらせはじめたり、或いは自分から仕事をやめたりと・・・
その、個人が負った小さな「人生のほころび」は、スピートの遅い早いはあれど確実に
「ほころび」程度では済まない大きな痛みとなる。
時には自分だけでなく、自分以外に危害を及ぼすことも「当然の事」と自制解除を躊躇しないほどに。
(2)自制教育としての「信仰」の役割
仏教は自分の欲望を抑え、コントロールすることを教える。
キリスト教は自分よりも相手を愛し・・・つつ、やはり自分の欲望を適切に処理する方法を教えているように
私は思う。
「人はひとりではよくない」
これは聖書の創世記における有名な神の言葉だ。なぜか。
人はひとりでいれば問題は起こらない。エデンの園にも罪もなかった。
ではなぜ神はもうひとり「人」を作ったのか。
聖書には「助け手」と書いてあるが、私にはこの「もうひとり」は一人ではないと読める。
このもう一人は、「一人でいるときも常にもうひとりを意識していた」のではないだろうか。
(3)「退屈」によって死にかけてしまったアダム
人は一人ではその思い、行いは正しく無害だったが、なぜか人をひとりにしておくと
彼は退屈によってすぐ生気を失い死にかけてしまった。
実際どうだったかはわからない。これは私の完全な憶測だ。
だが、あながち嘘ではないかもしれない。
実際、人は複雑さを欲している。いや、むしろ問題を欲していると言っても良いかもしれない。
思えば神が作った人も、世界も、相当複雑なシロモノである。
この世界はものすごく緻密に、かつ複雑な調和の下で運営されている。
人は「神の似姿」として創造されたというのなら、人もこの緻密さ、そして複雑さを好むに違いない。
だから神は人を「もう一人」作られた。
そして人はすぐ死にそうになることはなくなった。(注※これは完全な私の憶測です!)
(4)死にかけるアダムを不憫に思い、神はアダムに「複雑さ」を与えるも・・・
実際人類は無用な競争や争いをたくさん起こし、世の中を複雑なものに「見せてきた」。
男と女が一緒になったとて、普通に子どもを産んでそれを育てることを楽しみとして、
夫婦仲良く過ごせばよい。が、実際はそうはならない。
人がひとりだったときは、好き放題させていてもその限度はたかが知れていた。
だが、ふたりになった途端に人と人との関係はややこしくなった。
そしてそこに神が絡んだとなると、いよいよ兄弟でカインとアベルは殺し合いをしてしまった。
兄弟の殺し合いの最中、弟は「やめてよ!兄さん!」と叫んだかもしれない。
しかし兄は止まらない。
なんせこの兄は後に神の前でも悪態をつくほどの「大物」だったから。
そこで「女性」の登場である。
最初の人、男性アダムの”あばら骨”から作られた二人目の人、女性「エバ」は、やはり神の似姿らしく複雑さを好んだがが、その性質には「自制」が宿っていた。
エバはアダムと争うことも、神を疑うこともしなかった。
だがエバにも決して欲望が無かったわけではない。彼女もまた複雑さを好んだが、問題にならなかったのは一重に彼女の中の「自制心」の賜物に尽きる。
人がふたりになっても仲むつまじく暮らせていたのは、アダムの愛とエバの自制心が見事に複雑かつ緻密に絡み合いながら一体となって機能していたからだ。
つまるところ、人が複数いるところでは必ずと言っても良いほど「自制心」と「愛」が必要になると言えよう。
男性は愛する方法が望ましい。自分を捧げて相手を愛する。
女性は(男性から愛のカタチを学び)自分を愛する、すなわち自制に徹することが望ましい。
女性は男性が自分以外に自分を捧げすぎているときに彼に寄り添い、「自制」を促す。これ以上の捧げものは必要ないと彼をさとすことで彼は命を落とすまで捧げあるいは奪われることに「制限」をかけることができるようになる。これが「助け手」の所以であり、男と女が一体であることの根拠である。
(5)聖書の要「自制心」と「愛」
人は男と女、それぞれ単体でもふたり一体でも複雑さの中にいることには変わりない。
だが、そこにはまず、「自制」の実が必要だ。
アダムが善悪の木の実だけは食べるなと命じられていたのも、この「自制」の実を育てるためのレッスン、いわゆるそれは神の愛だったかもしれない。
ともかく私たちには二人以上になるときはまず「自制」が必要だ。自制なき「愛」はやがて自分の命を危機にさらす。
教会においても「愛」をもって神に身を捧げた結果として、職務としての御言葉の代行を行う中で「自制を教える」ことはあっても、実際、黙って聞くなどの自制をその場にいる全員に「しつけ」しているのは「女性会員の態度」であることが多いと思う。
女性がしっかりとしている教会は、奉仕も礼もピカイチである。
男性は、そんな女性に影響されて自分も自制心が「あるように」「最初は」「振る舞う」。
男性が自制心を自分の物として身に着け、社会でそれらしく振る舞えるようになるには13歳以上にならなければならないとタルムードにもある。
それまでは廊下は走るし、モノは散らかし、親や目上の人の言う事は基本聞かない。
男性が奉仕や礼に基づいて行動するようになるきっかけ。例えるなら雄から漢になるような。
それはおそらく「異性への恋心」であろう。
(6)もはや女性に「欲情」することはあっても「恋」をしなくたった雄(オス)たち
しかし現在、この女性におけるその性(サガ)でもあろう「自制心」が社会の中で機能していない。
インスタグラムやFacebookから、女性ファッション誌まで、現在の女性は「自制からの解放」の
シンボルである。
かつての神のデザインとは異なり、女性は人類に自制心を起こさせる存在から、
自制から解放させる存在となった。
自制心なくして人の世は治まらない。
言いすぎを承知で言えば、最近のいじめや戦争は女性のこの「変異化」が原因かもしれない。
(7)欲望に負け、人としての成長をやめた女性たち
人間関係がなぜ複雑か。それは複雑でないと「人は興味を持たない」からだ。
数学、化学、物理・・・理系の学問は複雑だ。
文学・・・これも複雑な方が面白いと私たちは感じる。
自然は・・・複雑にしたのは「人間」だ。
「人はひとりではよくない」
人は複雑さの中で活力を見い出して生きていくものだから。
だが、人の複雑さにはお互いに制限が必要だ。それは
1.自分の欲望における制限だけでなく、
2.相手が自分の中に必要以上に入ってこないようにする制限、
3.相手が自分の必要以上に頑張らせて結果、奪われた格好にしないための制限
も同様である。
1.は実践に易しい。
2.は自分を守るという点では易しいが、相手に失礼を及ぼすリスクを考慮するとやや難易度が上がる。
そして3.は、多くの場合、相手に遠慮しすぎでバランスを欠き挫折する点で、1と2が出来るようにならないと至らない、より高次元での実践となる。
悲しいかな、今は男性がこの2.3.を教え、また実践の教師になっている場合が多い。
周りを見渡せば、昔は尊敬すべき助け手だった対象の自己中心的な態度と要望を、男性が全て受け止めているのが「当たり前」の光景となっている。
育休は特にその典型だと思う。
聞こえは良く聞こえるかもしれないが、それは社会で女性「たち」が全体として担う分担と責任ではなかっただろうか。
女性同士の人間関係の不出来が各家庭まで影響を及ぼし、本来、女性だけの専売特許だった育児を女性自身が「幸せな経験(体験)」から「単なる負担」に落としめ、その「負担部分だけ」を男性に「押し付けて」いる。
男性は命を捧げる生き物だから、たとえ「愛していなくとも」、「男性の責任として」その負担の押し付けにも甘んじるだろう。
「女性としての責務」を男性に「押し付け」て、平気な顔をしている。
これは男女の性差を述べる前に、実に「人として愚かな態度」だと思う。
お金の稼ぎ方のセミナー講師はできても、社会の在り方には無関心で無知。
それでいて、かつての漢たちが「これではいかん」と言って、苦心の末につむぎだした”社会の理想”である「法と律」にまで口(くち)を出し、ずかずかと彼らが築いてきた聖域を台所を片付けるように勝手に自分のしたいような形に「整理」してしまう。
父親のいない家庭の「子どもの貧困」の半分はもしかするとそのせいかもしれない。
その口(くち)一つで所かまわず攻撃するのが自立か。
家の中ですら抑えられない舌を、社会でどう役立つと言えるのか。
聖書時代のタルムードを社会に浸透させ秩序を守ってきたのは、各家庭における女性たちの「教師」としての役割と態度であった。
だが、法にも律にも無知な現代の状態ではいずれ、かつて漢たちが”社会の理想”を掲げ、それによってこれまで「かろうじて」阻止してきた「現実」を、再び歴史で繰り返すことになるかもしれない。
「現実が見えていない」と彼女たちは言うだろう。
だが、「現実にしてはいけない現実」に対しては「理想」で戦うしかないこの社会の「現実」を
哀れなことに彼女たちはまだ知らない。
日本国憲法はその一例である。
「オジたち」の「頭が古いから」「現実に合っていない」ことが「わからない」と彼女たちは笑う。
だが、あれは「過去に起きた現実」を「二度と起こさないため」に「起きてはならない現実」の「回避策」として作られたものだ。
そういうものをむやみに「現実に」「合わせてはいけない」とは思わないところが「無知」と言わざるを得ない。
確かにあなたたちの「現実の生活」には直接には関係なかろう。
だが、あなたの現実の生活から「直接、関わらないように」その「起きては困るもう一つの現実」を遠ざけているのも、今あなたたちが「時代に合わない」と言って変更してしまった「それ」なのだ。
彼女たちは「片方の現実しか見ない。」
そして「もう片方の現実」が来ても、その時に彼女たちはまた、その「責任」を「男性」に「押し付け」、自分の身の回りは台所を整理するように「整理」していくに違いない。
不幸なことに、社会はメディアを通じてその「一端」を既に目撃している。
漢の中の漢「イエス・キリスト」が天からこの光景を見ているとしたら、
もう既に神に祈っていることだろう。
「父よ彼女たちを御赦しください。
彼女たちは自分が何をしているのか、わからないでいるのです。」と。