2024年05月14日
「ブチ切れてはいけません」正義を馬鹿にされた大人の良識ある聖書的『塩対応』の極意
人ひとりを養うのに必要なもの。
それは正義と愛だ。
聖書的な神様は愛だが、同時に正義でもある。
教会のメッセージはとりわけ愛について語りがちだが、これのせいで多くの人が神は「愛だけ」だと
錯覚していないだろうか。
ちょうだい、ちょうだい。私を愛して頂戴。
愛されることばかりに偏った信仰心は必ずと言っていいほど堕落した人を作る。
(1)自分の正義がむなしく思えてくるとき
ところで、私はどちらかというより愛より正義の傾向が強い。
教会で奉仕するのも、仕事で休日出勤を買って出るのも、愛というよりは正義感で動く傾向があると思う。
長年この傾向を続けてきて、ここで一旦距離を自分から引いて、遠いところから自分を見てみると
正義感を利用する輩に対するフラストレーションの蓄積がここへ来て
噴火寸前まで来ているように思えた。これを「正義疲れ」と言うことにする。
このような経験をした人は少ないと思う。
大抵の人が、ここで爆発して積み上げてきた事を切らして台無しにしてしまう。
(2)正義の性質には2種類ある
正義の性質には2種類ある。
一つは、自分が立て上げた正義。もう一つは、神が立て上げた正義だ。
前者は、立て上げた者が居なくなったり止めてしまったりすると全くの無になってしまうが、
後者は、立て上げた者が居なくなったり止めたりしても、それは残り輝きを失わない。
(3)ブチ切れてしまう、その前に。
正義疲れでストレスフルな時は、自分が積み上げてきたものが何なのかを冷静に見ることができない。
が、それまで積み上げてきた正義は誰が積み上げてきた正義なのかを冷静に見つめてみる。すると、
例えばそれが「聖書に書いてあるから」という純粋な理由から来ていたとしたら、
今、自分がどんなにフラストレーションのたまっている状態であっても、
それはまぎれもなく、神が立てた正義と言える。
神が立てた正義とは、つまり本物の正義。
その正義の根拠を知らない人は、その正義を「お人好し」として笑うだろう。
自分も、周りに散々利用されてきた自分に対して、怒りに身が震えるほど悔しいかもしれない。
しかし、冷静に、瞑想をし、いったんその感情を静かに泳がせててあげて、
心の中で感情の波が穏やかになってきたところでその目線を
聖書的な学びで得た知恵の目、すなわち神の目線に置き換えて見てみる。
すると、どんな悪人にも利用の扉が開かれていて、しかもそれは手抜きなしで
これまで頑張って自分が神の戒めを守るというただ一点で育ててきた本物の正義というものの
天の輝きを見ることができる。
くらい朽ちることの無い、永遠の性質を帯びた本物の正義の輝きは、
今、まだこの手の中で輝いている。
顔は今にもフラストレーションでブチ切れて爆発しまいそうだ。
しかし、そのこの手の中の天の輝きを放つ本物の正義は、そんな私であっても、いや
こんな弱い私であっても私の強さの証しとして日々、着々と私の手の中で積み上がり、
今や誰もが認める正義となっている。
(4)一度、正義という熱湯を取り出し、自分に向けた愛という名の冷水と共に注ぎ直しながら、積み上げてきた正義を心の器に戻す
人ひとりを養うのに必要なもの。
それは正義と愛だ。
タルムードには、
「ある王が空の茶碗を持っていた。これに熱湯を入れれば割れるだろうし、冷水を注げば縮むに違いない。
そこで王はどうしたかというと、熱湯に冷水を混ぜ合わせて茶碗に注いだところ、大丈夫だった。
同様に、ほむべき聖なるお方も仰せられた。『愛だけをもって世界を作ったのでは罪がはびこるだろうし、正義だけをもって造ったのでは永くはもつまい。だから、両方をもって世界を造るとしよう。永久に続いてくれることを願いたい』」
と、人には正義も愛も、バランスよく必要であることが示されている。
今、馬鹿にされたように思える正義は熱湯のようである。
その正義はどうしてこれまで耐えられてきたか。それはそれが聖書の教えだからだ。
ならば同様に聖書に倣い、
熱湯のような正義を感情の爆発するままに捨ててしまうのでなく、
一度、それを熱湯のまま取り出し、冷水のごとく熱気を優しく冷ましてくれる愛と共に注ぎ直し
心の器に戻してみる。
すると、心の器はそのままに、正義の情熱が冷水と調和して見事に冷まされ器に収まり大丈夫になる。
(5)冷水なる愛とは何か
「正義の熱を優しく冷ましてくれる冷水なる愛」とは何か。
それは、自分しか知らない、人に見られていない頑張りを自分で認めてあげるということだ。
つまり、正義の熱に水をかけるナメた態度には、冷徹な心で不機嫌になることだ。
不機嫌になって、それを態度で感情にまかせてただまき散らすのは「ブチ切れた」のと同じ。自分の感情だけで打ち立て正義は長続きしないのが理。しかも、
これでは罪悪感を心に植え付けるだけで、絶やしてならないその正義の熱を消してしまいかねない。それでは失敗だ。
具体的には、自分の感情を理性で「ダメだ、ダメだ」と否定したり、無理矢理押さえつけずに
その感情の波から自分が一歩引いて、
最初はただ眺めて、「そうだ、頑張ってきた。だがら今は怒ってもいいんだ」などと、
湧いてくる自分の感情を自然に流してその変化や成り行きを遠目から静かに見つめてやる。
こうすることで、
正義を貫いていたときの努力とか、辛さといものがそのまま肯定される体験へと結びついてくるのを
体験できてくるようになるものだ。
重要なのは、その、今自分が頑張ってきた正義は、聖書の隣人愛に基づくものだから、
イエスの正義も公生涯は十字架にかけられたのと同じくらいその価値がわからない人には
わからないけれども、
そこには十字架と同じくらい否定し難い価値があるということ。神の正義と愛に裏付けられた、まさに
隣人のために心を砕いてここまで打ち立ててきた大事なものがそこにあるのだ。
その価値を「お人好し」と馬鹿にされようものなら大いに怒って結構。
不機嫌になって結構!!<( ̄ロ ̄*)
真の正義にかける情熱を馬鹿にされたことに対しては、自信を持って
冷徹な態度で不機嫌になろう!
自分に、最も近い隣人は自分自身だ。
そしてそのような隣人が必要とする最も基本的なことは、
その声を聞くことだ。
ただお願い事を全部聞くことだけでなく、
もっと手間の姿勢として、話をまず聞いてやることが大切で
それには心の声にも
当然きちんと耳を傾けてあげることが含まれる。
それは正義と愛だ。
聖書的な神様は愛だが、同時に正義でもある。
教会のメッセージはとりわけ愛について語りがちだが、これのせいで多くの人が神は「愛だけ」だと
錯覚していないだろうか。
ちょうだい、ちょうだい。私を愛して頂戴。
愛されることばかりに偏った信仰心は必ずと言っていいほど堕落した人を作る。
(1)自分の正義がむなしく思えてくるとき
ところで、私はどちらかというより愛より正義の傾向が強い。
教会で奉仕するのも、仕事で休日出勤を買って出るのも、愛というよりは正義感で動く傾向があると思う。
長年この傾向を続けてきて、ここで一旦距離を自分から引いて、遠いところから自分を見てみると
正義感を利用する輩に対するフラストレーションの蓄積がここへ来て
噴火寸前まで来ているように思えた。これを「正義疲れ」と言うことにする。
このような経験をした人は少ないと思う。
大抵の人が、ここで爆発して積み上げてきた事を切らして台無しにしてしまう。
(2)正義の性質には2種類ある
正義の性質には2種類ある。
一つは、自分が立て上げた正義。もう一つは、神が立て上げた正義だ。
前者は、立て上げた者が居なくなったり止めてしまったりすると全くの無になってしまうが、
後者は、立て上げた者が居なくなったり止めたりしても、それは残り輝きを失わない。
(3)ブチ切れてしまう、その前に。
正義疲れでストレスフルな時は、自分が積み上げてきたものが何なのかを冷静に見ることができない。
が、それまで積み上げてきた正義は誰が積み上げてきた正義なのかを冷静に見つめてみる。すると、
例えばそれが「聖書に書いてあるから」という純粋な理由から来ていたとしたら、
今、自分がどんなにフラストレーションのたまっている状態であっても、
それはまぎれもなく、神が立てた正義と言える。
神が立てた正義とは、つまり本物の正義。
その正義の根拠を知らない人は、その正義を「お人好し」として笑うだろう。
自分も、周りに散々利用されてきた自分に対して、怒りに身が震えるほど悔しいかもしれない。
しかし、冷静に、瞑想をし、いったんその感情を静かに泳がせててあげて、
心の中で感情の波が穏やかになってきたところでその目線を
聖書的な学びで得た知恵の目、すなわち神の目線に置き換えて見てみる。
すると、どんな悪人にも利用の扉が開かれていて、しかもそれは手抜きなしで
これまで頑張って自分が神の戒めを守るというただ一点で育ててきた本物の正義というものの
天の輝きを見ることができる。
くらい朽ちることの無い、永遠の性質を帯びた本物の正義の輝きは、
今、まだこの手の中で輝いている。
顔は今にもフラストレーションでブチ切れて爆発しまいそうだ。
しかし、そのこの手の中の天の輝きを放つ本物の正義は、そんな私であっても、いや
こんな弱い私であっても私の強さの証しとして日々、着々と私の手の中で積み上がり、
今や誰もが認める正義となっている。
(4)一度、正義という熱湯を取り出し、自分に向けた愛という名の冷水と共に注ぎ直しながら、積み上げてきた正義を心の器に戻す
人ひとりを養うのに必要なもの。
それは正義と愛だ。
タルムードには、
「ある王が空の茶碗を持っていた。これに熱湯を入れれば割れるだろうし、冷水を注げば縮むに違いない。
そこで王はどうしたかというと、熱湯に冷水を混ぜ合わせて茶碗に注いだところ、大丈夫だった。
同様に、ほむべき聖なるお方も仰せられた。『愛だけをもって世界を作ったのでは罪がはびこるだろうし、正義だけをもって造ったのでは永くはもつまい。だから、両方をもって世界を造るとしよう。永久に続いてくれることを願いたい』」
と、人には正義も愛も、バランスよく必要であることが示されている。
今、馬鹿にされたように思える正義は熱湯のようである。
その正義はどうしてこれまで耐えられてきたか。それはそれが聖書の教えだからだ。
ならば同様に聖書に倣い、
熱湯のような正義を感情の爆発するままに捨ててしまうのでなく、
一度、それを熱湯のまま取り出し、冷水のごとく熱気を優しく冷ましてくれる愛と共に注ぎ直し
心の器に戻してみる。
すると、心の器はそのままに、正義の情熱が冷水と調和して見事に冷まされ器に収まり大丈夫になる。
(5)冷水なる愛とは何か
「正義の熱を優しく冷ましてくれる冷水なる愛」とは何か。
それは、自分しか知らない、人に見られていない頑張りを自分で認めてあげるということだ。
つまり、正義の熱に水をかけるナメた態度には、冷徹な心で不機嫌になることだ。
不機嫌になって、それを態度で感情にまかせてただまき散らすのは「ブチ切れた」のと同じ。自分の感情だけで打ち立て正義は長続きしないのが理。しかも、
これでは罪悪感を心に植え付けるだけで、絶やしてならないその正義の熱を消してしまいかねない。それでは失敗だ。
具体的には、自分の感情を理性で「ダメだ、ダメだ」と否定したり、無理矢理押さえつけずに
その感情の波から自分が一歩引いて、
最初はただ眺めて、「そうだ、頑張ってきた。だがら今は怒ってもいいんだ」などと、
湧いてくる自分の感情を自然に流してその変化や成り行きを遠目から静かに見つめてやる。
こうすることで、
正義を貫いていたときの努力とか、辛さといものがそのまま肯定される体験へと結びついてくるのを
体験できてくるようになるものだ。
重要なのは、その、今自分が頑張ってきた正義は、聖書の隣人愛に基づくものだから、
イエスの正義も公生涯は十字架にかけられたのと同じくらいその価値がわからない人には
わからないけれども、
そこには十字架と同じくらい否定し難い価値があるということ。神の正義と愛に裏付けられた、まさに
隣人のために心を砕いてここまで打ち立ててきた大事なものがそこにあるのだ。
その価値を「お人好し」と馬鹿にされようものなら大いに怒って結構。
不機嫌になって結構!!<( ̄ロ ̄*)
真の正義にかける情熱を馬鹿にされたことに対しては、自信を持って
冷徹な態度で不機嫌になろう!
自分に、最も近い隣人は自分自身だ。
そしてそのような隣人が必要とする最も基本的なことは、
その声を聞くことだ。
ただお願い事を全部聞くことだけでなく、
もっと手間の姿勢として、話をまず聞いてやることが大切で
それには心の声にも
当然きちんと耳を傾けてあげることが含まれる。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/12549984
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック