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2018年05月14日

恵みを受け、恵みを与える



国王に対して一万タラントの借金をしていた人が、国王の憐みによってその一万タラントを許された。
でもその許された人は、100デナリの借金をしていた友人を許さず返すまで投獄した。
それを知って怒った国王は、その人の一万タラントの借金免除を取り消して同じように返すまで投獄した。

という聖書箇所の解説メッセージを聞きました。

一万タラントと100デナリの対比は、現在でいう6千万円に対して100円というのと同じです。
つまり、ここでの聖書箇所は、自分は6千万円の借金を免除されたのに、お前は友人の100円の借金が
許せないのかということを指摘しているのです。

この箇所は、次の部分の例として出ている個所でした。

18:21そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マルコ18:21〜22)


このときのペテロは自分がとても寛大な気持ちだったと思います。
当時の使途の間では、3回までは許しなさいと教えられていました。ですが
ここでは7回。この数字は、3の2倍でも寛大なのに、さらにもう1回おまけして与えたというのが
実際でしょう。
少なくとも、豆だったらそう考えると思います。

ですが、それに対してイエス様は、7の70倍までも許しなさいと教えています。
ですが、ここでの7の70倍とは490回という意味ではありません。
もし、490回許しても491回目にやったら許さなくて良いということは
それはどのようなことでしょうか。

491回目はどうなんだ?と聞く時点で
実はこれはおかしいのです。

490回もその人は許した回数をカウントしていたことになりますが、
それは1回だって許したことにはならないはずです。

「許す」とは「水に流す」こと。
つまり、忘れることです。

つまりイエス様がここでペテロに教えていることは、回数ではなく、
「忘れなさい」と言っているのです。

なぜならば、ペテロ、あなたはもう父なる神様に許されているではありませんか。と。

*****

ここまで理解が進むと、先ほどの一万タラントと100デナリの借金の許しの例の
内容が見えてきます。

神様の愛は、計り知れないほど大きなものです。

そもそも私たちには罪を許してもらえる資格すらありません。
だって、アダム以降から脈々と続く神様に対する罪を償うことなど
私たちにはできないではありませんか!

それでも神様は、私たちが主イエスを救い主と信じたときから
私たちに永遠の命を約束され、私たちのすべての罪を許してくださいました。

それほど計り知れない許しを受けているのに、
なぜ兄弟たちのちっぽけな罪が許せないのですか?
そんなもの忘れてしまいなさい。


そう、イエス様は聖書を通じて私たちに語りかけてくださっているのだと
豆はこのとき思いました。

*****

それでも私たちは、神様に許してくださいと祈りながら、
「でもあの人だけは許せない!」と、なかなか兄弟たちの罪が忘れられないものです。

ですからイエス様はここでも念を押して言われました。

18:18はっきり言っておきます。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれるのです。
(マタイ18:18)


ここで、「つなぐ」とは禁止すること。また「解く」とは許可することです。
これは主イエスが自分が死んだ後に使徒たちがどのように振舞えばいいかを教えている場面です。
このとき主イエス亡き後は、使徒たちが人々を導く、それがどういうことなのかをイエス様は
心配しておられました。

ですからここでイエス様は強調して、
「私は神以外の何物の奴隷にもならない。」というプライドを持てと
使徒たちに教えていたのです。

*****

さて、私たちは現在どのようなプライドを持っているでしょうか。
クリスチャンの持つべき正しいプライドは、今まさにイエス様が述べていた通り
「私は神以外の何者の奴隷にもならない。」というものです。

ですが、豆も含め、多くの兄弟たちは
人と比べ、妬む。
そのようなプライドを持っているのではないでしょうか。

それほど計り知れない許しを受けているのに、
なぜ兄弟たちのちっぽけな罪が許せないのですか?
そんなもの忘れてしまいなさい。


イエス様は先ほどそう言われましたね?
ちっぽけなプライドなど捨てなさいと。

それは何故かというと、
そのような自分というものに執着するさまざまなプライドを持っているせいで、
本来、この世のあらゆる束縛から解放された自由なクリスチャンライフが
満喫できなくなってしまうからです。

そんなもの忘れてしまいなさい。

この言葉はまさにそのような私たちの心の開放を促している言葉です。

2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、
何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって、自分を変えなさい。
(ロマ書12:1~2)


「この世」とは、「この時代」と訳します。
また、「合わせる」という動詞は、原文のギリシャ語では受動態の動詞が使われています。
受動態が使われているとき、その動作の主体は自分ではなく、自分の外にあるということです。

また、ここでは否定命令文が使われていて、英語で言うA but B、
「Aではない。Bである。」の論法になっています。

それらを踏まえるとここは、次のような意味の理解になります。つまり、

「この時代」が、何らかの意図を持ってこちらを操作しよう強烈にこちらに働きかけてくるけれど、
しかし、その意図に従ってはいけません。


ほら、ここでも時代の流れに流されるなという心の解放の教えが説かれています。
繰り返しますが、クリスチャンの立ち位置は

「私は神以外の何者の奴隷にもならない。」

その軸のみです。クリスチャンである私たちは
変化する時代の価値観ではなく、時代が変わっても変わらない聖書に立ち返ればいいのです。

聖書は神様の栄光の書。栄光とはプライドのことです。
それは、神様の預言は必ず成就するという
完全で、永遠な、この世界の真理です。
真理は、時代の環境や人の世論などで変わったりはしません。

私たちクリスチャンは、その変わらない真理によって、恵みによって
守られています。

だからこそイエス様は、
神様の愛の中にあるのだから、ちっぽけなプライドは捨てなさい。
自由になっていいんだよ〜
と言ってくださっているのです。

*****

私たちの肉の心では常に、誰が1番か、などと優劣のプライドを持っています。

(正):私は神以外の何物の奴隷にもならない。
(違):人と比べる。妬む。

間違ったプライドを捨てることは、なんと難しいのでしょうか。
使徒たちですら、イエスの十字架による死を前にして
誰が一番偉い弟子であるかを競っています。

18:01そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:02そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 18:03言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:04自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
(マタイ18:01~04)


それに対してイエス様は、
そうではない。神の愛の中では皆、家族なのだ。愛されているという真理に、順番などあるだろうか。
と諭しています。

子どもは自分の弱さを知っているが故に、父親や母親に全幅の信頼を置いていなければ
生きていくことができません。子どもの頃に虐待を受けた人が大人になっても傷を引きずるのは
このためです。信頼してすがるしかなかったが故に、その傷はもの凄く深いのです。

このような、子どものような
自分の限界を知って、単純な信頼を持って神に近づくということ。
これがクリスチャンの基本姿勢です。

そもそも両親に子どもたちが信頼を置いている家庭では、
子どもたちの間に誰が一番だというふうな順位付けはありません。それは家族だからです。
おのおのがおのおのの特徴を認めることができ、互いに等しく愛に包まれて生活しているからです。

神の恵みを受けた人、つまり神の恵みがどれくらい大きなものかを受け入れた人は、
どんなに小さな価値のないと思えるようなものであっても、等しく、それを受け入れるようになります。
神様は誰に対してもその人に応じた最も必要な愛を恵みとして示されるだけです。
そこに、恵みの大小に関するプライドが論じられる余地はないハズです。

ですから、恵みにどれだけ応答でき、神のご計画の進展に協力したかが問われる天の御国では
子供のように自分を一番低くするものが、一番評価されるのです。
それは御子イエスの愛の性質に、愛に素直な子どもの性質が最も近いからです。

*****

まとめると、

恵みを受け、恵みを与えるその基本的な考え方は、
神様の愛から出ています。

そして、その愛をきちんと理解したならば、
その受けている神の神格(人で言う人格)を信頼しているが故に、
神様と同じように、兄弟たちに恵みを与えられるはずです。

このとき、
恵みを与える方は、神を信頼するというプライドのみしかなく、
恵みを与えられる方には、その恵みの大小を他人と比較するプライドは生じ得ません。

それは、赦し(=許し)についても同様です。
許すことは恵みを与えること。
神を信頼するプライドに立つならば、その与える恵みもそのプライドに沿って
ぐちぐち言うことなく、サッと忘れて水に流す恵みの形をとるはずです。

こうして私たちは信仰によって御子イエスの人格に近づくとき、
おのずとこの世の様々なプライドから解放され、大胆かつ自由に振舞うことが
できるようになります。

ですから私たちは

よく教理を学んで、まずよく知識を増やします。
そして、自分の心が神様が喜んでくれる状態かどうかを意識します。

あなたが御子イエスの人格に近づいていっているというプライドによって
自身の振る舞いが大胆、かつ自由になると、
その心が、あなたの周囲の人間関係に反映され
「この時代」などの環境の変化に関係なく、
いつも愛と喜びにあふれた生活を送れるようになります。


神の愛、すなわち、
あなたの「お心」ではなく神の「御心(みこころ)」に従って
もっと大胆に、
もっと自由に生きようではありませんか!

これが、クリスチャンライフの醍醐味です。


おしまい。


♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名: This Is Amazing Grace


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