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2018年05月12日

豆が思う、仏教とキリスト教の違い。

「なぜ、仏教からキリスト教へ移ったのですか?」

仏教が戒律ありきの頑張り信仰なのに対し、
キリスト教はイエス・キリストを救い主と受け入れることで始まる
非頑張り信仰だからです。

日本人は、頑張った結果、幸せになるのが好きです。
とりわけ頑張った結果、人より良い思いをしたいと思う傾向が
最近は特に強くなりました。

豆が、頑張り信仰は駄目だと思う理由は2つです。

まず1つ目。
人間は、頑張ってできることなどはこの世にほんの少ししかないと思うからです。

「私は無神論者です。」という現実主義の人はおそらく、
自分の限界と向き合った経験がないか、
論理的な神学的な観点を
非論理的なスピリチュアルな世界と勘違いしているのだと思います。


そして2つ目。
頑張り信仰の人たちには、自分に執着し過ぎな人、すなわち、
自己中心的が多すぎるからです。


*****

ここで、未信者のクリスチャンに対する誤解をいくつか紹介します。

教会に来るクリスチャンのようなふりをしている人たちは皆、
神様をご利益がもらえるものだと勘違いしています。

天の父なる神様は、確かに一方的に恵みを私たちに注いでくださいますが、
それは福音の三要素を信じたクリスチャンだけです。(※1)

ご利益信仰の神様は、すべての人に対して門を開き、
かつ誰でもそこにいくとご利益がもらえる神様です。
しかし、
キリスト教の神様は、すべての人に対して門を開いてはいますが、
イエス・キリストを救い主と受け入れていない人の願いは受け入れません。

クリスチャンに対しても多くの人が誤解をしています。

例えば、クリスチャンになったら毎日が必ずハッピーになる訳ではありません。
それどころか、精霊の働きによって不安や苦難は一層増えます。

また神様も恵みを一方的に与えてはくれていますが、
私たちがその恵みを実感するためには、神様の恵みに応答しなくてはなりません。

そして、その神様の恵みは、クリスチャンに内住する精霊の働きがあって
私たちがはじめて応答できるものです。
この精霊はとても紳士であるので、私たちの自由意志をとても尊重います。
逆に言って、少しでも私たちに我の思いがあれば、精霊はそれを尊重して後ろに隠れてしまいます。

精霊が隠れてしまうと私たちは恵みに応答することができません。

不幸にも、私たちが本当に神様を信頼し、どうか神様〜!と祈る心境にならなければ、
精霊は私たちのために働くことができないのです。

私たちが神様にすがるときはどういうときですか?
私たちが神様に祈るときは決まって、自分ではどうにもならない間違いを犯してしまったときです。

*****

聖書で神様の基準を学ぶと、本当に豆たちは
生かされているんだなぁ〜ということを感じずにはいられません。

聖書が教えている神様の基準は、完全でかつ永遠のものです。
完全かつ永遠は、正義であり、真理です。

ですから、
聖書的基準で生きることは、正義の基準で生きることと同じです。

ですが、この基準で物事を捉えることは、
クリスチャンといえど、なかなかできるものではありません。

もし、これが仏教なら、このような私たちにできないことが出てきたときに
「あなたは〇〇をしてきましたか?なぜしてこなかったのですか?」と、
できなかったことを指摘する説教がはじまります。

言われた人は、言われる度にできなかったことばかりに執着してしまいます。
当然、未来は暗〜くなります。

一方、クリスチャンであれば、そんなことはなりません。
イエス・キリストを救い主として受け入れれば、
その人は直ちに救われます。

できないことがあっても神様は責めません。
創造主である神様は私たち一人一人のことを髪の毛一本まで全てご存知なのです。
できないことを悲しむとき、神様はそれを憐れんでくださいます。
そして神の恵みを与えてくださいます。

どうですか?未来は、とても明るくなりますよね!


聖書理解が進むと、私たちはこれまでの過ちに対する気づきが起き、それによって
その都度悔い改めが生じます。
この悔い改めによって私たちは、その都度神の御子、イエス・キリストに近づくことができます。
それは結果として、神の基準が理解できる人格、
すなわち、完全で永遠な、正義の真理に基づく人格に、私たちの人格が作り変えられること、
それは、より精霊の声が聞こえやすく、神様の恵みに応答しやすくなるのです。

*****

福音の三要素を理解し、イエス・キリストを救い主と受け入れると、
ライフスタイルが、精霊の働きによって、非常に合理的かつ論理的な一貫したものへ
変わりはじめます。

また、イエス・キリストを救い主と受け入れた途端、
神様というものが、とても身近な存在になります。
これは非常に心強いものです。

豆が仏教の頃は、自分を戒めるばかりで生活に潤いがありませんでした。

ですが、神様と出会って、イエス・キリストを救い主と受け入れてからは、
神様との平和のもと、とても開放的な生活になりました。

聖書には、洗礼を受けなければ救われないとは
どこにも書かれていません。
書かれている救いの条件は、福音の三要素を受け入れているかどうかだけです。


もし、少しでも生き方に軸が欲しい思ったならば、
変なプライドは捨てて、素直に神様の招きに応答してみるのが良いと思います。

あなたにも、神様の招きが聞こえますように。



おしまい。

♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名:Blessed Be Your Name


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【注釈】
※1・・・福音の三要素(過去の記事を参照

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