2018年05月08日
豆が感じた、クリスチャンとしての最初の苦しみ
ある起業研究会で知り合った女性との会話の中で、
豆が聖書について学んでいることに触れたときのこと。
「聖書にこう書いてあったらそれをやるんですか。」
「はい、できる限りそうありたいと望んでいます。」
すると彼女は突然ムッとして
「それではあなたの自由意志はどこにあるんですか?私はそんなの嫌です!」
と言われてしまいました。
当時、豆は心惹かれていた女性であったこともあって大変なショックで、
言われた直後は「確かにそうだなぁ〜」とも思ってしまいました。
*****
でも、聖書の理解が進んだ今では違います。
教会に行くようになる前の豆は、ちょうど個人のネットビジネスが流行り出した頃で、
豆も会社員では駄目だと焦っていた、世間の律法の奴隷だったと言えます。
その意味では彼女も同じ、世間の律法の奴隷でした。
世間の律法とは、彼女たちが言うところの常識や、文化や思想、働き方の流行などのことです。
ですが、聖書と出会ってからの豆は、精霊の内住を受け入れたことによって
この、世間の律法から自由になりました。
このことよって、あの時には既に
仕事をする目的も、お金を稼ぐ目的も、
その他もろもろの生きる目的が変わり始めていたのです。
おそらく彼女には、神様に喜んで自発的に奉仕することの喜びなど
理解できるはずがなかったでしょう。
これが、豆が最初に感じた
クリスチャンとしての苦しみでした。
*****
奴隷によく似た言葉で聖書には「しもべ」という言葉があります。
ですがこの言葉は世間一般に言われる「下僕」の意味ではなく、逆説的言葉です。
彼女は豆が自由意志を放棄したように言いましたが、それは全くの間違いです。
むしろクリスチャンになることはその逆で、自由意志がなければ神様からの
様々な恵みを受け取ることができません。
イエス・キリストを信じるようになるということは、神様の恵みによって信者の状態が
次のような状態に変えられることです。
1.最も低いところに降ろされたように見えて、最も高いところに上げられています。
→神様によって救われるべき人がすべて救われきったときに(携挙)、天に上げられることが
約束されているため。
2.最も不自由になったように見えて、最も自由です。
→霊的に一度死に、この世の律法からは完全に解放されるため。
3.最も弱くされたたように見えて、最も強い存在です。
→神様と和解できている、精霊の恵みがある、神様との平和、復活が約束されている、真実の愛が何であるかを理解している・・・etc。つまり、様々な希望を持っているから。
4.迫害されているように見えて、最も愛されています。
→万物の創造主に愛されている存在だから。
つまり、クリスチャンにとって神の「しもべ」になることは、
大変な喜びなのです。
一般的にクリスチャンになる過程では、次の3つの事が起こります。
1.神学的教理を理解し、世間の律法から解放される
2.自由になる。
3.よく神様の恵みを吟味した上で、自ら選択して福音の三要素を受け入れる。
彼女は自由意志がないと言いましたが、実際はこのように、
1で世俗的な一切のしがらみから解放され、と同時に2の真に自由の状態になり、そこから
3ので自由意志がしっかりと働いている訳です。
ですが、悲しいことに、クリスチャンでない人にこのことを理解してもらうためには、
このことを説明しなくてはなりません。
これが、一般に福音伝道が難しいと言われる理由です。
*****
さて、ここまでで一般の人たちとクリスチャンの世界観の違いが
わかっていただけたでしょうか。
冒頭のように、クリスチャンとして成熟してくると、
必ずと言っていいほどにこの世界観同士のギャップによって
苦難が訪れるようです。
ですがその苦難は、クリスチャン同士が励まし合い、
より強い信仰に立つチャンスです。
その苦難が神様さまのご計画の一部であるならば、
必ず、内なる精霊が働かれて神様の恵みを届けてくれます。
そのときに豆たちの目がしっかりと開かれていれば、
きっとその苦難は乗り越えられるはずです。
こんな豆でも、この体験を教会で証(あかし)して
自分だけでは絶対に出会えないような素晴らしい人たちとの絆ができました。
教会は人財の宝庫です。
神様の恵みと、十分な協力者がいれば、
どんなことでも喜んでいける気がします。
これを読んでくださっているあなたが今
豆と同じように試練の中にいるならばメッセージをください。
豆と、たくさんの豆のお友達が、
あなたのところへ励ましを届けます!
おしまい。
豆が聖書について学んでいることに触れたときのこと。
「聖書にこう書いてあったらそれをやるんですか。」
「はい、できる限りそうありたいと望んでいます。」
すると彼女は突然ムッとして
「それではあなたの自由意志はどこにあるんですか?私はそんなの嫌です!」
と言われてしまいました。
当時、豆は心惹かれていた女性であったこともあって大変なショックで、
言われた直後は「確かにそうだなぁ〜」とも思ってしまいました。
*****
でも、聖書の理解が進んだ今では違います。
教会に行くようになる前の豆は、ちょうど個人のネットビジネスが流行り出した頃で、
豆も会社員では駄目だと焦っていた、世間の律法の奴隷だったと言えます。
その意味では彼女も同じ、世間の律法の奴隷でした。
世間の律法とは、彼女たちが言うところの常識や、文化や思想、働き方の流行などのことです。
ですが、聖書と出会ってからの豆は、精霊の内住を受け入れたことによって
この、世間の律法から自由になりました。
このことよって、あの時には既に
仕事をする目的も、お金を稼ぐ目的も、
その他もろもろの生きる目的が変わり始めていたのです。
おそらく彼女には、神様に喜んで自発的に奉仕することの喜びなど
理解できるはずがなかったでしょう。
これが、豆が最初に感じた
クリスチャンとしての苦しみでした。
*****
奴隷によく似た言葉で聖書には「しもべ」という言葉があります。
ですがこの言葉は世間一般に言われる「下僕」の意味ではなく、逆説的言葉です。
彼女は豆が自由意志を放棄したように言いましたが、それは全くの間違いです。
むしろクリスチャンになることはその逆で、自由意志がなければ神様からの
様々な恵みを受け取ることができません。
イエス・キリストを信じるようになるということは、神様の恵みによって信者の状態が
次のような状態に変えられることです。
1.最も低いところに降ろされたように見えて、最も高いところに上げられています。
→神様によって救われるべき人がすべて救われきったときに(携挙)、天に上げられることが
約束されているため。
2.最も不自由になったように見えて、最も自由です。
→霊的に一度死に、この世の律法からは完全に解放されるため。
3.最も弱くされたたように見えて、最も強い存在です。
→神様と和解できている、精霊の恵みがある、神様との平和、復活が約束されている、真実の愛が何であるかを理解している・・・etc。つまり、様々な希望を持っているから。
4.迫害されているように見えて、最も愛されています。
→万物の創造主に愛されている存在だから。
つまり、クリスチャンにとって神の「しもべ」になることは、
大変な喜びなのです。
一般的にクリスチャンになる過程では、次の3つの事が起こります。
1.神学的教理を理解し、世間の律法から解放される
2.自由になる。
3.よく神様の恵みを吟味した上で、自ら選択して福音の三要素を受け入れる。
彼女は自由意志がないと言いましたが、実際はこのように、
1で世俗的な一切のしがらみから解放され、と同時に2の真に自由の状態になり、そこから
3ので自由意志がしっかりと働いている訳です。
ですが、悲しいことに、クリスチャンでない人にこのことを理解してもらうためには、
このことを説明しなくてはなりません。
これが、一般に福音伝道が難しいと言われる理由です。
*****
さて、ここまでで一般の人たちとクリスチャンの世界観の違いが
わかっていただけたでしょうか。
冒頭のように、クリスチャンとして成熟してくると、
必ずと言っていいほどにこの世界観同士のギャップによって
苦難が訪れるようです。
ですがその苦難は、クリスチャン同士が励まし合い、
より強い信仰に立つチャンスです。
その苦難が神様さまのご計画の一部であるならば、
必ず、内なる精霊が働かれて神様の恵みを届けてくれます。
そのときに豆たちの目がしっかりと開かれていれば、
きっとその苦難は乗り越えられるはずです。
こんな豆でも、この体験を教会で証(あかし)して
自分だけでは絶対に出会えないような素晴らしい人たちとの絆ができました。
教会は人財の宝庫です。
神様の恵みと、十分な協力者がいれば、
どんなことでも喜んでいける気がします。
これを読んでくださっているあなたが今
豆と同じように試練の中にいるならばメッセージをください。
豆と、たくさんの豆のお友達が、
あなたのところへ励ましを届けます!
おしまい。
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