2018年05月04日
豆、祝福の三要素を信じる
クリスチャン生活で、神様からの祝福を受けるためには次の3つを信じることが必須です。
1.イエス・キリストが人類の罪のために十字架にかかり死なれた。
2.イエス・キリストがお墓に葬られた。
3.イエス・キリストが3日目に復活された。
旧約、新約両の聖書を読んだ豆は、1つ1つについて考えました。
以下はその軌跡です。
*****
人類の罪の始まりは悪魔によるアダムの堕落でした。
羞恥の心を覚えたアダムとエバに神様が皮の衣を授けたとき、
世界に初めて動物の血が流され、同時に世界に死というものが生まれたそうです。
人類の出発点がアダムである以上、私たちはアダムの子孫です。
私たちは今でもいずれ死にますが、それは私たちがアダムの子孫であり、
アダムの持つ罪の性質を受け継いでいる証拠でもあります。
神様はご自分のご計画の中で、罪を犯してしまった人類に怒りながらも
その罪をも予見され、人類の救いの道をあらかじめ用意しておられました。
それが、御子イエスの十字架による死でした。
かつて人類は、罪を犯した際の神様との和解には生贄が必要でした。
旧約の時代には生贄として牡牛などの動物が捧げられていました。
しかし、動物の死では罪を覆い隠すことはできても、罪を許されることはありませんでした。
人類がいくら生贄をささげても、人類が神様と和解できることはなかったのです。
一方、イエス・キリストは神様の御子なので神様です。
神様なので、アダムや私たちのように罪の性質はありません。
ですから、死の性質も持っておられないのです。
しかし、イエス・キリストは父である主が人類の救いの道を用意していることを知り、
その御心に従って、自らが死の性質をまとい、人類の犠牲になるために
人の形でこの世界に来てくださいました。
人として生まれ、人の人生を歩むことでイエス・キリストは人類の不完全さを理解されました。
そして主の御心に従ってご自分の命をささげるときに、罪を犯してしまう人類を憐れみ、
深い愛で私たちのために祈ってくださいました。
それで主である神様はイエス・キリストの十字架の死を境に人類の罪を許されました。
そのような訳で、今日のクリスチャンは
洗礼を受けると同時に全ての罪を許されるようになったのです。
*****
聖書は神様の言われたことは必ず成就するという、
過去から未来における主の栄光の実歴史書であると同時に
悪魔サタンとの戦いの歴史でもあります。
かつてサタンは、エバを誘惑してアダムに罪を犯させたことで
神の被造物であるこの世界の秩序を壊し、地上の実験を握りました。
聖書の歴史はまさに、このサタンから奪われたものを取り返す
主、ご自身の権威のプライドをかけた戦いなのです。
現在の地上の秩序は、悪魔サタンの支配する滅びの秩序です。
サタンは今も、神様の作ったものを滅ぼそうとしています。
もちろん、被造物である人類も例外ではありません。
ここで話を現実のものに置き換えてみます。
地球の異常気象から温暖化、奇形生物の増加、人類の肉体・精神の病気の増加など
神様やサタンやらを無視したとしても、
世界が滅びに向かっているのは間違いないようです。
命あるものが必ず死ぬという原則も変わっていません。
そのように見ていくと、聖書に書かれていることは本当の事だという
確信に近づいていくように思えます。
神様やサタンなんて存在するはずがない。
私たちはまずそのように考えます。
神様の栄光とは、神様の計画は必ず成就されるということです。
そして、聖書はこの神様の栄光を体験した人間たちがそれを記録したものです。
では、同じ人間が書いた、同じ聖書の箇所を読んでいるのに、
人によってそれぞれ違った解釈が出てくるのはなぜでしょう。
それは、神様のご計画を人間が完全に理解することなど不可能だからです。
更に言えば、
人間のレベルで神様について論じること自体が間違っています。
それは人間の次元を遥かに超えているからです。
聖書には神様から当時の人々が聞き取った預言が書かれています。
ですから、聖書をきちんと理解するならば、
まず、できる限りそれが書かれた当時のへブル的解釈で意味を読み取るべきです。
そして、そのようにして丁寧に読み解いていくと、
預言が必ず成就しているという歴史、つまり、神様の栄光の軌跡が
見えてくる人と見えてこない人に分かれます。
ここで、僕と同じように聖書に出てくる神様の栄光の軌跡のことを
嘘にしては精巧過ぎると思えてきたら、
その人は神様が招いておられる救われるべき人です。
「人間のレベルでは理解できないことが、この世界では起こっているんだ。」
これが腑に落ちてくると、聖書に対する理解が深まります。
そして神様や精霊、イエス・キリストを受け入れられるようになると、
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、自然に祈ることができるようになります。
これは私たちクリスチャンが
常に神様の恵みにアクセスしている状態にあるという、
クリスチャン生活の信仰において最も基本的で重要な部分だと思います。
そして聖書を読み進めていくと、聖書における私たちのゴールは、
神の被造物が創造された当時と同じ完全な状態に復活し一度天に上げられる携挙と、
その後サタンから地上の権威を取り戻し、再び天地が神様の完全な秩序の下に置かれた千年王国への再来
であることがわかります。
人のレベルで携挙や千年王国のことを理解することはできません。
ですが、正しく信仰が持てるようになれば、人の信じる、信じないのレベルに関係なく
それが真理だと理解できるようになっているはずです。
クリスチャンにとって携挙や千年王国は
イエス・キリストと同じように自分たちが復活した後の希望です。
彼らはこの世の生活が携挙以前の一時的なものであることを知っています。
彼らにはそのような希望がいつもあるので、
普段の生活における如何なる不安や試練も、
恵みによって乗り越えることができると互いを励まし合うことができるのです。
これが、クリスチャンがいつも幸せそうな顔をしている理由です。
このような訳で、豆は福音の三要素を信じることができるようになりました。
おしまい。
1.イエス・キリストが人類の罪のために十字架にかかり死なれた。
2.イエス・キリストがお墓に葬られた。
3.イエス・キリストが3日目に復活された。
旧約、新約両の聖書を読んだ豆は、1つ1つについて考えました。
以下はその軌跡です。
*****
人類の罪の始まりは悪魔によるアダムの堕落でした。
羞恥の心を覚えたアダムとエバに神様が皮の衣を授けたとき、
世界に初めて動物の血が流され、同時に世界に死というものが生まれたそうです。
人類の出発点がアダムである以上、私たちはアダムの子孫です。
私たちは今でもいずれ死にますが、それは私たちがアダムの子孫であり、
アダムの持つ罪の性質を受け継いでいる証拠でもあります。
神様はご自分のご計画の中で、罪を犯してしまった人類に怒りながらも
その罪をも予見され、人類の救いの道をあらかじめ用意しておられました。
それが、御子イエスの十字架による死でした。
かつて人類は、罪を犯した際の神様との和解には生贄が必要でした。
旧約の時代には生贄として牡牛などの動物が捧げられていました。
しかし、動物の死では罪を覆い隠すことはできても、罪を許されることはありませんでした。
人類がいくら生贄をささげても、人類が神様と和解できることはなかったのです。
一方、イエス・キリストは神様の御子なので神様です。
神様なので、アダムや私たちのように罪の性質はありません。
ですから、死の性質も持っておられないのです。
しかし、イエス・キリストは父である主が人類の救いの道を用意していることを知り、
その御心に従って、自らが死の性質をまとい、人類の犠牲になるために
人の形でこの世界に来てくださいました。
人として生まれ、人の人生を歩むことでイエス・キリストは人類の不完全さを理解されました。
そして主の御心に従ってご自分の命をささげるときに、罪を犯してしまう人類を憐れみ、
深い愛で私たちのために祈ってくださいました。
それで主である神様はイエス・キリストの十字架の死を境に人類の罪を許されました。
そのような訳で、今日のクリスチャンは
洗礼を受けると同時に全ての罪を許されるようになったのです。
*****
聖書は神様の言われたことは必ず成就するという、
過去から未来における主の栄光の実歴史書であると同時に
悪魔サタンとの戦いの歴史でもあります。
かつてサタンは、エバを誘惑してアダムに罪を犯させたことで
神の被造物であるこの世界の秩序を壊し、地上の実験を握りました。
聖書の歴史はまさに、このサタンから奪われたものを取り返す
主、ご自身の権威のプライドをかけた戦いなのです。
現在の地上の秩序は、悪魔サタンの支配する滅びの秩序です。
サタンは今も、神様の作ったものを滅ぼそうとしています。
もちろん、被造物である人類も例外ではありません。
ここで話を現実のものに置き換えてみます。
地球の異常気象から温暖化、奇形生物の増加、人類の肉体・精神の病気の増加など
神様やサタンやらを無視したとしても、
世界が滅びに向かっているのは間違いないようです。
命あるものが必ず死ぬという原則も変わっていません。
そのように見ていくと、聖書に書かれていることは本当の事だという
確信に近づいていくように思えます。
神様やサタンなんて存在するはずがない。
私たちはまずそのように考えます。
神様の栄光とは、神様の計画は必ず成就されるということです。
そして、聖書はこの神様の栄光を体験した人間たちがそれを記録したものです。
では、同じ人間が書いた、同じ聖書の箇所を読んでいるのに、
人によってそれぞれ違った解釈が出てくるのはなぜでしょう。
それは、神様のご計画を人間が完全に理解することなど不可能だからです。
更に言えば、
人間のレベルで神様について論じること自体が間違っています。
それは人間の次元を遥かに超えているからです。
聖書には神様から当時の人々が聞き取った預言が書かれています。
ですから、聖書をきちんと理解するならば、
まず、できる限りそれが書かれた当時のへブル的解釈で意味を読み取るべきです。
そして、そのようにして丁寧に読み解いていくと、
預言が必ず成就しているという歴史、つまり、神様の栄光の軌跡が
見えてくる人と見えてこない人に分かれます。
ここで、僕と同じように聖書に出てくる神様の栄光の軌跡のことを
嘘にしては精巧過ぎると思えてきたら、
その人は神様が招いておられる救われるべき人です。
「人間のレベルでは理解できないことが、この世界では起こっているんだ。」
これが腑に落ちてくると、聖書に対する理解が深まります。
そして神様や精霊、イエス・キリストを受け入れられるようになると、
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、自然に祈ることができるようになります。
これは私たちクリスチャンが
常に神様の恵みにアクセスしている状態にあるという、
クリスチャン生活の信仰において最も基本的で重要な部分だと思います。
そして聖書を読み進めていくと、聖書における私たちのゴールは、
神の被造物が創造された当時と同じ完全な状態に復活し一度天に上げられる携挙と、
その後サタンから地上の権威を取り戻し、再び天地が神様の完全な秩序の下に置かれた千年王国への再来
であることがわかります。
人のレベルで携挙や千年王国のことを理解することはできません。
ですが、正しく信仰が持てるようになれば、人の信じる、信じないのレベルに関係なく
それが真理だと理解できるようになっているはずです。
クリスチャンにとって携挙や千年王国は
イエス・キリストと同じように自分たちが復活した後の希望です。
彼らはこの世の生活が携挙以前の一時的なものであることを知っています。
彼らにはそのような希望がいつもあるので、
普段の生活における如何なる不安や試練も、
恵みによって乗り越えることができると互いを励まし合うことができるのです。
これが、クリスチャンがいつも幸せそうな顔をしている理由です。
このような訳で、豆は福音の三要素を信じることができるようになりました。
おしまい。
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