2018年05月05日
豆、クリスチャン生活を学ぶ
神様を思うとき、豆は、自分の非力さを考えざるを得ません。
前回、(前回の内容はこちら)
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
という姿勢が、クリスチャン生活で最も重要だという話をしました。
よくあるクリスチャン生活にある誤解は、
クリスチャンになれば神様に祝福されて、迷いや苦難から解放され、毎日をハッピーな気持ちで
喜んで過ごせるというものです。
クリスチャンになると、肉の体の内に精霊が宿ります。
クリスチャンになるまでは、肉の体の声だけ聞いていれば良かったのですが、
クリスチャンになると、肉の体の声と、精霊の声の二つが聞こえてくるようになります。
肉の体、すなわち自分の声は、自分の感情からくる自己中心的な観点でものを言いますが、
精霊は神様が喜ばれることは何かという観点で声を発するので、
クリスチャンの内側では、この二つの声の衝突が多々起こります。
このような訳でクリスチャン生活には、クリスチャンになる前の生活より多くの
様々な不安や、試練や、疑いが襲ってきます。
自分一人で歩いていけるわけないんです。
ですからクリスチャンたちは教会に集い、お互いを励まし合うのです。
ここに教会の存在意義と、クリスチャンでしか得られない喜びがあるのです。
*****
一方、クリスチャンでない人たち、あるいは一部のクリスチャンの中には、
何でも自分でやろうとする人がいます。
特に信者になりたてのクリスチャンに多い例を挙げます。
洗礼を受けた後
「よし!頑張ろう!」と決意して、
神様の御言葉に従って生きようと頑張ります。
しばらくして彼らはこんなふうに呟き始めます。
「何だか、祝福されている気がしないなぁ〜」
そして、彼らはどんなに一生懸命御言葉に従っても、
ちっとも祝福されたり、天の恵みを感じられないことに悩み、
やがて、教会から離れて行ってしまうのです。
これは、特に日本人クリスチャンに多く見られるようです。
日本人クリスチャンはとても真面目な方が多いです。
頑張るところも日本文化の美学なのでしょうがないのかもしれません。
しかし、この「頑張る」という頑な(かたくな)になる性質が
クリスチャンとしての成長を妨げることを知っているクリスチャンは
ほとんどいないのではないでしょうか。
*****
ここからは、豆の学びを分かち合わせてください。
さて、御子イエス・キリストが十字架で死なれたとき、
神様はご自分から人類に対する態度を変えられました。
生まれてから十字架に掛けられて死ぬまで
人としてイエス・キリストは、人の苦しみや悲しみをわからない神ではありません。
その神が死ぬ直後に私たちのために祈るのをご覧になった天の父なる神様は
人を憐れみ、自ら私たちのそれまでの罪を許し、そして祝福してくださるようになりました。
ですから私たちが天から与えられる恵みは、神様からの一方的なプレゼントなのです。
一方、日本の真面目なクリスチャンたちは、それを受取ろうとはせず、
自分の努力によって乗り越えようとします。
努力することは日本人の美徳なのですが、この場合は間違いです。
心がこのように頑なになっていては、そのような恵みに対してアクセスすることができないのです。
頑なな彼らは新しい信者に向かっても「良かったね、頑張ろうね」といいます。
でもそれは間違ったアドバイスです。それではますます頑なな人を増やすだけです。
真面目な人ほど、クリスチャンになっても神様から祝福されている感覚がわからないといいます。
それで、最初は熱心に通っていたけれど、救われている感覚がないのでやっぱり信じられないという流れになり、
だんだんとその足が教会から離れていくのです。
もうお分かりのことと存じますが、それはその人たちが頑なだからです。
祝福や恵みは天から一方的に与えられているものです。努力で勝ち取るものではないのです。
神様は憐れみ深い方です。
神様は私たちの髪の毛1本までご存知です。ですから今更できないことを責めたりはしません。
むしろ、素直に
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、祈ってきてくれるのを待っています。冒頭で重要だと言ったのはこのためです。
このように言うと、人間が如何に無力で罪深いかを強調して、悲しませて救いを求めさせようとする教会が正しいかのように思えるかもしれませんが、それは信仰ではなくカルトです。
信仰は、未だ体験していないけれど、それが真実だと信じることです。
信仰に、感じる、感じないとかいうその人の心の状態は関係ありません。
水を最後に発見するのは魚だと言われるのと同じことです。
人類が空気を発見するのにも大変な時間がかかりました。ですが、
魚の周りには水が、人間の周りにも空気が、いつも存在していました。
これと同じで、私たちの周りに神様の恵みはいつも存在しているのです。
ですから、先ほどの新しい信者に対しても
「良かったね、これからも恵みに頼ろうね」というのが、正しいアドバイスなんです。
ちなみに恵みはギリシャ語で「カリス」、精霊の賜物は「カリスマ」と言います。
「あの人はカリスマ性がある」という言葉があります。
あのカリスマ性とは超自然的な資質のことで、
それはこの「カリスマ」から来ているのです。
カリスマ性のある人が「俺はカリスマ性がある」なんて言いませんよね?
そう、カリスマとは本人は意識していなくとも常に
そこに「恵み」としてその人に与えられているものなのです。
カリスマ性のある人は、与えられたその恵みを自分のものとして受け取り、
体験している人です。
何だかよくわからないけれど、自信があふれているように見えるのは、
彼が恵みにアクセスし、超自然的な力の後押しを感じて
これならきっとできるという確信を得ているからなのです。
このように恵みというのは、信者を祝福し、守り、支える、超自然的な神の御手です。
一方的な、神様からのプレゼントなのです。
結局、成熟したクリスチャンかどうかとうのは
この恵みを自分の物として受け取り、体験しているかどうかです。
豆も、
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、素直に祈れるようになりたいです。
おしまい。
前回、(前回の内容はこちら)
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
という姿勢が、クリスチャン生活で最も重要だという話をしました。
よくあるクリスチャン生活にある誤解は、
クリスチャンになれば神様に祝福されて、迷いや苦難から解放され、毎日をハッピーな気持ちで
喜んで過ごせるというものです。
クリスチャンになると、肉の体の内に精霊が宿ります。
クリスチャンになるまでは、肉の体の声だけ聞いていれば良かったのですが、
クリスチャンになると、肉の体の声と、精霊の声の二つが聞こえてくるようになります。
肉の体、すなわち自分の声は、自分の感情からくる自己中心的な観点でものを言いますが、
精霊は神様が喜ばれることは何かという観点で声を発するので、
クリスチャンの内側では、この二つの声の衝突が多々起こります。
このような訳でクリスチャン生活には、クリスチャンになる前の生活より多くの
様々な不安や、試練や、疑いが襲ってきます。
自分一人で歩いていけるわけないんです。
ですからクリスチャンたちは教会に集い、お互いを励まし合うのです。
ここに教会の存在意義と、クリスチャンでしか得られない喜びがあるのです。
*****
一方、クリスチャンでない人たち、あるいは一部のクリスチャンの中には、
何でも自分でやろうとする人がいます。
特に信者になりたてのクリスチャンに多い例を挙げます。
洗礼を受けた後
「よし!頑張ろう!」と決意して、
神様の御言葉に従って生きようと頑張ります。
しばらくして彼らはこんなふうに呟き始めます。
「何だか、祝福されている気がしないなぁ〜」
そして、彼らはどんなに一生懸命御言葉に従っても、
ちっとも祝福されたり、天の恵みを感じられないことに悩み、
やがて、教会から離れて行ってしまうのです。
これは、特に日本人クリスチャンに多く見られるようです。
日本人クリスチャンはとても真面目な方が多いです。
頑張るところも日本文化の美学なのでしょうがないのかもしれません。
しかし、この「頑張る」という頑な(かたくな)になる性質が
クリスチャンとしての成長を妨げることを知っているクリスチャンは
ほとんどいないのではないでしょうか。
*****
ここからは、豆の学びを分かち合わせてください。
さて、御子イエス・キリストが十字架で死なれたとき、
神様はご自分から人類に対する態度を変えられました。
生まれてから十字架に掛けられて死ぬまで
人としてイエス・キリストは、人の苦しみや悲しみをわからない神ではありません。
その神が死ぬ直後に私たちのために祈るのをご覧になった天の父なる神様は
人を憐れみ、自ら私たちのそれまでの罪を許し、そして祝福してくださるようになりました。
ですから私たちが天から与えられる恵みは、神様からの一方的なプレゼントなのです。
一方、日本の真面目なクリスチャンたちは、それを受取ろうとはせず、
自分の努力によって乗り越えようとします。
努力することは日本人の美徳なのですが、この場合は間違いです。
心がこのように頑なになっていては、そのような恵みに対してアクセスすることができないのです。
頑なな彼らは新しい信者に向かっても「良かったね、頑張ろうね」といいます。
でもそれは間違ったアドバイスです。それではますます頑なな人を増やすだけです。
真面目な人ほど、クリスチャンになっても神様から祝福されている感覚がわからないといいます。
それで、最初は熱心に通っていたけれど、救われている感覚がないのでやっぱり信じられないという流れになり、
だんだんとその足が教会から離れていくのです。
もうお分かりのことと存じますが、それはその人たちが頑なだからです。
祝福や恵みは天から一方的に与えられているものです。努力で勝ち取るものではないのです。
神様は憐れみ深い方です。
神様は私たちの髪の毛1本までご存知です。ですから今更できないことを責めたりはしません。
むしろ、素直に
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、祈ってきてくれるのを待っています。冒頭で重要だと言ったのはこのためです。
このように言うと、人間が如何に無力で罪深いかを強調して、悲しませて救いを求めさせようとする教会が正しいかのように思えるかもしれませんが、それは信仰ではなくカルトです。
信仰は、未だ体験していないけれど、それが真実だと信じることです。
信仰に、感じる、感じないとかいうその人の心の状態は関係ありません。
水を最後に発見するのは魚だと言われるのと同じことです。
人類が空気を発見するのにも大変な時間がかかりました。ですが、
魚の周りには水が、人間の周りにも空気が、いつも存在していました。
これと同じで、私たちの周りに神様の恵みはいつも存在しているのです。
ですから、先ほどの新しい信者に対しても
「良かったね、これからも恵みに頼ろうね」というのが、正しいアドバイスなんです。
ちなみに恵みはギリシャ語で「カリス」、精霊の賜物は「カリスマ」と言います。
「あの人はカリスマ性がある」という言葉があります。
あのカリスマ性とは超自然的な資質のことで、
それはこの「カリスマ」から来ているのです。
カリスマ性のある人が「俺はカリスマ性がある」なんて言いませんよね?
そう、カリスマとは本人は意識していなくとも常に
そこに「恵み」としてその人に与えられているものなのです。
カリスマ性のある人は、与えられたその恵みを自分のものとして受け取り、
体験している人です。
何だかよくわからないけれど、自信があふれているように見えるのは、
彼が恵みにアクセスし、超自然的な力の後押しを感じて
これならきっとできるという確信を得ているからなのです。
このように恵みというのは、信者を祝福し、守り、支える、超自然的な神の御手です。
一方的な、神様からのプレゼントなのです。
結局、成熟したクリスチャンかどうかとうのは
この恵みを自分の物として受け取り、体験しているかどうかです。
豆も、
「自分にはできない。でも、させてほしい。だから神様、どうか私を運んで行ってそれをさせてください。」
と、素直に祈れるようになりたいです。
おしまい。
タグ:イエス・キリスト
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/7624150
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック