2018年05月06日
豆の反応からわかる、教会のメッセージに違和感が出る理由
今日の教会でのメッセージはルカの福音書5章の第27節から第32節(※1:最下部に注釈)でした。
メッセージを聞いて、心に引っかかることがあったので分かち合わせてください。
違和感があったのは今日のメインメッセージで語られたルカの福音書5章第27節から第28節。
以下にその箇所を示します。
27その後、イエスは出ていって、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、
「私に従いなさい」と言われた。28彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
(ルカ5:27〜28)
メッセージが上記の28節(上記の青色部)の説明に来て、スピーカーはこのように説明されました。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
このメッセージにおける違和感を以下にまとめます。
【違和感1】メッセージは励ましのためのものではないのですか?
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
まず豆は、この説明を聞いて即座に自分にがっかりしました。
なぜなら上記の赤色部の言葉が、豆には
「あなたには本当に、今囚われているすべての物から自由になって、
イエス・キリストついていく覚悟がありますか!?」
と、問い正されているようにきこえたからです。
例えば仕事でも、まだ慣れていないことに関して「本当にあるのか!」と問い正されると、
だんだん自信がなくなってきませんか?
今日の豆のそうでした。
さっきまで「そうだ!そうだ!」と自分のことのように聞いていたのに、自信がなくなって、
「そうだ!そうだ!」が「そうでした・・・そうでした・・・」になってしまったのです。
でも、不幸はこれで終わりませんでした。
*****
【違和感2】私を叱らないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
次に豆は、「ごめんなさい」と謝りたくなりました。
上記の赤色部の言葉を聞いて
「今のお前は自分の中の優先順位が自分の基準の基準のままだ!
だからお前は【このようにするためには、自分の中の優先順位を変える必要がある】んだ!わかったか!!」
と、叱られている気持ちになったからです。
本来、キリスト教のメッセージというものは、このように信者を責めるものではありません。
信者を励まし、皆で喜び合うためのものです。(詳しくは次回の記事【人が神の律法を守る方法】を参照)
もう豆は豆のサイズでは居られなくなり、更に小さなゴマのサイズになってしまったのです。
しかし、不幸はそれで終わりませんでした。
ここまででも十分に瀕死の豆を、更なる強烈なトドメの一撃が襲いました。
*****
【違和感3】私を突き放さないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
自分に自信がないところへお叱りを受けると普通、人間は深く落ち込みます。
そこへ、上記の赤色部のトドメの一撃です。
もうこれは、
「お前には何が足りないか、よく考えろ!!」
と突き放されたも同じです。
こうして豆は、しょんぼりしながら家路につきました。
*****
【まとめ】
どうしてなのか、日本人は真面目過ぎるのか、このように卑屈に捉える傾向があるそうです。
クリスチャン同士で集まっても、日本人クリスチャンほど
救われているのを喜んでいるのか、いないのか
微妙な空気を出しているクリスチャンはいないそうです。
これは聞いた話ですが、どうも日本人の国民性がそうさせているそうです。
例えば、本来、クリスチャンの信仰は、聖書の教えを頑張って守るものではなく、
神様の恵みを信じて頼るものです。
しかし日本人は、これを努力でカバーしようとします。
その結果、
いくらやっても救われている感じがしないと言い出し、
やがて教会から離れていってしまいます。
*****
キリスト教の神髄は信仰、つまり、聖書にある超自然的なことを信じることから始まります。
よく、神様はいないとか、死んだ人が生き返るはずがないとか
福音の三要素を信じることができずに止まっている人を見かけます。
中には、「証明できたら信じる」という人もいます。
これはもう混乱でしかありません。言葉の使い方を間違えています。
もし、信じる対象が証明されてしまったら、それは信じる対象になりません。
証明がもう済んでしまったならば、あなたが信じようが、信じまいが、
それはもう真理です。変わりようのない真理に、信じる価値はないのです。
逆に、信じる価値があるものは、まだ人類が証明できないものです。
なぜ、証明できないものに、そこまでの価値を見出せるのでしょう。
それは、希望になるからです。
その点、聖書は歴史書です。記事にはまだ起きたことが証明されていないもののあります。
ですが、聖書を丁寧に読んでいくと、誰かが聞いた神の御言葉は、必ず成就していることがわかります。
ですから、まだ起きていない事でも今後、成就する可能性には十分希望が持てるのではないでしょうか。
ましてや、聖書は神様の栄光の記録なのです。
もし御言葉が1つでも成就しなければ、神様の栄光は地に落ちることになります。
もし、僕が神様であったなら、絶対にそんなことはさせません!
もし仮に、聖書が全部ウソだったとします。そしたらまず確実に、神様の栄光は地に落ちます。
でもそこまでして、こんなに精巧にウソををついて、
一体誰が得をするというのでしょうか。
それどころか、こんなに壮大で!緻密にウソをつける人物なんているのでしょうか!
その人こそ神がかってはいませんか!!
いや!その人こそ神です!!
やはり、神様は存在するのです!!
話が少し脱線しましたが、聖書はもっとポジティブに読まないといけないと思います。
英語圏のクリスチャンがとてもポジティブなのは、英語がポジティブに捉えやすい言語だからだと
言われています。例を挙げましょう。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。
(ロマ書5:1〜2)
この箇所を先ほどの豆のように普通に読んでいきますと、日本人であれば次のように解釈するのではないでしょうか。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られるのは、
私たちが信仰によって儀とされたなれたときの場合だ。)
なんとひねくれているのでしょうか。
これでは違和感を感じて当たり前です。
一方、英語圏の人たちは、この箇所を普通、次のように解釈します。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちが信仰によって儀とされたので、
私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られている。)
なんとポジティブなんでしょう!!
まさにこれですよ!コレ!コレ!!
このような違いが出る理由は、日本語は後ろから訳していく言語なのに対し、
英語は前から訳していく習慣があるためなんだそうです。面白いですね!
ですから、本当は日本人も英語で聖書を読んだり、英語でメッセージを聞いたりできた方が
良いかもしれません。求道者がいる場合は尚更、キリスト教が希望の教えであることを
しっかりとわかってもらわなくてはなりません。
病院で死の寸前であるとき、牧師とお坊さん、
あなたはどちらに来て欲しいでしょうか。
牧師さんであれば、死の淵にいる人にでも、主イエス様の福音による死後の希望を伝え、
死への恐怖を癒すことでしょう。
ではお坊さんはというと、おそらく「あなたは〇〇しましたか?」などと過去の行いを
ほじくり返し、つつき出すに違いありません。
ですから豆が死ぬ直前には絶対に牧師さんに来てもらいます!
もしお坊さんが来たら、「ちょっとまだ早いんとちがいますか!?」と追い返してもらいます!
(仏教とキリスト教の違いについても、次回の記事【人が神の律法を守る方法】で詳しく触れています。)
*****
さて、ここまで述べてきた通り、キリスト教は希望の教えです。
ですから、聖書を読むときも、メッセージをするときも、ポジティブ意味を取るようにしたいものです。
豆のようにネガティブな解釈をしていると、恵みになんて
絶対アクセスできるようになりませんからね!!
おしまい。
---------
【注釈】
※1・・・ルカの福音書 (05:27〜05:32)
メッセージを聞いて、心に引っかかることがあったので分かち合わせてください。
違和感があったのは今日のメインメッセージで語られたルカの福音書5章第27節から第28節。
以下にその箇所を示します。
27その後、イエスは出ていって、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、
「私に従いなさい」と言われた。28彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
(ルカ5:27〜28)
メッセージが上記の28節(上記の青色部)の説明に来て、スピーカーはこのように説明されました。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
このメッセージにおける違和感を以下にまとめます。
【違和感1】メッセージは励ましのためのものではないのですか?
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
まず豆は、この説明を聞いて即座に自分にがっかりしました。
なぜなら上記の赤色部の言葉が、豆には
「あなたには本当に、今囚われているすべての物から自由になって、
イエス・キリストついていく覚悟がありますか!?」
と、問い正されているようにきこえたからです。
例えば仕事でも、まだ慣れていないことに関して「本当にあるのか!」と問い正されると、
だんだん自信がなくなってきませんか?
今日の豆のそうでした。
さっきまで「そうだ!そうだ!」と自分のことのように聞いていたのに、自信がなくなって、
「そうだ!そうだ!」が「そうでした・・・そうでした・・・」になってしまったのです。
でも、不幸はこれで終わりませんでした。
*****
【違和感2】私を叱らないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
次に豆は、「ごめんなさい」と謝りたくなりました。
上記の赤色部の言葉を聞いて
「今のお前は自分の中の優先順位が自分の基準の基準のままだ!
だからお前は【このようにするためには、自分の中の優先順位を変える必要がある】んだ!わかったか!!」
と、叱られている気持ちになったからです。
本来、キリスト教のメッセージというものは、このように信者を責めるものではありません。
信者を励まし、皆で喜び合うためのものです。(詳しくは次回の記事【人が神の律法を守る方法】を参照)
もう豆は豆のサイズでは居られなくなり、更に小さなゴマのサイズになってしまったのです。
しかし、不幸はそれで終わりませんでした。
ここまででも十分に瀕死の豆を、更なる強烈なトドメの一撃が襲いました。
*****
【違和感3】私を突き放さないでください。
「このレビの姿勢に学びがあります。主、イエス様は今囚われているすべての物から自由になって、
ついていく覚悟がある人を探しておられるのです。このようにするためには、自分の中の優先順位を
変える必要があるのです。さて、皆さんの今囚われていることは何でしょうか」
自分に自信がないところへお叱りを受けると普通、人間は深く落ち込みます。
そこへ、上記の赤色部のトドメの一撃です。
もうこれは、
「お前には何が足りないか、よく考えろ!!」
と突き放されたも同じです。
こうして豆は、しょんぼりしながら家路につきました。
*****
【まとめ】
どうしてなのか、日本人は真面目過ぎるのか、このように卑屈に捉える傾向があるそうです。
クリスチャン同士で集まっても、日本人クリスチャンほど
救われているのを喜んでいるのか、いないのか
微妙な空気を出しているクリスチャンはいないそうです。
これは聞いた話ですが、どうも日本人の国民性がそうさせているそうです。
例えば、本来、クリスチャンの信仰は、聖書の教えを頑張って守るものではなく、
神様の恵みを信じて頼るものです。
しかし日本人は、これを努力でカバーしようとします。
その結果、
いくらやっても救われている感じがしないと言い出し、
やがて教会から離れていってしまいます。
*****
キリスト教の神髄は信仰、つまり、聖書にある超自然的なことを信じることから始まります。
よく、神様はいないとか、死んだ人が生き返るはずがないとか
福音の三要素を信じることができずに止まっている人を見かけます。
中には、「証明できたら信じる」という人もいます。
これはもう混乱でしかありません。言葉の使い方を間違えています。
もし、信じる対象が証明されてしまったら、それは信じる対象になりません。
証明がもう済んでしまったならば、あなたが信じようが、信じまいが、
それはもう真理です。変わりようのない真理に、信じる価値はないのです。
逆に、信じる価値があるものは、まだ人類が証明できないものです。
なぜ、証明できないものに、そこまでの価値を見出せるのでしょう。
それは、希望になるからです。
その点、聖書は歴史書です。記事にはまだ起きたことが証明されていないもののあります。
ですが、聖書を丁寧に読んでいくと、誰かが聞いた神の御言葉は、必ず成就していることがわかります。
ですから、まだ起きていない事でも今後、成就する可能性には十分希望が持てるのではないでしょうか。
ましてや、聖書は神様の栄光の記録なのです。
もし御言葉が1つでも成就しなければ、神様の栄光は地に落ちることになります。
もし、僕が神様であったなら、絶対にそんなことはさせません!
もし仮に、聖書が全部ウソだったとします。そしたらまず確実に、神様の栄光は地に落ちます。
でもそこまでして、こんなに精巧にウソををついて、
一体誰が得をするというのでしょうか。
それどころか、こんなに壮大で!緻密にウソをつける人物なんているのでしょうか!
その人こそ神がかってはいませんか!!
いや!その人こそ神です!!
やはり、神様は存在するのです!!
話が少し脱線しましたが、聖書はもっとポジティブに読まないといけないと思います。
英語圏のクリスチャンがとてもポジティブなのは、英語がポジティブに捉えやすい言語だからだと
言われています。例を挙げましょう。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。
(ロマ書5:1〜2)
この箇所を先ほどの豆のように普通に読んでいきますと、日本人であれば次のように解釈するのではないでしょうか。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られるのは、
私たちが信仰によって儀とされたなれたときの場合だ。)
なんとひねくれているのでしょうか。
これでは違和感を感じて当たり前です。
一方、英語圏の人たちは、この箇所を普通、次のように解釈します。
1このように、私たちは信仰によって儀とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており、
(私たちが信仰によって儀とされたので、
私たちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得られている。)
なんとポジティブなんでしょう!!
まさにこれですよ!コレ!コレ!!
このような違いが出る理由は、日本語は後ろから訳していく言語なのに対し、
英語は前から訳していく習慣があるためなんだそうです。面白いですね!
ですから、本当は日本人も英語で聖書を読んだり、英語でメッセージを聞いたりできた方が
良いかもしれません。求道者がいる場合は尚更、キリスト教が希望の教えであることを
しっかりとわかってもらわなくてはなりません。
病院で死の寸前であるとき、牧師とお坊さん、
あなたはどちらに来て欲しいでしょうか。
牧師さんであれば、死の淵にいる人にでも、主イエス様の福音による死後の希望を伝え、
死への恐怖を癒すことでしょう。
ではお坊さんはというと、おそらく「あなたは〇〇しましたか?」などと過去の行いを
ほじくり返し、つつき出すに違いありません。
ですから豆が死ぬ直前には絶対に牧師さんに来てもらいます!
もしお坊さんが来たら、「ちょっとまだ早いんとちがいますか!?」と追い返してもらいます!
(仏教とキリスト教の違いについても、次回の記事【人が神の律法を守る方法】で詳しく触れています。)
*****
さて、ここまで述べてきた通り、キリスト教は希望の教えです。
ですから、聖書を読むときも、メッセージをするときも、ポジティブ意味を取るようにしたいものです。
豆のようにネガティブな解釈をしていると、恵みになんて
絶対アクセスできるようになりませんからね!!
おしまい。
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【注釈】
※1・・・ルカの福音書 (05:27〜05:32)
タグ:イエス・キリスト
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