2024年03月30日
【受難の日】伝道メッセージのハレルヤだけでは終わらない信仰生活とキリストの恵み
(1)バベルの塔の建造とそれに伴う自己陶酔のサタンまがいな誘惑
昨日は受難日。
消化しなければいけない有給がたまっていたのもあって、イースターを口実に久々に有給を取り
一日を自分のために使いました。
びっくりしたのは訂正が必要で戻ってきていたアパートの契約更新の書類がまだ家にあったこと。
仕事に捧げる時間は、考えて捧げないといけないと思った。
いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。
バベルの塔とは、こうして自分の中に立て上げあれる。
4彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 5時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 6言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 8こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
(創世11:4-8)
バベルの塔。この聖書箇所には大いなる皮肉がある。
どんなに私が高い塔を立てようとも、
7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
神はそれを見るために天から降りてこられなければならないほど
ちっぽけなのだ。もっとも、もちろん神は全てを見ておられるのだから私が塔を建てていることはご存じ
なのだが・・・
「いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。」
自分では偉いと思ってしまう。しかし現実は、私生活をおろそかににしていただけだった。
けれど、自分自身に目が向いている限り、その建造作業から手を引くことは難しい。
(2)イエスの受難日の大きさ
そんな建造作業も、昨日はイエスの受難日で中断した。
実際は仕事の疲れが蓄積したところへイースターの知らせが届き、有給消化の圧のタイミング
もあって自分自身の目が仕事から離れただけなのだろうが、イースターという福音の知らせが
なければ転換が起こらなかっただけに、これを神の御手の業(わざ)と言わずにはいられない。
36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。(マタイ福音書26:36-42)
受難が開始されるこの日、イエスが弟子に「〜してください」と頼んだのはこの一度きりかもしれない。
しかし、苦闘のさなかイエスが最も気にかけたのは、弟子ペテロのことだった。
33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。(マタイ福音書26:33)
イエスは彼のこの言葉を心に留めておられた。この後に彼が最もつらい経験をし心が傷つく事への心配が
自分の受難のこと以上にイエスにとって、深い思い煩いとなっていた。
41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。今はよく休息しておきなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。(マタイ福音書26:41)
イエス自身は何度もご自身で受難を予告しておられたので、この日、受難の内容が「神から切り離される」
事だと知って驚き、心が騒いだ。
人としてのイエスは死ぬ。だが、人でしかないペテロはイエスの受難、すなわち神の怒りの鱗片に触れるときに果たして耐えられるだろうか・・・。
(3)受難のイエスの苦悩、そしてペテロは
かつてイエスは天に向かって次のようなことを祈られた。
22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 25正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。 26そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。(マタイ福音書17:22-26)
人は自分に起こったことを基本に物事を考える。
洗礼を受けたクリスチャンが世迷い出る原因として、クリスチャンライフが思ったのと違ったこと、
これが最も多いだろう。これは洗礼へのためらいの理由にも言えると思う。
神は愛だ。しかし、その愛は激しい。
人は刺激を望む。安定を望むのは疲れた人だけだ。しかしその疲れた人も、時が経てば別の希望をいだいて
また激しさの中に身を投じていく。
お釈迦様が人に対して涅槃(ねはん)を説くのはこのためである。幸福に刺激はいらない。心の安定・安心が
まず第一だとお釈迦さまは人々に説いた。
クリスチャンにとっての涅槃は神への信仰だ。神への信仰が安定していることで、そこから愛の授受へと
発展していけるので、信仰の無い人よりも結果として人生が幸多く実り豊かなものになると私は思う。
ところが先ほどのペテロにおいては、師であるイエスが神に殺される。しかも、ただの殺され方ではない。
イエスの無残な十字架刑の死に様を目にし、ペテロの信仰は揺らがないだろうか。これが神であるイエスの
心配だった。ましてや自ら神を呪い、神から切り離された生活を選択しないだろうか。イエスの脳裏には
かつてのアダムとエバの息子たち、兄弟のカインとアベルの末路が思い起こされたかもしれない。
(4)神との交わりのある生活、クリスチャンライフ
クリスチャンライフは残存する罪の中を神の思い沿って聖く(きよく)生きるライフステージを生きることだ。
冒頭の仕事に多くの時間を費やし私生活をないがしろにした私が、受難の日に神に目を向けたことで私生
活の乱れに気づき、神の下へ集い教会の兄弟姉妹とともに祈りながら、再び神が御子を見殺しにしてでも
与えたかった光のライフステージへ戻っていく営みが、幾度となく繰り返され、やがてその繰り返しの頻
度が少なくて済むようになり、幸福感が長続きする聖い(きよい)生活、聖書的涅槃の境地へと導かれていく。
この時に欠かせないのが、神への信仰と祈りだ。
人であるイエスに祈りがちだが、@祈りの本質は神への信頼、A被造物である不完全な自身の受容、そして
瞑想によるこの@Aの統合だと私は思う。時代に左右されない歴史ある堅牢なライフスタイルとして、
現在でも根強く愛されている。
ハレルヤだけがクリスチャンライフではない。
実際、特に日本の教会生活は、献金献上と無償労働の連続で大変である。献金献上は幕藩体制のそれと
似ているし、会社の労働と変わらず拘束時間が長いのに賃金は出ない。
また、教会独自のルールに生活が縛られ個人の生活の自由度は著しく低い。それはとてもハレルヤの一言で
片づけられるものではない。
クリスチャンがこれほどの不自由を負ってでも信仰に留まるのには理由がある。
それは一言で言えば「創造主である神の素晴らしさ」だ。
プロのプログラマーが勉強による拘束を嫌うだろうか。
プロのボクサーが減量と練習による拘束を嫌うだろうか。
バイクライダーが装備品の費用やツーリング計画に係るミーティングの拘束を嫌うだろうか。
自由度は実際、低くて良い。
自分を幸せに縛るものが信頼できるものであれば尚の事、人は喜んでその拘束の奴隷になれる。
実際、プロのプログラマーもボクサーもライダーも、例えば結婚し、それぞれの生活を守りながら、
幸せなライフステージを維持している。
意外にも自由度の高さを望む人ほど、きらびやかなライフスタイルを求めつつも生活費や労働の問題の多い
低いライフステージに留まり続けているようにも見えないだろうか。
洗礼は、イエスのような神が支配されるにライフステージにとどまる生き方の入り口だと思う。
扉は開かれているが、茨(いばら)である人間の思いで教会生活を覆ってしまったせいでその敷居は高く、
洗礼、そして信仰生活への入り口は狭い。
だが、教会生活の茨(いばら)を取り除け、神が用意された教会生活、聖さの保たれた制限されたライフ
ステージを得る資格は、私にも、また読者のあなたにも神の赦しのお墨付きで与えられているはずだ。
簿記の資格を取っても生かせない人がいるように、洗礼を受けてキリスト者の資格を受けても生かせない人がいる。生かせるか、生かせないか、その差の原因はどちらも同じで、勉強不足に違いない。
資格は取ったら終わりではない。
簿記も試験日までテキストで猛勉強した事は日常業務のほんの一部であるように、キリストも洗礼式を
終えたらハレルヤではない。裕福で有名なユダヤ人たちは子どもの頃からタルムードの金言集を膨大な
時間を費やして勉強し続けている。
日本人はいい話を聞いてハレルヤして一丁上がりで終わるのか。否、そうではない。
明日はイースター。我が教会も洗礼式があり、私も洗礼槽準備チームの一員で参加する。
当教会はバイリンガルで、奉仕と言えど通訳、音響・照明、受付、会計など職業人の宝庫だ。
どうか、明日も主の祝福がありますように。
昨日は受難日。
消化しなければいけない有給がたまっていたのもあって、イースターを口実に久々に有給を取り
一日を自分のために使いました。
びっくりしたのは訂正が必要で戻ってきていたアパートの契約更新の書類がまだ家にあったこと。
仕事に捧げる時間は、考えて捧げないといけないと思った。
いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。
バベルの塔とは、こうして自分の中に立て上げあれる。
4彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 5時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 6言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 8こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
(創世11:4-8)
バベルの塔。この聖書箇所には大いなる皮肉がある。
どんなに私が高い塔を立てようとも、
7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
神はそれを見るために天から降りてこられなければならないほど
ちっぽけなのだ。もっとも、もちろん神は全てを見ておられるのだから私が塔を建てていることはご存じ
なのだが・・・
「いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。」
自分では偉いと思ってしまう。しかし現実は、私生活をおろそかににしていただけだった。
けれど、自分自身に目が向いている限り、その建造作業から手を引くことは難しい。
(2)イエスの受難日の大きさ
そんな建造作業も、昨日はイエスの受難日で中断した。
実際は仕事の疲れが蓄積したところへイースターの知らせが届き、有給消化の圧のタイミング
もあって自分自身の目が仕事から離れただけなのだろうが、イースターという福音の知らせが
なければ転換が起こらなかっただけに、これを神の御手の業(わざ)と言わずにはいられない。
36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。(マタイ福音書26:36-42)
受難が開始されるこの日、イエスが弟子に「〜してください」と頼んだのはこの一度きりかもしれない。
しかし、苦闘のさなかイエスが最も気にかけたのは、弟子ペテロのことだった。
33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。(マタイ福音書26:33)
イエスは彼のこの言葉を心に留めておられた。この後に彼が最もつらい経験をし心が傷つく事への心配が
自分の受難のこと以上にイエスにとって、深い思い煩いとなっていた。
41 誘惑に陥らないように、
イエス自身は何度もご自身で受難を予告しておられたので、この日、受難の内容が「神から切り離される」
事だと知って驚き、心が騒いだ。
人としてのイエスは死ぬ。だが、人でしかないペテロはイエスの受難、すなわち神の怒りの鱗片に触れるときに果たして耐えられるだろうか・・・。
(3)受難のイエスの苦悩、そしてペテロは
かつてイエスは天に向かって次のようなことを祈られた。
22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 25正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。 26そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。(マタイ福音書17:22-26)
人は自分に起こったことを基本に物事を考える。
洗礼を受けたクリスチャンが世迷い出る原因として、クリスチャンライフが思ったのと違ったこと、
これが最も多いだろう。これは洗礼へのためらいの理由にも言えると思う。
神は愛だ。しかし、その愛は激しい。
人は刺激を望む。安定を望むのは疲れた人だけだ。しかしその疲れた人も、時が経てば別の希望をいだいて
また激しさの中に身を投じていく。
お釈迦様が人に対して涅槃(ねはん)を説くのはこのためである。幸福に刺激はいらない。心の安定・安心が
まず第一だとお釈迦さまは人々に説いた。
クリスチャンにとっての涅槃は神への信仰だ。神への信仰が安定していることで、そこから愛の授受へと
発展していけるので、信仰の無い人よりも結果として人生が幸多く実り豊かなものになると私は思う。
ところが先ほどのペテロにおいては、師であるイエスが神に殺される。しかも、ただの殺され方ではない。
イエスの無残な十字架刑の死に様を目にし、ペテロの信仰は揺らがないだろうか。これが神であるイエスの
心配だった。ましてや自ら神を呪い、神から切り離された生活を選択しないだろうか。イエスの脳裏には
かつてのアダムとエバの息子たち、兄弟のカインとアベルの末路が思い起こされたかもしれない。
(4)神との交わりのある生活、クリスチャンライフ
クリスチャンライフは残存する罪の中を神の思い沿って聖く(きよく)生きるライフステージを生きることだ。
冒頭の仕事に多くの時間を費やし私生活をないがしろにした私が、受難の日に神に目を向けたことで私生
活の乱れに気づき、神の下へ集い教会の兄弟姉妹とともに祈りながら、再び神が御子を見殺しにしてでも
与えたかった光のライフステージへ戻っていく営みが、幾度となく繰り返され、やがてその繰り返しの頻
度が少なくて済むようになり、幸福感が長続きする聖い(きよい)生活、聖書的涅槃の境地へと導かれていく。
この時に欠かせないのが、神への信仰と祈りだ。
人であるイエスに祈りがちだが、@祈りの本質は神への信頼、A被造物である不完全な自身の受容、そして
瞑想によるこの@Aの統合だと私は思う。時代に左右されない歴史ある堅牢なライフスタイルとして、
現在でも根強く愛されている。
ハレルヤだけがクリスチャンライフではない。
実際、特に日本の教会生活は、献金献上と無償労働の連続で大変である。献金献上は幕藩体制のそれと
似ているし、会社の労働と変わらず拘束時間が長いのに賃金は出ない。
また、教会独自のルールに生活が縛られ個人の生活の自由度は著しく低い。それはとてもハレルヤの一言で
片づけられるものではない。
クリスチャンがこれほどの不自由を負ってでも信仰に留まるのには理由がある。
それは一言で言えば「創造主である神の素晴らしさ」だ。
プロのプログラマーが勉強による拘束を嫌うだろうか。
プロのボクサーが減量と練習による拘束を嫌うだろうか。
バイクライダーが装備品の費用やツーリング計画に係るミーティングの拘束を嫌うだろうか。
自由度は実際、低くて良い。
自分を幸せに縛るものが信頼できるものであれば尚の事、人は喜んでその拘束の奴隷になれる。
実際、プロのプログラマーもボクサーもライダーも、例えば結婚し、それぞれの生活を守りながら、
幸せなライフステージを維持している。
意外にも自由度の高さを望む人ほど、きらびやかなライフスタイルを求めつつも生活費や労働の問題の多い
低いライフステージに留まり続けているようにも見えないだろうか。
洗礼は、イエスのような神が支配されるにライフステージにとどまる生き方の入り口だと思う。
扉は開かれているが、茨(いばら)である人間の思いで教会生活を覆ってしまったせいでその敷居は高く、
洗礼、そして信仰生活への入り口は狭い。
だが、教会生活の茨(いばら)を取り除け、神が用意された教会生活、聖さの保たれた制限されたライフ
ステージを得る資格は、私にも、また読者のあなたにも神の赦しのお墨付きで与えられているはずだ。
簿記の資格を取っても生かせない人がいるように、洗礼を受けてキリスト者の資格を受けても生かせない人がいる。生かせるか、生かせないか、その差の原因はどちらも同じで、勉強不足に違いない。
資格は取ったら終わりではない。
簿記も試験日までテキストで猛勉強した事は日常業務のほんの一部であるように、キリストも洗礼式を
終えたらハレルヤではない。裕福で有名なユダヤ人たちは子どもの頃からタルムードの金言集を膨大な
時間を費やして勉強し続けている。
日本人はいい話を聞いてハレルヤして一丁上がりで終わるのか。否、そうではない。
明日はイースター。我が教会も洗礼式があり、私も洗礼槽準備チームの一員で参加する。
当教会はバイリンガルで、奉仕と言えど通訳、音響・照明、受付、会計など職業人の宝庫だ。
どうか、明日も主の祝福がありますように。
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