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2018年05月22日

ルカの福音書 第15章〜神の御国の価値観とイエス様の愛を学ぶ〜

いつも聖書は当時のラビさんたちが使徒たちに語った通りに理解するのが
一番感動的だと思っている豆です。

感動した場面がありましたので、
今日はその感動を分かち合いたいと思います。

聖書は噛めば噛むほど味が増すスルメの様な
感動が味わえる歴史書です。

聖書理解の参考になれば嬉しいです。

まず、聖書箇所を確認します。


15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。 15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 15:25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 15:26しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 15:27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
(ルカ15:11~32)




----------【以下、この聖書箇所のイエス様がされた「たとえ話」の解説】----------

まず、ここでの場面設定を確認しておきます。
場面設定は、以下の通りです。

15:1さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。 15:2すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。


すなわち、中央でイエス様が語っており、それを囲んでいる取税人、罪人(=売春婦=遊女)、そしてパリサイ人と律法学者がこれを聞いています。
ここまで見てきたたとえ話は、イエス様がパリサイ人と律法学者たちの質問に答えるかたちで話されています。


---------【以下、本文の補足】---------

15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。・・・(以下略)


ここでの「あった」は、英語訳で見てみると「have」。原文のギリシァ語では
ビオイリという動詞が使われているので、英語訳の方が意味としては正しい訳です。
つまり、この話は二種類の息子がいることの対比を伝えようとしていることがわかります。

15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

ここで、このたとえ話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この「弟」を
周りで聞いている取税人、罪人のことだと想像していました。

ここでいう「身代」は父の財産、すなわち土地です。
当時のユダヤ人たちの相続では、親が生きている間、土地の所有権は親にあって、
その土地の恵もすべて親の物でした。ですから、相続したとしても、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていました。

ですから、パリサイ人と律法学者たちは、この父親のことを「なんと愚かな奴だ」と
思ったことでしょう。

また、当時のパリサイ人と律法学者たちの間では、取税人や罪人はその魂のけがれ故に
そのまま野垂れ死にするのが常識でした。
ですから、のちにこの弟が悔い改めますが、当時のパリサイ人と律法学者たちにとって「弟」のこの行為は
とんでもない、許しがたい愚行でした。
彼らは取税人や罪人たちが悔い改めるのを極端に嫌っていたからです。

15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

ここでの「何もかもまとめて」は、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていた中で、
この弟はそれの慣習を無視して土地を売って現金にしてしまったという意味です。

家に父といることから、少なくとも弟は独身。
また、当時のユダヤ人の間で独身であれば、それは18歳以下だと推測できます。

また、後の文脈によると、この弟はユダヤ人たちが忌み嫌う職業である「豚飼い」の手伝いをさせられることになるので、ここでの「遠い国」とは、豚を飼える主人のいる土地、すなわち異邦人の国であると解釈できます。

15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

「豚飼い」はユダヤ人の間では最も忌み嫌われていた職業でした。
つまりこの箇所は、弟が「これ以上落ちることないところまで落ちた」ということの
たとえだと解釈できます。

15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

「いなご豆で腹を満たしたいほど」とあるので、この弟は異邦人の国に行って、
不当に低い賃金で雇われていたことがうかがえます。

15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

弟がここで自分が如何に愚かで、世間知らずだったということに気づき我に返ったことを受けて、
周りでこの話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この弟の悔い改めに対して
さぞや腹を立てたことでしょう。
彼らの常識では、取税人や罪人たちは、最後まで醜く死ぬべきだと考えられていたからです。

15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。


パリサイ人と律法学者たちは、家に残っている父親と兄を、すなわちユダヤの地に残ってその地の戒律を厳格に遵守している自分たちと重ねていました。

ですから、弟が返ってきても、弟は放蕩の結果としての罰を受けるのが当然だと思っていました。

また、弟がまだ家までは遠い場所にいたとき、パリサイ人と律法学者たちは、この父親は当然
怒っていると思っていたので、父がこの弟の元へ駆け寄るなど思ってもいませんでした

イエス様は、それを承知でこの話をパリサイ人と律法学者たちに向かってしていたのです。

パリサイ人と律法学者たちにとっては、父は権威をもって弟が自分に近づいて
許しを請うまでそこに立っているのが当然だと思っていました。

一方、イエス様の語りの中では、この父は父なる神を象徴していました。
ですからイエス様は、父なる神は、あなたたちの思っているように権威に執着するものではなく、
悔い改めようとする者の前では、その権威を投げ捨てて、駆け寄ってその悔い改めを
喜んでくださるということをパリサイ人と律法学者たちに伝えようとしていたのです。


15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

弟の悔い改めは、取税人と罪人たちの悔い改めを象徴しています。そして、
その悔い改めに対しての父親の行いは、父なる神のその「悔い改め」を祝福する様子を表しています。

「一番良い着物」とは、当時のユダヤ人の間でその子どもに与えられる最高の権利、
すなわち「長子(=今でいう長男)の権利」の比喩です。
ちなみに、指輪は権力。靴は弟が言うような奴隷などにはしないことの比喩です。

このたとえ話は、前(マタイ20:1〜20:16)の「あとの者は先になり、先の者はあとになる」のたとえ話が語られたあと、その内容を補足するように語られているたとえ話です。

「長子の権利」を最初に持っていたのは兄です。しかし、ここでは後から来た弟にその権利が譲られています。すなわちこのたとえ話のここでは、神の国における良いことの基準は、私たち人間における良いことの基準とは違うんだというイエス様の教えが含まれています。それを、イエス様はパリサイ人と律法学者たちに教えようとしているのです。

また、

15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

イエス様はここで、神の国の価値観が、人間の価値観とは違うんだということを教えています。
「肥えた子牛」は、当時のユダヤ人たちの間では大宴会をしても皆に食べ物が十分に行きわたる量があります。パリサイ人や律法学者たちは罪人より自分たちが天の御国に入れると思っていましたが、イエス様がここで言おうとしているのは、どれだけ律法を守ってきたかということではなく、天の御国では、弟のようなの悔い改め、すなわち信仰の復活を喜びとしているんだということを言っています。つまり、ずっと前から律法を重んじ技による救いに執着しているパリサイや律法学者のような先の者が後にそのことに気づいて救われるが、ずっと不信仰だった弟のような取税人や罪人のような後の者の方が先に信仰に立ち返り先に救われることがあるんだ、それは先の者が後に救われ、後の者が先に救われることがあるんだよということを、イエス様は教えているのです。
ちなみ、「死んでいた」状態は不信仰の状態、「生き返り」とは、信仰に返った状態のことを指します。

そして彼らは祝宴を始めた。

この宴会のテーマは再登場です。宴会は天の御国を象徴しています。
弟が宴会に入っていること。
このことで、聴衆たちは罪人だった弟が悔い改めて天の御国に入れてもらえた姿を想像できたと思います。
弟は、悔い改めた取税人、罪人の象徴です。

一方、兄はイエス様の周りで聞いているパリサイ人と律法学者たち、
「自分は悔い改める必要がないと思っている人たち」の象徴です。

兄は、弟が宴会に入っていることを喜びませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちが罪人が救われることを好まなかったことを表しています。

兄は、宴会に入ろうともしませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちは、イエス様のメシア性を否定していたからです。

そこで父が来て兄をなだめています。

15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

人間の父親ならこのようなことはあり得ませんが、
ここでの「父」とは天の父なる神様を象徴しています。
つまり、神様はご自身を否定する人たちをも宴会に招いてくださるお方なのです。
そのことをイエス様は伝えようとしています。

父は、兄が宴会に入るよう勧めています。
つまりここでは神が、あなたたちもイエス様をメシアと信じれば宴会に入れるんだよと言っているのです。

兄も本当は宴会に入りたいはずなのです。
でも、兄は宴会に入ることを拒否しました。
だったら自分も入ればいいじゃないかと思うのですが、
つまり、ここでの兄はいじけているんです。

兄は言いました。
15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

つまり、
ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
どうして律法を守らない取税人や罪人たちが宴会に招かれているんだ。

そう言って、パリサイ人と律法学者たちは、イエス様が提示した神の御国に入ることは拒否したのです。

当時のパリサイ人と律法学者たちがイエス様をメシアだと認めなかったのは、
イエス様が神聖なお方であるメシアならば、あのような取税人や罪人と食事を共にすることなど
あり得ないと思っていたからでした。

確かにイエス様が罪人と食事をしたことは事実です。ですが、パリサイ人と律法学者たちとも食事を共にされていたのです。イエス様はすべての人が御国に入ることを願い、すべての人を招かれたのですが、兄の態度は、実に侮辱的でした。

15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。

ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
これはそもそも、律法を守ることを自分たちは自発的に喜んでやったのではなく
嫌々やってきたことを自分で言っているようなものです。

15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。
兄はここで
「なのに自分は宴会を開いてもらったことがない」と言っています。

さて、ここで
弟が帰還したことで兄は何か失ったものがあるでしょうか。

ありませんよね?

兄にはもともと、父と一緒にいる喜びと、財産の所有権が与えられていました。
だから兄もずっと父の愛の中にいたのです。

15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
そうです。でも不幸なことに、兄はそのことにに気づいていないのです。

ですからこのたとえ話の中で父は兄と物理的にはずっと一緒にはいましたが
精神的には兄も無くしていたことがうかがえます。

だから最後に父はこう言ったのです。
15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

これは単に弟のことを言っているのではありません。
父は弟のことを「おまえの弟」と呼んでいます。

ですが兄は、その弟のことを

15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、

と、このように「あなたの息子」と呼んでいます。

ここがイエス様と兄、つまり、神と人間の決定的な認識の違いです。

本来、父にとってはどちらも大事な息子たちなのでです。
兄は「あなたの息子」は、「あなたの弟」だと気づくべきでした。

ここでの内容でイエス様は兄、すなわちパリサイ人と律法学者たちに
父なる神にとっては、私たちは皆兄弟であることを教えようとされておられたのです。


この「兄」の自己認識は歪んでいます。
このことは、パリサイ人と律法学者たちにも言えます。
パリサイ人と律法学者たちにはもともと選びの民として神の啓示の言葉が委ねられていたのです。
まさに兄と同じでした。
ですからこの話を聞いている現時点でパリサイ人と律法学者たちも
神の祝福の宴会に入れる位置にいたのです。


それなのに彼らは、自分たちでイエス様を否定し、宴会に入ることを拒否したのです。

イエス様は、この状況を大変悲しんだと思います。
しかし、パリサイ人と律法学者たちには、
その御心がわからなかったのです。

彼らは技による救いを求めていましたが、イエス様が言っておられるのは
天の救いは、技ではなく愛によるものであるということをここでは伝えたかったのだと思います。



----------【「たとえ話」の解説】ここまで----------

パリサイ人と律法学者たちは、自分達はずっと苦労してきたのだから
誰よりも先に天の御国に入れると思っていました。
彼らは自分たちは救われるのだから悔い改める必要はないとさえ思っていたのです。

豆もこのような経験が思い当たりました。
豆たちは頑張っているのだから、成功は与えられて当然だと考えがちです。
ですから成功しても喜びは少ないですし、
成功するまでの過程にある喜びなどは感じられるはずもありません。

ですが、このたとえ話での兄を見てもわかる通り、
兄にも神の恵みは与えられていました。
でも、兄が頑なだったばっかりに、その恵みに気づくことができなかったのです。

パリサイ人と律法学者たちも同じで、
どんなに昔から律法を守っていたとしても、
神を神とも思わない態度では決して、神に近づくことはできません。

イエス様はそのことをパリサイ人と律法学者たちにも気づかせようとされたのです。
豆だったら普通、自分が挑戦されているときに相手の心配などしません。
ですが、イエス様はご自分が彼らに試みられているときにも、彼らの幸せを願っておられたのです。

天の父なる神様は、
今日も私たちの上に恵みを運んできてくださっています。
神様の深い愛を学ぶと
喜びを感じずにはいられません。ハレルヤ!

今週もあなたと共に歩めることを感謝します。
アーメン。


おしまい。

♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名:小さな祈り



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