2018年05月21日
地震の巻 第19帖
天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在するところは、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。
天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、✓によって現わされ、他の二人は、Θによって現わされる。Θは、左右上下二つの動きを為すところの立体からなっている。統治者の心奥の✓は、さらに高度にして、さらに内奥に位する✓の中の✓によって統一され、統治され、立体をなしている。天国では、この✓をスの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ・イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらのすべてを神の力として生かし、さらに高度なる大歓喜に至らんかと努力することである。また統治者自身は、自分たちを他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜をまずよろこび、己はその中に融け入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国における政治の基本は、以上のごとくであるが、さらに各家庭においては、同一の形体をもつ政治が行われている。一家には、一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。すなわち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。礼拝生活である。すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上においては、一つの生き方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上のごとく太陽があり、その太陽より、光と熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球のごとき現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と、熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、はるかにそれらを超越した歓喜の✓が感じられるのみである。この歓喜の✓が、真・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、その受け入れる天人、天使、霊人、地上人たちの持つ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。
天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、✓によって現わされ、他の二人は、Θによって現わされる。Θは、左右上下二つの動きを為すところの立体からなっている。統治者の心奥の✓は、さらに高度にして、さらに内奥に位する✓の中の✓によって統一され、統治され、立体をなしている。天国では、この✓をスの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ・イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらのすべてを神の力として生かし、さらに高度なる大歓喜に至らんかと努力することである。また統治者自身は、自分たちを他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜をまずよろこび、己はその中に融け入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国における政治の基本は、以上のごとくであるが、さらに各家庭においては、同一の形体をもつ政治が行われている。一家には、一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。すなわち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。礼拝生活である。すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上においては、一つの生き方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上のごとく太陽があり、その太陽より、光と熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球のごとき現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と、熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、はるかにそれらを超越した歓喜の✓が感じられるのみである。この歓喜の✓が、真・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、その受け入れる天人、天使、霊人、地上人たちの持つ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。
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