2018年05月20日
地震の巻 第18帖
神から出る真・善・美・愛の用(はたらき)に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、かつ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、そのいずれもが神の秩序、すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、いずれの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。ただ、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用を繰り返しつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人のために存在する。太陽は太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によって生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信(真)の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は、物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力する。秋は、陰であり、月と光り、かつ力する。この春秋の動きを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも言い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、かつ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。
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