2018年05月17日
地震の巻 第15帖
霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類を持つ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、といったふうに、現実世界とほとんど変わりがない。ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であるということを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互いに並び建てられており、地上における都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらのすべてが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、かつ考えるから、真相がなかなかにつかめない。これらすべての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その各々が持つ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応するということは、真理に対応するということになる。ただし、最も中心近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に至れば、すべてが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。しかし他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せるごとく見ゆるのである。また、衣類はすべて霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食している。言うまでもなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人もいずれも食べる、ということによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのかわからないほどである。また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。現実社会における、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられたすべての食物は、悉(ことごと)く食べて一物をも残さないのである。すべての善は✓より起こり、✓に還るのと同様、すべての悪もまた ✓より起こり、✓に還る。故に、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂(いわゆる)、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ✓が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からする時は理解力となり、真理となる。また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰と離れてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生まれ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに、地上人としては割り切れないほどの、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨(みむね)である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と言うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕(はら)み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのかわからないほどである。また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。現実社会における、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられたすべての食物は、悉(ことごと)く食べて一物をも残さないのである。すべての善は✓より起こり、✓に還るのと同様、すべての悪もまた ✓より起こり、✓に還る。故に、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂(いわゆる)、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ✓が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からする時は理解力となり、真理となる。また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰と離れてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生まれ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに、地上人としては割り切れないほどの、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨(みむね)である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と言うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕(はら)み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。
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