2017年10月28日
江戸時代にあった異流儀団体
富士門流の信仰は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を根本とし、大聖人・日興上人以来の歴代
法主上人に師弟相対して信行に励むことを旨とします。しかしながら江戸時代において、この信仰の
筋目から外れて異流義と化したものに「三鳥派」「堅樹派」があります。
三 鳥 派
「三鳥派」は、江戸時代初期の寛永年間(1630年代)に、三鳥日秀が起こした異流義の一派です。
日秀ははじめ、江戸常在寺において第十七世日精上人に帰伏し、数年の間は随順していましたが、
後に大石寺の法義に違背して異流義を主張するようになりました。
日秀の没後、三鳥派の一潮日浮は、自己を日蓮大聖人に匹敵させるのみならず、さらには大聖人を
超克しようとし、自らを無辺行菩薩の再誕と名のりました。このように日浮は、荒唐無稽の新義を創出して
人々を惑わし、また本尊まがいのものを書いて授与し、多額の金銭を貪り取るなどの悪行を重ねました。
この三鳥派は、「妙法」の二字を唱えることが、宗祖の教えであると主張し、独自の呼吸法と神秘的な
利益を売り物にして、江戸後期には一時的に隆盛しましたが、幕府により禁制の不受布施派と同様で
あるとされ、中心者らは死罪等の刑に処せられて江戸末期に壊滅しました。
堅 樹 派
「堅樹派」は、江戸時代後期の明和九年(1772)、堅樹日好が起こした異流義の一派です。日好は
本迹一致の身延門流から大石寺に帰伏しましたが、まもなく大石寺批判を重ねるようになり、離反して
異流儀を唱えはじめました。
日好は「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っている」と大石寺を
誹謗して「我こそ大聖人・日興上人の正統である」と自讃し、さらに「御本尊は折伏を行ずる者の胸中に
ある」などの邪義を立てて、強引な布教を行いました。
しかし、このような布教が幕府の取り締まりの対象となり、主導者であった日好は投獄されたうえ、
はじめは三宅島に流され、次いで利島に流されて在島三十八年の後、文化九年(1812)に罪人のまま、
七十四歳で寂しました。
その後、門下の臨導日報が日好の義を受け継いで大石寺批判を続けたため、第五十二世日霑上人は
『異流義摧破抄』を著して破折されました。しかし、自説に固執する日報が『聖語明鏡顕魔論』をもって
反抗してきたため、日霑上人は『叱狗(しっく)抄』を送って再度強く破折されました。
日報は、その後も大石寺を誹謗し続け、臨終には悪相を現じて非業の最期を遂げています。
この日報の臨終の姿から、その信仰に疑いをもった弟子・佐野広謙(妙寿日成尼)・富士本智境(日奘)
が、明治七年(1874)に日霑上人のもとに帰依し、強力な折伏を展開したことにより、堅樹派に感化されて
いた人々も、徐々に大石寺に帰伏するようになりました。
このようにして堅樹派は、日好から百数十年を経た明治中頃にその流れを止めました。
(宗務院発行 日蓮正宗入門より)
まさしくこれは創価学会・顕正会にそっくりです。
双方共に臨終には悪相を現じ、滅びています。
一時的には繁栄してるようには見えても所詮、血脈相伝の御法主上人に敵対していれば、いずれは滅びる事となります。特に堅樹派については、将来の顕正会の姿を予測しているかのようです。浅井会長の年齢からすれば臨終もそう遠い未来の話ではないと思います。
浅井会長が臨終を迎えその相がどうであったか、実際に臨終の相を見た周囲の人達が、堅樹派のように疑問を感じ日蓮正宗に次々と帰依していくのか、どうなるかは分かりません。ただ過去にこういった例があった事を覚えておいて損は無いと思います。
法主上人に師弟相対して信行に励むことを旨とします。しかしながら江戸時代において、この信仰の
筋目から外れて異流義と化したものに「三鳥派」「堅樹派」があります。
三 鳥 派
「三鳥派」は、江戸時代初期の寛永年間(1630年代)に、三鳥日秀が起こした異流義の一派です。
日秀ははじめ、江戸常在寺において第十七世日精上人に帰伏し、数年の間は随順していましたが、
後に大石寺の法義に違背して異流義を主張するようになりました。
日秀の没後、三鳥派の一潮日浮は、自己を日蓮大聖人に匹敵させるのみならず、さらには大聖人を
超克しようとし、自らを無辺行菩薩の再誕と名のりました。このように日浮は、荒唐無稽の新義を創出して
人々を惑わし、また本尊まがいのものを書いて授与し、多額の金銭を貪り取るなどの悪行を重ねました。
この三鳥派は、「妙法」の二字を唱えることが、宗祖の教えであると主張し、独自の呼吸法と神秘的な
利益を売り物にして、江戸後期には一時的に隆盛しましたが、幕府により禁制の不受布施派と同様で
あるとされ、中心者らは死罪等の刑に処せられて江戸末期に壊滅しました。
堅 樹 派
「堅樹派」は、江戸時代後期の明和九年(1772)、堅樹日好が起こした異流義の一派です。日好は
本迹一致の身延門流から大石寺に帰伏しましたが、まもなく大石寺批判を重ねるようになり、離反して
異流儀を唱えはじめました。
日好は「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っている」と大石寺を
誹謗して「我こそ大聖人・日興上人の正統である」と自讃し、さらに「御本尊は折伏を行ずる者の胸中に
ある」などの邪義を立てて、強引な布教を行いました。
しかし、このような布教が幕府の取り締まりの対象となり、主導者であった日好は投獄されたうえ、
はじめは三宅島に流され、次いで利島に流されて在島三十八年の後、文化九年(1812)に罪人のまま、
七十四歳で寂しました。
その後、門下の臨導日報が日好の義を受け継いで大石寺批判を続けたため、第五十二世日霑上人は
『異流義摧破抄』を著して破折されました。しかし、自説に固執する日報が『聖語明鏡顕魔論』をもって
反抗してきたため、日霑上人は『叱狗(しっく)抄』を送って再度強く破折されました。
日報は、その後も大石寺を誹謗し続け、臨終には悪相を現じて非業の最期を遂げています。
この日報の臨終の姿から、その信仰に疑いをもった弟子・佐野広謙(妙寿日成尼)・富士本智境(日奘)
が、明治七年(1874)に日霑上人のもとに帰依し、強力な折伏を展開したことにより、堅樹派に感化されて
いた人々も、徐々に大石寺に帰伏するようになりました。
このようにして堅樹派は、日好から百数十年を経た明治中頃にその流れを止めました。
(宗務院発行 日蓮正宗入門より)
まさしくこれは創価学会・顕正会にそっくりです。
双方共に臨終には悪相を現じ、滅びています。
一時的には繁栄してるようには見えても所詮、血脈相伝の御法主上人に敵対していれば、いずれは滅びる事となります。特に堅樹派については、将来の顕正会の姿を予測しているかのようです。浅井会長の年齢からすれば臨終もそう遠い未来の話ではないと思います。
浅井会長が臨終を迎えその相がどうであったか、実際に臨終の相を見た周囲の人達が、堅樹派のように疑問を感じ日蓮正宗に次々と帰依していくのか、どうなるかは分かりません。ただ過去にこういった例があった事を覚えておいて損は無いと思います。
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