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2019年06月30日

教育をもっと真剣に考えよ、人材が枯渇している。  〜ノーベル賞・野依博士 語る〜

日本の教育の在り方に、疑問を呈する人は多いが、
それらの多くは、教育手法に偏った議論ばかりで、
教育理念そのものに疑問を抱いている人は少ない。

日本の教育の貧困は、ここに問題があるようである。

日本の教育、科学会の最高峰に居る野依博士が
日本の教育についての問題を、語っています。

非常に勉強になります。

ちょっと長くなりますが、日本にとっての最重要課題なので
皆さんも考えて下さい。

ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感
6/25(火) 17:30配信 THE PAGE

 「教育の究極の役割は、人類文明持続への貢献だ。加えて、わが国の命運もかかっている。私はいまの教育と世相に大いに怒っている」――。2001年にノーベル化学賞を受賞し、現在は科学技術振興機構の研究開発戦略センター長を務める野依良治博士は、日本の未来、そして教育への危機感をあらわにする。令和の時代が始まったいま、ノーベル賞受賞者には日本の教育がどう見えているのか。教育新聞の小木曽浩介編集部長が聞いた。


―― 学校教育については、どうでしょう。

 学校教育は、社会のためにある。個人が自由に生きる権利は大切だが、決して入学試験に合格するためだとか、あるいは金持ちや権力者になるためにあるのではない。教育界というのは日本であれ、あるいは世界であれ、あるべき社会を担う人を育まなければいけない。健全な社会をつくることが、国民それぞれの幸せにも反映するわけです。

 日本は他国並みではなく、格段にしっかりした次世代を育てなければなりません。行政にも現場にも、その覚悟が求められる。


果たして、日本の現場や行政に、この覚悟があるのかどうかが
非常に怪しい。

忖度や日和見が横行し、現状維持で波風を起こさないように
する方向しか見てはいないだろう。
変化を嫌う日本文化のせいでもあるが、それを変えようとする
勢力が育っていない。

それどころか、ドンドン劣化して言ってはいないか?


時代を生き抜く若い世代をつくるのが教育

―― 多様な文化とは何かを詳しく。


 私は、文化は4つの要素から成ると思っています。「言語」「情緒」「論理」、そして「科学」。

 言語は地域によってものすごくたくさんあり、他方で科学は一つしかない。情緒や論理の多様性は、その言語と科学の間にある。これらの文化的な要素をきちんと尊重しなきゃいけない。決して軍事力や経済力で踏みにじってはならない。

 私は科学者ですが、将来を考えると科学知識や技術だけでは、人々は生きていけないと思います。やっぱり文化に根差す思想がないと、未来を描くことも、実現することもできない。

―― そのためにも、教育しなければいけない、と。

 その通りです。同時に人は時代と共に生きているわけで、その時代が求める知は何かということです。教育は教条的ではいけない。昔の教育と今の教育は違うはずで、近未来も含めて時代を生き抜く若い世代をつくることが、個人のためにも、社会のためにもなるのです。


この思想の欠如が、わが日本の一番の問題に思える。
小手先や目先の結果しか見ず、教育という理念を勘違いしている。

何の為に教育するのか?

自分がいい思いをする為に、教育するのか?

科学教育の本質は「無知の知」

―― 科学者の立場から見て、科学教育とは何でしょう。

 科学とは、真理追究の営みです。ポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という絵がありますよね。この問いにまっとうに答えるのが科学だと思っています。

 科学は客観性の高いものですが、人々の営みとか自然観、人生観、死生観などの、まっとうな主観を醸成します。いたずらに経済的利益追求に貢献するだけではなく、これが本当の意味での科学の一番大事な役割なのです。



人々の営みとか自然観、人生観、死生観を育むための科学だ、
この言葉は、感銘を受けた。

確かに、科学に限らず、何かを追求していくと、こういう所に行きつくことが多い。

そして、日本人の今の学生たちを見ると、いや、昔からかもしれないが
学びが消極的、かつ、画一的であることに気が付く。


ただ問題は、学びが消極的な点。積極的に定説に対して疑問を投げ掛けたりすることがない。教科書などに書いてあったら、「ああ、それはそうですね」で済ませ、自分で考え「そうじゃないんじゃないか」と、工夫して挑戦しないのですね。

 創造性のある科学者に必要なのは、いい頭ではなく、「強い地頭」。自問自答、自学自習ができないといけない。

 それから、感性と好奇心。これが不可欠です。そして新しいことに挑戦しなければいけないから、やっぱり反権力、反権威じゃないと駄目ですね。年配者や先生への忖度(そんたく)は無用です。先生や社会は若者のこの自由闊達(かったつ)な挑戦を温かく見守る必要がある。


小学生ごろの子供たちは「何故、何故」と聞くことが多い。
好奇心から、自分が興味を持ったことに対して、とことん質問してくる。

この時に、親や学校は、どう答えているのかが重要なのである。

子供自身に考えさせるような指導が出来ているだろうか?

多分、答えをすぐ教えて、次に進めようとしているのではないか?
そうではなく、答えを知ってはいても、「君はどう思う?」と
子供自身に考えさせるように、誘導することが必要なのだ。

今の大きな問題は、好奇心を持って自ら問う力、考える力、答える力。これらが落ちているということ。なぜそうなるのかというと、社会全体を覆う効率主義、成果主義のせい。しかも実は本当の成果を求めていない、形だけの評価制度は許せない。評価は本来、人や物の価値を高めるためにあるのですが、そうなっていない。問題の全体像をつかみ、自ら考えて、答えを得るというプロセスがなければ、知力を培うことは絶対にできません。


この点では、子供の通う小学校では、プロセスを大事にする
授業が多く、算数でも答えを書くだけではなく、そこに至る
プロセスを書くような指導がされているのが、嬉しい。

「目次」に関心のない現代の大学生

―― 全体像を把握する力も足りていませんか。

 例えば私たちは一冊の本があったら、まず第1章、第2章、第10章、第15章と、前から目次を順次眺めながら、全体の学問の構造を勉強しました。目次は大事です。

 しかし、今の大学生は目次には関心がなく、索引を見ます。例えば索引で万有引力の部分を読んで、「おお、万有引力とはこういうことか」と。細胞死なら細胞死の記述だけを読んで「これは分かった」と。だから知識が体系化されず、ばらばらで断片的なのです。


情報化時代の弊害で、確かに「物知り」は多いが、その事象を
理解しているかどうかは、怪しい。
「ただ知っている」だけになってはいないか?

理論的・体系的な理解が出来ていなければ、次への疑問が
湧いてはこない。  納得してしまうだけである。

“教育最貧国”の日本「先生が気の毒」

考える力、答える力が落ちていると言いますが、最も心配なのは「問う力」がほとんどないこと。誰かに作ってもらった問題に答える習慣が染み付いている。幼い子供たちは好奇心を持つが、学校教育が疑いを持つことを許さないのではないか。発展につながるいい問題を作るのは、与えられた問題にいい答えを出すよりも、ずっと難しいのです。平凡な既成の問題に答えてもまったく意味を成さないはずで、なぜこんなことが分からないのか。

 しかし、これは生徒が悪いのではなく、国なり、社会の教育に対する考え方が、科学研究を損なっているのです。

私は教育再生会議(※4)の座長を務めましたが、やはり「社会総がかり」で教育に取り組まないといけない。その意味で日本は“教育貧困国”なのです。学校だけに任せては駄目です。学校教育だけでなく、家庭、近所、地域、さらに産業界、あらゆるセクターの組織、あるいは人々が教育を支えるという気持ちにならないといけない。そして教える側自身も、そこから多くを学ぶ。

 しかし実際には、今の小学校から大学の教育を見ても分かる通り、教育が学校に偏重している。そして皆、自分の義務を果たすことなく、「学校が悪い、先生が悪い」と言っていて、先生たちが気の毒です。一方でメディア報道によると、身勝手な教育者らしからぬ先生も大勢いるようです。不祥事は根絶しなければなりません。


この問題は、先生も親も「忙しすぎる」という問題がある。
世の中便利になっているのに、余計なことをして、自分を
忙しくしてしまっているからだ。

そして、そのあおりを受けて、子供たちまでが
忙しくなってしまった。

こんな状況で、創造性をはぐくむなんて、出来はしない。

若年層の創造性を損なう入学試験の弊害

入学者の選抜においては、子ども、青年たちが、この学校・大学に入ってどのくらい成長するかという観点で、総合的に判断すべきだと思います。筆記試験で今まで詰め込んだ知識の量はそれなりに測れるかもしれないが、それだけでは不確実性に満ちた時代に生きる成長性は全く判断できないではないですか。

 人には個性と意志がある。学校も個性と意志を持つ。どういう若者を育てたいのか。子供たち、青年たちの過去の経験や、特技、人柄、志を勘案して、法人として自主的かつ総合的に選抜しなければいけないと言っているんですよ。

「評価」は「分析」と異なり、本来は客観じゃなく主観です。大学はそれぞれに特色があるので、どういう学生が望ましいかは、みんな違うはずです。文学部と医学部、体育大学と外国語大学、芸術大学、みんな同じわけがない。


主観的な判定をして、後でトラブルが起こった時に
責任問題にしたくない。という考え方が根底にある。

だから、無難な「みんなと一緒」の評価で済ませようとしている。
しかし、博士が言うように、大学がみんな同じなわけがない。
学問によって、選抜される人材が違うのが当たり前であろう。
頭がいい悪いの問題ではない。

極端に言えば、試験など失くして、少子化なんだから
頭の悪い奴もいい奴も、みんな、どこかの大学で教育して
人材として育てるような、大胆な改革が必要なのではないだろうか?

世界が多様性に向かう中、画一性に固執する日本

特定の階層の、既得権の再確認であり、国家的には人的資源の大きな損失です。当人が預かり知らない外的要因で、18歳の時にその後の運命が決まっていいはずがない。将来の進路にもよるが、“規格品”が通用しない科学分野にとっては大問題です。ここでは要領の良さは通じません。守りの姿勢ではなく、全く無から有を生む、ひたむきな攻めの姿勢こそが求められるのです。

世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか。民族性が関係するのでしょうが、私は全く理解できずにいます。世界では人材獲得競争が激化する中、英米の学長らに実情を話し、意見を聞いてみてほしい。これで海外の優秀人材を確保できるのか。安易な形式的公平性を排し、責任を持って主観的判断をすべきです。もはや18歳人口はわずか118万人、1992年の205万人からほぼ半減した。私立大学の定員割れ状況をみても、国内の人材枯渇は明白です。さらに大学生については、国内外の「頭脳循環」(英語でいう「Brain circulation」)を欠くため、数量、質ともに危機的状況にある。このままでは座して死を待つのみです。

さらに言えば、大学院入試における、学部学生の囲い込みもひどい


この偏狭な姿勢は、私も頭に来ているのですが、利己主義の典型で
日本の教育など考えてもいない。
自分のことしか頭にないのである。

「教育最貧国」と言われた日本。

各家庭から、改革を目指しましょう。

《プロフィール》
■野依良治(のより・りょうじ) 1938年9月生まれ、京都大学卒業。名古屋大学特別教授、工学博士。00年に文化勲章を受け、01年に「不斉合成反応の研究」でノーベル化学賞を受賞






         BY いいとこどり









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