2012年05月05日
A094・「OO教室」のすすめ
1、「億劫感」を抑える力
10年ほど前のことになりますが60歳代の中頃、水泳教室に入って三年ほどプールに通ったことがあります。持病の糖尿病運動療法としてでした。
子供の頃に自己流の蛙泳ぎをしていた位で、以来泳ぎとは全く無縁でしたが、60歳代半ばにして平泳ぎ、クロール、バックの三種目二十五メートルプールの向こう側まで、各々それらしい形で(と、自分では思いながら)泳げるようになったという楽しみを経験しました。
週一回の教室と、別の日に一度か二度プールに通ったのですが期待以上のものがありました。
学習効果がハッキリしていて存分に楽しむことが出来ましたし、加えて週一回の教室は怠け心を牽制するのに大きな効果がありました。
教室がある日は何か不思議な力が働いて、多少億劫に思ってもその怠け心を抑えて出かけることになりました。メンバーの皆さんが同じことを言っていたので、教室にはこのような効果があるようです。
何かを習得しようとするとき、その過程で必ずといってよいくらいに取り付かれる「怠け心」をけん制し、また「中だるみ」に刺激を与えるためには「教室」に入ることが非常に効果的であることを知りました。
10年ほど前のことになりますが60歳代の中頃、水泳教室に入って三年ほどプールに通ったことがあります。持病の糖尿病運動療法としてでした。
子供の頃に自己流の蛙泳ぎをしていた位で、以来泳ぎとは全く無縁でしたが、60歳代半ばにして平泳ぎ、クロール、バックの三種目二十五メートルプールの向こう側まで、各々それらしい形で(と、自分では思いながら)泳げるようになったという楽しみを経験しました。
週一回の教室と、別の日に一度か二度プールに通ったのですが期待以上のものがありました。
学習効果がハッキリしていて存分に楽しむことが出来ましたし、加えて週一回の教室は怠け心を牽制するのに大きな効果がありました。
教室がある日は何か不思議な力が働いて、多少億劫に思ってもその怠け心を抑えて出かけることになりました。メンバーの皆さんが同じことを言っていたので、教室にはこのような効果があるようです。
何かを習得しようとするとき、その過程で必ずといってよいくらいに取り付かれる「怠け心」をけん制し、また「中だるみ」に刺激を与えるためには「教室」に入ることが非常に効果的であることを知りました。
因みに、この教室は3年通ったところで退会しました。3種目それぞれOKとなり、残るバタフライのクラスに移るときに、持病の腰痛で自信がなかったため、以後は自分のペースでプール通いを続け、会得した(?)クロール、平泳ぎ、バックの3種目で楽しんでいこうという算段でした。
ところが、案の定というか、退会後はぱったりプールにご無沙汰となってしまいました。
教室効果のような牽引力、強制力?がなくなって、ついつい「怠け虫」に負けてしまったようです。
人間は何か拘束力が働かなければ、何もしない存在のようです。
2、人にはジットしていようとする本能がある?
水は高いところから低いところは流れ、温度は高い方から低い方へ伝わります。
これが自然の摂理です。
兎角、人が楽をしようとするのは、自然の摂理に従ってエネルギー消費を少なく保とうとする本能がある為なのかも知れません。
こう考えると、単に「頑張れ」「頑張れ」だけでは長続きしない事が理解できます。
とは言っても、無制限にエネルギー消費が少なければよい訳でなく、
「生きる」という別の本能で歯止めがかかる。と、話の筋道を組み立ててみます。
「色恋と食の欲とを較べると 恥ずかしながら食が勝れる」と都々逸に読まれるように食への欲は強いようです。
「自然の摂理に従おうとする本能」に逆らいつつ、かつ「生きる」本能によるエネルギー消費増が過剰にならないように!
このバランスを求めながら人は生きていくのが人生だろうか!と考えたりします。
ところが、案の定というか、退会後はぱったりプールにご無沙汰となってしまいました。
教室効果のような牽引力、強制力?がなくなって、ついつい「怠け虫」に負けてしまったようです。
人間は何か拘束力が働かなければ、何もしない存在のようです。
2、人にはジットしていようとする本能がある?
水は高いところから低いところは流れ、温度は高い方から低い方へ伝わります。
これが自然の摂理です。
兎角、人が楽をしようとするのは、自然の摂理に従ってエネルギー消費を少なく保とうとする本能がある為なのかも知れません。
こう考えると、単に「頑張れ」「頑張れ」だけでは長続きしない事が理解できます。
とは言っても、無制限にエネルギー消費が少なければよい訳でなく、
「生きる」という別の本能で歯止めがかかる。と、話の筋道を組み立ててみます。
「色恋と食の欲とを較べると 恥ずかしながら食が勝れる」と都々逸に読まれるように食への欲は強いようです。
「自然の摂理に従おうとする本能」に逆らいつつ、かつ「生きる」本能によるエネルギー消費増が過剰にならないように!
このバランスを求めながら人は生きていくのが人生だろうか!と考えたりします。