2012年04月04日
A063・ひねくれ者の「米談義」(2)
(前回)
1、「健康」を口にするが、その実は!
2、懐かしい言葉「銀シャリ」
(今回)
3、「一升瓶精米法」
3、「一升瓶精米法」
送られてきたメルマガに「体に優しいヘルシー生活を始めましょう」という記事がありました。その一節です。
「玄米、胚芽米がおすすめ。中性脂肪を減らしたいときには、洋食や中華より、脂肪の使用量が少なくてすむ和食がおすすめです。
精白米よりも胚芽精米や玄米にすると、では食物繊維やビタミンをしっかりとることが出来ます。胚芽精米や玄米は、歯ごたえがあるので、良く噛んで食べることになり、満腹感を得ることが出来るでしょう」とありました。
全くこの通りだと思います。ところが世の中は何時の頃からか「お米とは白米であって、胚芽米・玄米は特別な存在なのだ」と思わされるようになってしまっている様です。
”銀シャリ”という言葉をほとんど耳にしないと改めて思わされました。
前回に続いて「ひねくれ者」「小言幸兵衛」調でまいります。
1、「健康」を口にするが、その実は!
2、懐かしい言葉「銀シャリ」
(今回)
3、「一升瓶精米法」
3、「一升瓶精米法」
送られてきたメルマガに「体に優しいヘルシー生活を始めましょう」という記事がありました。その一節です。
「玄米、胚芽米がおすすめ。中性脂肪を減らしたいときには、洋食や中華より、脂肪の使用量が少なくてすむ和食がおすすめです。
精白米よりも胚芽精米や玄米にすると、では食物繊維やビタミンをしっかりとることが出来ます。胚芽精米や玄米は、歯ごたえがあるので、良く噛んで食べることになり、満腹感を得ることが出来るでしょう」とありました。
全くこの通りだと思います。ところが世の中は何時の頃からか「お米とは白米であって、胚芽米・玄米は特別な存在なのだ」と思わされるようになってしまっている様です。
”銀シャリ”という言葉をほとんど耳にしないと改めて思わされました。
前回に続いて「ひねくれ者」「小言幸兵衛」調でまいります。
今は、「ご飯」「めし」=「銀シャリ」が当たり前、というより、この米は白米だ、などと意識する人が少数派になってしまったのだろうと思います。
「銀シャリ」なる言葉はほとんど死語となっているのだろうと思われます。
子供の頃、敗戦後は、お米は滅多に手に入らない貴重品でした。勿論、白米などは庶民の生活とは無縁でした。
配給品か、ヤミルートのものかは覚えていませんが、玄米を一升瓶に半分くらいのところまでか?入れて棒で突いて、疲れては休み、何度も繰り返し、「これでよい」といわれるまで続けるのが「米入りのご飯」への期待と抱き合わせの子供の労働でした。
玄米のままでは消化が悪い。子供が消化不良を起こさないようにと庶民の知恵がこの「一升瓶精米」を考え出したようです。
しかし、精米するほどに、米ぬかや胚芽がとれた分だけ米の量は減ります。3分づきか5分づきか、ぎりぎりのところで「これでよい」となったのでしょう。勿論、米ぬかは煎ったり、調理されたりして、捨てられるようなことはありませんでした。従って白米食による栄養の偏りなどは皆無だったはずです。
たまに配給される僅かな米だけでは空腹を満たすにはほど遠く、くず野菜とかイモとか乾物とかが主で、お米がまばらなご飯でした。「米入りのご飯」と言うわけです。それでも、食事の時までが何とも待ち遠しいものでした。
4、贅沢不感症
高度成長で豊かさの味を覚えた私たち世代は、終戦後の食料危機での辛さを何処かに忘れたような日々を過ごすようになりました。
そして豊かな國に生まれ育った若手の世代と同じく、その後バブルが壊れても、身についた贅沢を贅沢と思わなくなってしまいました。
例えば「お米」です。繰り返しになりますが、日本人の殆ど全部の人にとって
「ご飯」=「白米ご飯」となってしまいました。
健康ブームとやらで「胚芽米」とか「玄米」とかが特別商品扱いされ、ビタミンとか何とかの効能が宣伝され、高価ですが需要がそれなりにあるようです。
イネを脱穀してもみ殻を取ったものが「玄米」であり、これから完全に糠や胚芽を取り除いたものが「白米」であり、ご飯とは「白米」を炊いたものだと思い込んでしまっているように思います。
ご丁寧にも、白米は栄養が偏るから胚芽米を混ぜると良いとか、何とかいう栄養食品で不足する栄養分を補えるとか盛んに宣伝されています。
粟やひえは、武家政権の時代に「米」は年貢とかでほとんどを搾取され、貧困の小作農が命を繫いだ食べ物でした。それが「米」=「白米」の時代になって、不足する栄養素補給源の救世主として高い値段で店の棚に鎮座しています。
考えるまでもなく矛盾した話しです。最初から5分づき、7分づきが流通する世の中であったならば、この様な無駄な栄養補給は無用であったはずです。勿論、粟やひえを味わうこと自体には何の異論もありません。
「贅沢な状態」が、ものを見たり考えたりする際の当たり前の基準になってしまっているように思えます。
基準点は本来は「玄米」であるはずなのに、現在の私たちの基準点は「白米」になってしまっている。それに気付かないでいると思うのですが如何でしょうか。
完全に精米することで余分の手間暇・費用をかけ、その結果生じた栄養バランスの偏りを補うべく別の手段に手間暇・費用をかける。
最初から例えば7分(しちぶ)づきを常態にすれば、行き過ぎた精米も、栄養補足の対処も不要であり無駄なエネルギー消費はなくなるはずです。
正常な感覚がマヒして、無意識なままに大きな無駄を生じ、社会全体に蔓延している例が米に限らず、他にも多々あるのではないでしょうか。これらを抽出し取り除くことで世の中は大きな改善が成されるはずだと思ったりします。
とは言っても、現状が急に変えられるわけはなく、現在に生きる人々の健康を維持向上することは必須のこと。「健康ブーム」と上手に向き合っていくことが大切と思っています。
「銀シャリ」なる言葉はほとんど死語となっているのだろうと思われます。
子供の頃、敗戦後は、お米は滅多に手に入らない貴重品でした。勿論、白米などは庶民の生活とは無縁でした。
配給品か、ヤミルートのものかは覚えていませんが、玄米を一升瓶に半分くらいのところまでか?入れて棒で突いて、疲れては休み、何度も繰り返し、「これでよい」といわれるまで続けるのが「米入りのご飯」への期待と抱き合わせの子供の労働でした。
玄米のままでは消化が悪い。子供が消化不良を起こさないようにと庶民の知恵がこの「一升瓶精米」を考え出したようです。
しかし、精米するほどに、米ぬかや胚芽がとれた分だけ米の量は減ります。3分づきか5分づきか、ぎりぎりのところで「これでよい」となったのでしょう。勿論、米ぬかは煎ったり、調理されたりして、捨てられるようなことはありませんでした。従って白米食による栄養の偏りなどは皆無だったはずです。
たまに配給される僅かな米だけでは空腹を満たすにはほど遠く、くず野菜とかイモとか乾物とかが主で、お米がまばらなご飯でした。「米入りのご飯」と言うわけです。それでも、食事の時までが何とも待ち遠しいものでした。
4、贅沢不感症
高度成長で豊かさの味を覚えた私たち世代は、終戦後の食料危機での辛さを何処かに忘れたような日々を過ごすようになりました。
そして豊かな國に生まれ育った若手の世代と同じく、その後バブルが壊れても、身についた贅沢を贅沢と思わなくなってしまいました。
例えば「お米」です。繰り返しになりますが、日本人の殆ど全部の人にとって
「ご飯」=「白米ご飯」となってしまいました。
健康ブームとやらで「胚芽米」とか「玄米」とかが特別商品扱いされ、ビタミンとか何とかの効能が宣伝され、高価ですが需要がそれなりにあるようです。
イネを脱穀してもみ殻を取ったものが「玄米」であり、これから完全に糠や胚芽を取り除いたものが「白米」であり、ご飯とは「白米」を炊いたものだと思い込んでしまっているように思います。
ご丁寧にも、白米は栄養が偏るから胚芽米を混ぜると良いとか、何とかいう栄養食品で不足する栄養分を補えるとか盛んに宣伝されています。
粟やひえは、武家政権の時代に「米」は年貢とかでほとんどを搾取され、貧困の小作農が命を繫いだ食べ物でした。それが「米」=「白米」の時代になって、不足する栄養素補給源の救世主として高い値段で店の棚に鎮座しています。
考えるまでもなく矛盾した話しです。最初から5分づき、7分づきが流通する世の中であったならば、この様な無駄な栄養補給は無用であったはずです。勿論、粟やひえを味わうこと自体には何の異論もありません。
「贅沢な状態」が、ものを見たり考えたりする際の当たり前の基準になってしまっているように思えます。
基準点は本来は「玄米」であるはずなのに、現在の私たちの基準点は「白米」になってしまっている。それに気付かないでいると思うのですが如何でしょうか。
完全に精米することで余分の手間暇・費用をかけ、その結果生じた栄養バランスの偏りを補うべく別の手段に手間暇・費用をかける。
最初から例えば7分(しちぶ)づきを常態にすれば、行き過ぎた精米も、栄養補足の対処も不要であり無駄なエネルギー消費はなくなるはずです。
正常な感覚がマヒして、無意識なままに大きな無駄を生じ、社会全体に蔓延している例が米に限らず、他にも多々あるのではないでしょうか。これらを抽出し取り除くことで世の中は大きな改善が成されるはずだと思ったりします。
とは言っても、現状が急に変えられるわけはなく、現在に生きる人々の健康を維持向上することは必須のこと。「健康ブーム」と上手に向き合っていくことが大切と思っています。