2015年04月29日
A442・「自由」と「我儘勝手」の混同
1、「自由」でありたいと思いますか?
「自由でありたいと思いますか?」と問われたら、
ほとんど全ての人は何の躊躇もなく「そうでありたいと!」
と願うことでしょう。
しかし、一呼吸おいて「でもね!」と思います。
「自由」という言葉が、「そうでありたいと!」と願うのとは随分違った意味と混同され、使われていることが少なくない様に思うのです。
朝日新聞(2015年4月18日)に、頻発する山の遭難防止について「登山届の義務化」(岐阜県)、「登山条例案」(長野県)という規制の動きと、これに対する賛否両論が大きく報じられていました。
前回のマイブログA441「山の遭難〜規制と自覚」https://fanblogs.jp/hapise/archive/578/0でこの問題を取り上げました。
反対意見(登山家・弁護士)は「憲法上、国民の自由を制限する規制は必要最小限でなければならない」「登山届義務化で遭難が減るとは思われない」・・とあり、一般に「登山は自由」という風潮がある様です。
私は「自由」と「無責任な我儘勝手」の混同ではないか・・と思っています。
今回は、「自由」とは?について補足致したいと思います。
2、「自由」とは
「自由」という言葉は、もともとは仏教用語に由来するとのこと。
欲望からの解脱(げだつ)を意味するとの説明があります。
あらゆる拘束から解き放たれた境地、悟りの境地をいうのだそうです。
仏や菩薩はその様な境地に至っていて、仏のことを「自在人」といい、観世音菩薩のことを「観自在菩薩」いうのだそうです。
日常語「自由自在」のルーツと心得ます。
「自由」とは!
現実の人間社会に生きる私たちにとっては、「生涯をかけて求め続ける理想の境地」と理解されます。
しかし、人は自分一人だけで生きていくことは出来ません。
この人間社会で生きていく限り、人間社会の秩序を乱さない!人に迷惑をかけない!人に危害を加えない!という大前提があるはずです。
これは法律以前の不文律であり、「人間社会の掟」と言ってもよいだろうと思います。
「人間社会の掟」は、そこに生きる者として守らなければならないはずです。
悟りの境地に遠く及ばない私たち人間は、
「自由」と聞けば「思うまま、気まま」という言葉だけを連想し、
「自由に生きる」と言えば「気ままに生きる」、「欲望の赴くまま生きる」ことと同義であると短絡し、錯覚しがちです。
これが普遍化して、今の日本語では「自由」と「勝手気まま」が混同され、氾濫する傾向が強まっているようです。
本来の理想の境地である「自由」とは逆の生き方を連想させる言葉として使われるケースが増えている様にうかがえるのです。
「登山は自由・・」と言うのはまさにこの例で、「入山届けの義務化は憲法で保証される国民の自由を制限するものだ」と言っているようです。
登山道がなければ、趣味の人たちの登山はほとんどあり得ないでしょう。
登山道は、ある必要に迫られて開設された先人の尊い遺産であり、以降これを維持管理してきた多くの人々の努力があって賜物です。
更に、救援、救助に多くの人々が日夜訓練に励み、一旦事あれば命がけの活動が為されます。尊い殉職も少なくありません。
これだけを考えても、何の「挨拶」もせずに(入山届けを出そうとせず、中にはウソの記述もあるとか)ズケズケと山に入って行くことを「憲法で保障される自由」だと言うのには強い違和感を覚えます。
登山は健全なスポーツと思っているだけに、この様な考えには
「そうではないでしょう!」と言いたくなるのです。
どう考えても 仏教語をルーツとする理想の境地としての「自由」ではなく、
「我儘勝手」そのものだと思うのです。
因みに、上記「挨拶」もまた仏教語で、禅家で、門下の僧に押し問答して、悟りの深浅を試すことだった由。
そこから、人に会ったときや別れるときなどに取り交わす、礼にかなった動作や言葉になったようです。
挨拶は、心を開いて相手にせまる、いわば暮らしの潤滑油みたいなもの!と言う説明もあります。言葉だけにかぎらず、人と人の触れ合いをもとうとする場合に、欠かすことのできない儀礼的な動作だというのです。
別に挨拶がなくてもお互いに困ることはないけれど、この人間社会の一員として生きる以上、油のきれた機械がいやな音を立ててきしむように、挨拶を忘れると、人の心も荒れて気まずくなることも事実である。と綴られています。
同感です!!
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該当するジャンルの(1)〜(8)をクリックいただくと、そこに分類されているタイトルが一覧され、
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1、「日記・諸事寸話」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(1)
2-1、「身体の健康」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(2)
2-2、「運動」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(3)
2-3、「食習慣・食生活」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(4)
3、「心・頭脳の健康」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(5)
4-1、「病気・傷害・医療」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(6)
4-2、「糖尿病」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(7)
5、「福祉・介護・看護」
「ジャンルなし」
・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(8)
「自由でありたいと思いますか?」と問われたら、
ほとんど全ての人は何の躊躇もなく「そうでありたいと!」
と願うことでしょう。
しかし、一呼吸おいて「でもね!」と思います。
「自由」という言葉が、「そうでありたいと!」と願うのとは随分違った意味と混同され、使われていることが少なくない様に思うのです。
朝日新聞(2015年4月18日)に、頻発する山の遭難防止について「登山届の義務化」(岐阜県)、「登山条例案」(長野県)という規制の動きと、これに対する賛否両論が大きく報じられていました。
前回のマイブログA441「山の遭難〜規制と自覚」https://fanblogs.jp/hapise/archive/578/0でこの問題を取り上げました。
反対意見(登山家・弁護士)は「憲法上、国民の自由を制限する規制は必要最小限でなければならない」「登山届義務化で遭難が減るとは思われない」・・とあり、一般に「登山は自由」という風潮がある様です。
私は「自由」と「無責任な我儘勝手」の混同ではないか・・と思っています。
今回は、「自由」とは?について補足致したいと思います。
2、「自由」とは
「自由」という言葉は、もともとは仏教用語に由来するとのこと。
欲望からの解脱(げだつ)を意味するとの説明があります。
あらゆる拘束から解き放たれた境地、悟りの境地をいうのだそうです。
仏や菩薩はその様な境地に至っていて、仏のことを「自在人」といい、観世音菩薩のことを「観自在菩薩」いうのだそうです。
日常語「自由自在」のルーツと心得ます。
「自由」とは!
現実の人間社会に生きる私たちにとっては、「生涯をかけて求め続ける理想の境地」と理解されます。
しかし、人は自分一人だけで生きていくことは出来ません。
この人間社会で生きていく限り、人間社会の秩序を乱さない!人に迷惑をかけない!人に危害を加えない!という大前提があるはずです。
これは法律以前の不文律であり、「人間社会の掟」と言ってもよいだろうと思います。
「人間社会の掟」は、そこに生きる者として守らなければならないはずです。
悟りの境地に遠く及ばない私たち人間は、
「自由」と聞けば「思うまま、気まま」という言葉だけを連想し、
「自由に生きる」と言えば「気ままに生きる」、「欲望の赴くまま生きる」ことと同義であると短絡し、錯覚しがちです。
これが普遍化して、今の日本語では「自由」と「勝手気まま」が混同され、氾濫する傾向が強まっているようです。
本来の理想の境地である「自由」とは逆の生き方を連想させる言葉として使われるケースが増えている様にうかがえるのです。
「登山は自由・・」と言うのはまさにこの例で、「入山届けの義務化は憲法で保証される国民の自由を制限するものだ」と言っているようです。
登山道がなければ、趣味の人たちの登山はほとんどあり得ないでしょう。
登山道は、ある必要に迫られて開設された先人の尊い遺産であり、以降これを維持管理してきた多くの人々の努力があって賜物です。
更に、救援、救助に多くの人々が日夜訓練に励み、一旦事あれば命がけの活動が為されます。尊い殉職も少なくありません。
これだけを考えても、何の「挨拶」もせずに(入山届けを出そうとせず、中にはウソの記述もあるとか)ズケズケと山に入って行くことを「憲法で保障される自由」だと言うのには強い違和感を覚えます。
登山は健全なスポーツと思っているだけに、この様な考えには
「そうではないでしょう!」と言いたくなるのです。
どう考えても 仏教語をルーツとする理想の境地としての「自由」ではなく、
「我儘勝手」そのものだと思うのです。
因みに、上記「挨拶」もまた仏教語で、禅家で、門下の僧に押し問答して、悟りの深浅を試すことだった由。
そこから、人に会ったときや別れるときなどに取り交わす、礼にかなった動作や言葉になったようです。
挨拶は、心を開いて相手にせまる、いわば暮らしの潤滑油みたいなもの!と言う説明もあります。言葉だけにかぎらず、人と人の触れ合いをもとうとする場合に、欠かすことのできない儀礼的な動作だというのです。
別に挨拶がなくてもお互いに困ることはないけれど、この人間社会の一員として生きる以上、油のきれた機械がいやな音を立ててきしむように、挨拶を忘れると、人の心も荒れて気まずくなることも事実である。と綴られています。
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