2012年03月27日
A055・「出不精」は「心身の老化」を促進する
1、時には流れに竿をさす
水は高いところから低いところへ流れます。
温度も高いところから低いところへ伝わります
人は苦労よりも安楽を望みます。
額に汗するよりも、何もせずにノンビリ、ボンヤリと過ごす時が至福の極地なのかも知れません。
エネルギーが最も低い状態であることが最も安定した状態であるのはものの道理でしょうが、人間は108の煩悩を持っていますから、事情が異なってきます。
「生きる」為に「健康でありたい」という欲望があり、
この為には「栄養のあるものを食べたい」と望み、
「病から身を守りたい」と思い、
その為に運動をして丈夫な身体をつくろうとするのだろうと思います。
水は高いところから低いところへ流れます。
温度も高いところから低いところへ伝わります
人は苦労よりも安楽を望みます。
額に汗するよりも、何もせずにノンビリ、ボンヤリと過ごす時が至福の極地なのかも知れません。
エネルギーが最も低い状態であることが最も安定した状態であるのはものの道理でしょうが、人間は108の煩悩を持っていますから、事情が異なってきます。
「生きる」為に「健康でありたい」という欲望があり、
この為には「栄養のあるものを食べたい」と望み、
「病から身を守りたい」と思い、
その為に運動をして丈夫な身体をつくろうとするのだろうと思います。
ノンビリ、ボンヤリは、エネルギ最低が安定状態という自然界の摂理にかなう人間の本能であり、
心身の健康を求めることは、生きるためにエネルギーレベルを高める欲望にもとづく動作であるように思います。
私たちはこの両者のせめぎ合いをコントロールしながら日々を過ごしている訳で、
かく言う私も、本質的にはノンビリ、ユックリを望みながら、時には流れに棹さして、頑張りすぎない程度に頑張って過ごしております。
今はこう思っていますが、勤めていた頃は休みたいと思うことがあっても兎に角毎朝出勤していました。頑張りすぎる位頑張っていました。というより、そうせざるを得ない状況にありました。
退職後はこれが無くなって開放感を覚えたのですが、やがて慣れてしまうと何も感じなくなってしまい、気がつくと、すっかり出不精になってしまって、テレビを見たり、ごろごろして日々を過ごしていました。
在職中の心身両面での蓄積披露を癒すため、ある程度の期間はこれもヨシとしましたが、やがて「ちょっとだけ頑張って」、出来るだけ外の空気を吸うように心がけるようになりました。
2、「出不精」と「心身の老化」
退職して十数年経た今も、年に2、3度会うようにしている友人がいます。過日、数人が集まって半日を楽しく過ごしたときの話しです。
天気も良く、新宿御苑で散策と昼食の数時間でして、つもる話しは尽きることなく、御苑の素晴らしい木々と芝生の緑を満喫しながらの会話は実に楽しいものでした。
その話題の一つに「誘っても出てこない友人」がありました。
「体調不良とか、他に用事があるのではなく、出かけることが面倒らしい」というのです。
現役時代に苦労を共にして気心はお互いに知り尽くしていますし、以前なら二つ返事で出てきたであろう友なのに、「自分だけの世界に閉じこもり、気分的に世間と隔離した状態にあるような印象を受けた」とのこと。
当日の参加者が体験を交えながら話したことは「家に閉じこもっていると、いつの間にか自分本位な物の見方・考え方に陥ってしまう。
その狭まった見方・考え方の中で、自分が正しくて世間の奴らはつまらない。と、思いこみ、何でも不平・不満に思えてしまう」。
「人はそれぞれ違った立場・環境で、さまざまな見方・考え方で行動し、お互いの融和を計りながら社会が成り立っていることは、現役時代に存分に体験してきたはずなのに、世間との交流が薄れて一人でいると、人間にはこんな弱い面が出てくるようだ」といった話しになりました。
こんな傾向が続くと「背中を丸め、暗い表情をして、何時もブツブツ言っている老人」か「表情のない、無気力な老人」に成ってしまいそうです。
3、こうならない為に、なったときの為に
当該友人がこんな状態の深みに陥らないように2度3度は誘いをかけてみよう、3度かけて反応がないようなら、我々がなすべきはその辺までかな。と、意見が収斂しました。
我々自身も「今日のような交流やその他何かにつけて ”ちょっとだけ頑張って” 交流の輪を広げるように心しようと話し合ったことでした。
「今はこうして行動できるが、何時か怪我や体調不良で動けなくなる」
その時、自分はどうするか・・
・「その時の状況次第」「その時はその時」として先送りにするか
・「こういうキッカケがあったときによく考え、周りの人とも話し合っておくべき」とするか。
私は前者的な性格のようです。後者のように出来るのが良いのでしょうが、さて、どうなりますやら。
心身の健康を求めることは、生きるためにエネルギーレベルを高める欲望にもとづく動作であるように思います。
私たちはこの両者のせめぎ合いをコントロールしながら日々を過ごしている訳で、
かく言う私も、本質的にはノンビリ、ユックリを望みながら、時には流れに棹さして、頑張りすぎない程度に頑張って過ごしております。
今はこう思っていますが、勤めていた頃は休みたいと思うことがあっても兎に角毎朝出勤していました。頑張りすぎる位頑張っていました。というより、そうせざるを得ない状況にありました。
退職後はこれが無くなって開放感を覚えたのですが、やがて慣れてしまうと何も感じなくなってしまい、気がつくと、すっかり出不精になってしまって、テレビを見たり、ごろごろして日々を過ごしていました。
在職中の心身両面での蓄積披露を癒すため、ある程度の期間はこれもヨシとしましたが、やがて「ちょっとだけ頑張って」、出来るだけ外の空気を吸うように心がけるようになりました。
2、「出不精」と「心身の老化」
退職して十数年経た今も、年に2、3度会うようにしている友人がいます。過日、数人が集まって半日を楽しく過ごしたときの話しです。
天気も良く、新宿御苑で散策と昼食の数時間でして、つもる話しは尽きることなく、御苑の素晴らしい木々と芝生の緑を満喫しながらの会話は実に楽しいものでした。
その話題の一つに「誘っても出てこない友人」がありました。
「体調不良とか、他に用事があるのではなく、出かけることが面倒らしい」というのです。
現役時代に苦労を共にして気心はお互いに知り尽くしていますし、以前なら二つ返事で出てきたであろう友なのに、「自分だけの世界に閉じこもり、気分的に世間と隔離した状態にあるような印象を受けた」とのこと。
当日の参加者が体験を交えながら話したことは「家に閉じこもっていると、いつの間にか自分本位な物の見方・考え方に陥ってしまう。
その狭まった見方・考え方の中で、自分が正しくて世間の奴らはつまらない。と、思いこみ、何でも不平・不満に思えてしまう」。
「人はそれぞれ違った立場・環境で、さまざまな見方・考え方で行動し、お互いの融和を計りながら社会が成り立っていることは、現役時代に存分に体験してきたはずなのに、世間との交流が薄れて一人でいると、人間にはこんな弱い面が出てくるようだ」といった話しになりました。
こんな傾向が続くと「背中を丸め、暗い表情をして、何時もブツブツ言っている老人」か「表情のない、無気力な老人」に成ってしまいそうです。
3、こうならない為に、なったときの為に
当該友人がこんな状態の深みに陥らないように2度3度は誘いをかけてみよう、3度かけて反応がないようなら、我々がなすべきはその辺までかな。と、意見が収斂しました。
我々自身も「今日のような交流やその他何かにつけて ”ちょっとだけ頑張って” 交流の輪を広げるように心しようと話し合ったことでした。
「今はこうして行動できるが、何時か怪我や体調不良で動けなくなる」
その時、自分はどうするか・・
・「その時の状況次第」「その時はその時」として先送りにするか
・「こういうキッカケがあったときによく考え、周りの人とも話し合っておくべき」とするか。
私は前者的な性格のようです。後者のように出来るのが良いのでしょうが、さて、どうなりますやら。