2012年02月06日
A005 「習慣」という自作の遺伝子〜(2)
「人間は親から遺伝子をもらって、50才まではそれで生きられる。でも50才を過ぎたら第2の遺伝子を作らなければならず、それが習慣です。」とのお話があります。
年齢を重ねる自分と冷静に向き合って、健康な”習慣”を作っていきたいと思います。
年齢を重ねる自分と冷静に向き合って、健康な”習慣”を作っていきたいと思います。
前回
1、老年医学
今回
2、50才過ぎたら「(習慣)という自分の遺伝子」を作らなければならない
日野原重明先生曰く「人間は親から遺伝子をもらって、50才まではそれで生きられる。でも50才を過ぎたら第2の遺伝子を作らなければならず、それが習慣です。」
「新しい遺伝子=良い習慣」を作る。明るい気持ちが健康の礎。食に関しても先ず楽しんで食べることなどなどの大切さを説いておられます。
以前は「成人病」と言う言葉で括られていた心臓病、肝臓病、糖尿病などを「生活習慣病」と呼び改めるよう日野原先生は政府に提案された由。「生活習慣病」の語源がここにある事を知りました。
「成人病」では、”ある年齢層に多い病気”という受け身のイメージがありますが、
「生活習慣病」には生活習慣をコントロールすれば、病気もコントロール出来るよ!という前向きの道が示されるように読むことが出来そうです。
これからの人生では、他の人がどうのこうのという前に、先ず自分が動く事を心がけたいと願っています。自分の目標を持ち充実した生活を送っている人たち、趣味を持って楽しんでいる人たちからは、”自らが行動している”というパワーを感じます。
「自分の人生は自分が作るものであって、誰かに作ってもらうものではない」
「スーパーやコンビニに売っているものではない」
こんな当たり前な事を私たちはつい思い違いすることがあるようです。
私は自分の健康習慣を作るのが遅れて、生活習慣病である糖尿病を発病させてしまいました。振り返ってみると、徴候が現れて、医師からの警告もあって、自分のための生活習慣を作る期間は十分にあったのですが、その努力を怠っていました。自覚に欠けていました。
糖尿病と診断されてから4年後に退職しましたが、この時代ほとんどの人がそうであった様に仕事人間で通してきた悲しさで、いざ退職してみると、仕事に代わって毎日を打ち込むものは何もありませんでした。
持病のために義務的に歩くことを日課とする日が続いきました。「このままでは長続きしそうにない」と考え「歩くコースに変化をもたせる」など、あれこれ試行錯誤をおこなったのがせめてもの救いでした。
そのうちに「山野草」に興味を覚え始め、記録のために「パソコン」「デジカメ」を扱うようになり、新たな興味が連鎖的に湧いて来ました。私にも趣味と言えるものが育ってきました。同好の方々との新たな交流も始まって環境も整ってきました。
折々の状況、思ったこと・思わせられたことを文章に書き綴っても来ました。これが積もり積もって数冊の分厚いファイルなっています。
この限りでは、日野原先生の教えにある程度沿って来たようだと自己満足的に思ったりもします。
「遅すぎるスタートはない」
かってNHKの気象予報で名調子を楽しませてくれた倉嶋厚さんの言葉を改めて思い起こしています。
1、老年医学
今回
2、50才過ぎたら「(習慣)という自分の遺伝子」を作らなければならない
日野原重明先生曰く「人間は親から遺伝子をもらって、50才まではそれで生きられる。でも50才を過ぎたら第2の遺伝子を作らなければならず、それが習慣です。」
「新しい遺伝子=良い習慣」を作る。明るい気持ちが健康の礎。食に関しても先ず楽しんで食べることなどなどの大切さを説いておられます。
以前は「成人病」と言う言葉で括られていた心臓病、肝臓病、糖尿病などを「生活習慣病」と呼び改めるよう日野原先生は政府に提案された由。「生活習慣病」の語源がここにある事を知りました。
「成人病」では、”ある年齢層に多い病気”という受け身のイメージがありますが、
「生活習慣病」には生活習慣をコントロールすれば、病気もコントロール出来るよ!という前向きの道が示されるように読むことが出来そうです。
これからの人生では、他の人がどうのこうのという前に、先ず自分が動く事を心がけたいと願っています。自分の目標を持ち充実した生活を送っている人たち、趣味を持って楽しんでいる人たちからは、”自らが行動している”というパワーを感じます。
「自分の人生は自分が作るものであって、誰かに作ってもらうものではない」
「スーパーやコンビニに売っているものではない」
こんな当たり前な事を私たちはつい思い違いすることがあるようです。
私は自分の健康習慣を作るのが遅れて、生活習慣病である糖尿病を発病させてしまいました。振り返ってみると、徴候が現れて、医師からの警告もあって、自分のための生活習慣を作る期間は十分にあったのですが、その努力を怠っていました。自覚に欠けていました。
糖尿病と診断されてから4年後に退職しましたが、この時代ほとんどの人がそうであった様に仕事人間で通してきた悲しさで、いざ退職してみると、仕事に代わって毎日を打ち込むものは何もありませんでした。
持病のために義務的に歩くことを日課とする日が続いきました。「このままでは長続きしそうにない」と考え「歩くコースに変化をもたせる」など、あれこれ試行錯誤をおこなったのがせめてもの救いでした。
そのうちに「山野草」に興味を覚え始め、記録のために「パソコン」「デジカメ」を扱うようになり、新たな興味が連鎖的に湧いて来ました。私にも趣味と言えるものが育ってきました。同好の方々との新たな交流も始まって環境も整ってきました。
折々の状況、思ったこと・思わせられたことを文章に書き綴っても来ました。これが積もり積もって数冊の分厚いファイルなっています。
この限りでは、日野原先生の教えにある程度沿って来たようだと自己満足的に思ったりもします。
「遅すぎるスタートはない」
かってNHKの気象予報で名調子を楽しませてくれた倉嶋厚さんの言葉を改めて思い起こしています。