2012年07月01日
A151・数字で辿る江戸・東京散歩(2)
(前回)
「1」東京都千代田区千代田1番1号
「2」二重橋
「3」三鷹
三軒茶屋
三ノ輪
「4」四谷
「5」五反田
五日市街道
(今回)「6」〜「10」
「6」
・六本木
「6本の松の木があったことに由来する」という説や
「青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の各大名屋敷が存在したことに由来する」という説などがあります。
「1」東京都千代田区千代田1番1号
「2」二重橋
「3」三鷹
三軒茶屋
三ノ輪
「4」四谷
「5」五反田
五日市街道
(今回)「6」〜「10」
「6」
・六本木
「6本の松の木があったことに由来する」という説や
「青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の各大名屋敷が存在したことに由来する」という説などがあります。
・六義園
説明書によると、徳川五代将軍・綱吉の側用人・柳沢吉保が、下屋敷として造営した大名庭園で、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園。
「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』序文に書いた「風、賦、比、興、雅、頌」の「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。
自らも和歌に造詣が深かった柳沢吉保が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられています。
明治の初年に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備し、昭和13年 (1938) には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった由(有料)。昭和28年 (1953) に特別名勝に指定されました。
躑躅の花が特に有名で、入口近くにある枝垂桜も3月末に枝いっぱいの薄紅色の花を咲かせる名木で、実に見事です。
「7」
・環七
東京都市計画道路幹線街路環状第7号線として整備されたことから、環七通りあるいは環七(かんなな)の通称で広く知られる幹線道路。東京都道318号環状七号線。
東京都大田区平和島を基点に、練馬区、北区、足立区、葛飾区などを経由して江戸川区臨海町に至る主要地方道(都道)。
参考までに「東京都市計画道路の環状線」 を一覧いたします。
環状第1号線〜 国道1号・国道20号・都道401号・都道403号(日比谷通り・晴海通り・内堀通り・永代通り)
環状第2号線〜 都道484号・都道50号・都道405号・国道17号(豊洲大橋・新大橋通り・外堀通り)
環状第3号線〜 都道319号・都道8号(環状3号線・外苑東通り・新目白通り・目白通り・言問通り・三ツ目通り)
環状第4号線〜 都道418号・都道302号・都道25号・都道437号・都道457号・都道305号・都道476号(外苑西通り・抜弁天通り・早稲田通り・目白通り・不忍通り・道灌山通り・明治通り・丸八通り)
環状第5の1号線・環状第5の2号線〜 都道305号・都道435号・都道306号(明治通り・御苑通り)
環状第6号線〜 都道317号(山手通り)
環状第7号線〜 都道318号(環七通り)
環状第8号線〜 都道311号(環八通り)
東京湾環状線 〜国道357号(東京湾岸道路)
外郭環状線の2 (計画中)
外郭環状葛飾線〜 国道298号
「8」
・八丈島
現在は「東京都亜熱帯区」八丈島であり、多くの観光客を集めています。
この八丈島が、古来、流人の島として歴史を刻んできました。
・平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が八丈小島で自害した伝説が残っている由。
・八丈島の公式な流人第一号は、関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家。
・江戸時代、小さな舟に帆をかけて風まかせで3ヶ月以上もかかったという「八丈送り」は、それこそ当時いのちがけの大仕事だったと思われます。
当時の八丈島は鳥も通わぬといわれるほど不便な遠い島で、一度流された者は、 いかにしても逃げ帰ることが不可能だったと伝えられています。
・最後の流人は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されているとか。
・八王子
平安時代、妙行という僧が深沢山(今の八王子城山)で修業をしていたとき、牛頭天王(ごずてんのう)が八人の王子とともに現れたので、妙行は深沢山と周囲八つの峰に祠(ほこら)を建てて牛頭天王と八人の王子(八王子権現)を祭ったという伝説があります。
天正10年(1582)頃、北条氏照が深沢山に城を築き、八王子権現を城の守り神としたので、城は「八王子城」、城下の町は「八王子」と呼ばれるようになったといわれます。
八王子城は秀吉に攻められ落城しました。
・八丁堀
江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(1町は60間約109m)あったため「八町堀」と呼ばれ、町名になったとされています。後に「町」が略字の「丁」となりました。
江戸時代には江戸町奉行所の同心・与力の居住区となっていたため、彼らを主人公とした時代劇の舞台になります。
・八重洲
東京駅西側の出口(皇居方面)(丸の内)の反対側、東側の出口(日本橋方面)がを「八重洲口」。
八重洲の地名は、ここに住んでいたオランダ人ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Lodensteijn)の和名「耶楊子(やようす)」に由来するとのこと。彼は、江戸時代に日本に漂着し、後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍し、家康からこの地に邸を与えられたと伝えられています。
「9」
・九段坂
江戸のはじめ宝永の頃に、坂に沿って九段になった御用屋敷長屋をつくり、江戸城のお花畑の役人をおいたのが九段坂の名の起りといわれます。古くは飯田坂と呼ばれていたとか。
「今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして、且つ急峻なりし故に、車馬は通すことなかりし・・」と記されています。
「10」
・麻布十番
町域の大部分は古川に続く低地であり、高級住宅地が多い麻布にあって下町の風情をたたえてきたと言われます。
現在の「麻布十番」は1962年(昭和37年)に、それまでの10カ所ほどの麻布OO町が統合された区画の町名で、「十番」の名称は、十番組屋敷、十番橋など、江戸時代の町名だった里俗称を復活したもの、と記録されています。
麻布十番付近には長く鉄道の駅がなく、1km以上離れたところにある最寄り駅・六本木駅からも高低差があるために「陸の孤島」とも呼ばれていました。
2000年(平成12年)に麻布十番駅が完成して地下鉄・南北線と大江戸線が相次いで開通、さらに2003年(平成15年)には隣接する六本木6丁目に複合施設 『六本木ヒルズ』が開業するなど、麻布十番を取り巻く環境は一変しました。
あとがき
この度は「1」〜「10」の江戸・東京散歩でしたが、名所・地名の由来を尋ねると、興味は尽きることがなさそうです。
住居表示の変更で昔からの由緒ある地名が、便利さと引き替えに随分消えていきました。今般、スカイツリーの開業で「業平駅」が「とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋)」に改名されました。
ただ、新駅名には(旧業平橋)と旧駅名を併記するという粋な心配りが為されています。
下町情緒を感じ嬉しくなります。
地名や施設名は時代とともに変わっていきます。
「温故知新」、古きを訪ねることで、「目から鱗」の新たな東京発見があることを体験致しました。
説明書によると、徳川五代将軍・綱吉の側用人・柳沢吉保が、下屋敷として造営した大名庭園で、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園。
「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』序文に書いた「風、賦、比、興、雅、頌」の「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。
自らも和歌に造詣が深かった柳沢吉保が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられています。
明治の初年に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備し、昭和13年 (1938) には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった由(有料)。昭和28年 (1953) に特別名勝に指定されました。
躑躅の花が特に有名で、入口近くにある枝垂桜も3月末に枝いっぱいの薄紅色の花を咲かせる名木で、実に見事です。
「7」
・環七
東京都市計画道路幹線街路環状第7号線として整備されたことから、環七通りあるいは環七(かんなな)の通称で広く知られる幹線道路。東京都道318号環状七号線。
東京都大田区平和島を基点に、練馬区、北区、足立区、葛飾区などを経由して江戸川区臨海町に至る主要地方道(都道)。
参考までに「東京都市計画道路の環状線」 を一覧いたします。
環状第1号線〜 国道1号・国道20号・都道401号・都道403号(日比谷通り・晴海通り・内堀通り・永代通り)
環状第2号線〜 都道484号・都道50号・都道405号・国道17号(豊洲大橋・新大橋通り・外堀通り)
環状第3号線〜 都道319号・都道8号(環状3号線・外苑東通り・新目白通り・目白通り・言問通り・三ツ目通り)
環状第4号線〜 都道418号・都道302号・都道25号・都道437号・都道457号・都道305号・都道476号(外苑西通り・抜弁天通り・早稲田通り・目白通り・不忍通り・道灌山通り・明治通り・丸八通り)
環状第5の1号線・環状第5の2号線〜 都道305号・都道435号・都道306号(明治通り・御苑通り)
環状第6号線〜 都道317号(山手通り)
環状第7号線〜 都道318号(環七通り)
環状第8号線〜 都道311号(環八通り)
東京湾環状線 〜国道357号(東京湾岸道路)
外郭環状線の2 (計画中)
外郭環状葛飾線〜 国道298号
「8」
・八丈島
現在は「東京都亜熱帯区」八丈島であり、多くの観光客を集めています。
この八丈島が、古来、流人の島として歴史を刻んできました。
・平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が八丈小島で自害した伝説が残っている由。
・八丈島の公式な流人第一号は、関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家。
・江戸時代、小さな舟に帆をかけて風まかせで3ヶ月以上もかかったという「八丈送り」は、それこそ当時いのちがけの大仕事だったと思われます。
当時の八丈島は鳥も通わぬといわれるほど不便な遠い島で、一度流された者は、 いかにしても逃げ帰ることが不可能だったと伝えられています。
・最後の流人は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されているとか。
・八王子
平安時代、妙行という僧が深沢山(今の八王子城山)で修業をしていたとき、牛頭天王(ごずてんのう)が八人の王子とともに現れたので、妙行は深沢山と周囲八つの峰に祠(ほこら)を建てて牛頭天王と八人の王子(八王子権現)を祭ったという伝説があります。
天正10年(1582)頃、北条氏照が深沢山に城を築き、八王子権現を城の守り神としたので、城は「八王子城」、城下の町は「八王子」と呼ばれるようになったといわれます。
八王子城は秀吉に攻められ落城しました。
・八丁堀
江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(1町は60間約109m)あったため「八町堀」と呼ばれ、町名になったとされています。後に「町」が略字の「丁」となりました。
江戸時代には江戸町奉行所の同心・与力の居住区となっていたため、彼らを主人公とした時代劇の舞台になります。
・八重洲
東京駅西側の出口(皇居方面)(丸の内)の反対側、東側の出口(日本橋方面)がを「八重洲口」。
八重洲の地名は、ここに住んでいたオランダ人ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Lodensteijn)の和名「耶楊子(やようす)」に由来するとのこと。彼は、江戸時代に日本に漂着し、後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍し、家康からこの地に邸を与えられたと伝えられています。
「9」
・九段坂
江戸のはじめ宝永の頃に、坂に沿って九段になった御用屋敷長屋をつくり、江戸城のお花畑の役人をおいたのが九段坂の名の起りといわれます。古くは飯田坂と呼ばれていたとか。
「今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして、且つ急峻なりし故に、車馬は通すことなかりし・・」と記されています。
「10」
・麻布十番
町域の大部分は古川に続く低地であり、高級住宅地が多い麻布にあって下町の風情をたたえてきたと言われます。
現在の「麻布十番」は1962年(昭和37年)に、それまでの10カ所ほどの麻布OO町が統合された区画の町名で、「十番」の名称は、十番組屋敷、十番橋など、江戸時代の町名だった里俗称を復活したもの、と記録されています。
麻布十番付近には長く鉄道の駅がなく、1km以上離れたところにある最寄り駅・六本木駅からも高低差があるために「陸の孤島」とも呼ばれていました。
2000年(平成12年)に麻布十番駅が完成して地下鉄・南北線と大江戸線が相次いで開通、さらに2003年(平成15年)には隣接する六本木6丁目に複合施設 『六本木ヒルズ』が開業するなど、麻布十番を取り巻く環境は一変しました。
あとがき
この度は「1」〜「10」の江戸・東京散歩でしたが、名所・地名の由来を尋ねると、興味は尽きることがなさそうです。
住居表示の変更で昔からの由緒ある地名が、便利さと引き替えに随分消えていきました。今般、スカイツリーの開業で「業平駅」が「とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋)」に改名されました。
ただ、新駅名には(旧業平橋)と旧駅名を併記するという粋な心配りが為されています。
下町情緒を感じ嬉しくなります。
地名や施設名は時代とともに変わっていきます。
「温故知新」、古きを訪ねることで、「目から鱗」の新たな東京発見があることを体験致しました。