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プロフィール

はぴせ
元会社員の後期高齡者。自称平均的な日本人。札幌市出身、東京都在住。「心と体の健康維持・増進」を願い、求める極意は「自然体」で「頑張りすぎない程度に頑張って」日々を暮らすこと。
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2012年06月30日
A150・数字で辿る江戸・東京散歩(1)
「1」から「10」迄、東京の名所・地名を並べられるか?
こんな設問を思いつき、思いつくままに書き出してみました。

沢山ある様でもあり、案外少ないようでもあり、兎に角、これは!と思うものを並べて、それぞれに若干の添え書きを試みました。しかし、いざ書こうとすると覚えていることの曖昧さが目立ちます。

それぞれについて調べ出すと、あれもこれも!と興味が広がって、なんとも楽しい「頭の体操」になりました。
私の「数字で辿る江戸・東京散歩」です。


「1」

東京都千代田区千代田1番1号

皇居の住所表示です。郵便番号は100-0001
因みに皇居には「地番」がありません。
明治以来一貫して国有地である土地は、登記されたことがなく、従って皇居や宮内庁には住居表示はあるけれど地番はありません。
上記「千代田1番1号」の1番は「地番」ではなく(住居表示実施後)の街区符号なのです。

−住居表示の表示例−
(住居表示実施前)
  千代田区○○町○丁目  ○○番地  
         町  名      地番

(住居表示実施後) 
  千代田区○○町○丁目  ○○番  ○○号
         町  名    街区符号  住居番号

「2」

二重橋

皇居の入り口には、皇居前広場側から見て、
(1)手前に、石で造られた「正門石橋」と、
(2)奥に、鉄で作られた「正門鉄橋」という 2つの橋があります。

「二重橋」は奥の正門鉄橋の呼称とされています。

奥の正門鉄橋は、江戸城の西丸下乗橋のあった位置で、ここのお堀が深かったため木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていたことから、「二重橋」と呼ばれるようになった。と言われます。
現在の鉄橋は昭和39年(1964年)に架け替えられたもので、橋桁は二重ではないそうです。

「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって見える橋だから二重橋」という説もありますが、「正確な解釈ではない」とされているようです。

また、手前の石橋が二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋」と言う人もいるそうですが「誤り」なのだそうです。

「3」

三鷹

三鷹の名は、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)と言われていますが、旧三鷹村役場火災による資料焼失のため、真偽は不明とのことです。

三軒茶屋

大山は丹沢大山国定公園に属し、標高1,252 mの山で、古くから庶民の山岳信仰の対象とされていました。信仰登山は大山講と呼ばれ、各地から通じる道は「大山道」と呼ばれ、現在の国道246号の別称「大山街道」などとして残っています。江戸の庶民にとっては、大山詣と江ノ島詣のセットが娯楽の一つであったそうで、古典落語の演題にも「大山詣り」があります

江戸時代に、この大山道の本道(今の世田谷通り)と 近道(今の国道246)の分岐点に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋があっ た事が、現在の「三軒茶屋」の地名の由来とされています。

三ノ輪

今も残る東京の路面電車、都電荒川線。
三ノ輪橋停留場(東京都荒川区)から早稲田停留場(同新宿区)までの12,3キロを30の停留場で結ばれています。同線が走る区間の一部が運行を始めてから2011年8月で100年を迎えました。
沿線には、飛鳥山公園や鬼子母神などがあります。

「4」

四ツ谷

「四谷」といえば、先ずは「四谷怪談」ですが、何故「四谷?」となると、地名の由来ははっきりしないようです。

一説には「農家が4件のみの原野」だったとか、「梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋の4軒の茶屋があった」ので「四ツ屋(四ツ家)」となったとする説があるそうですが、何れも決め手がないようです。

もう一つは千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷の四つの谷(四つの谷を紅葉川渓谷、鮫河谷、渋谷川渓谷、蟹川渓谷とする説もある)からとの説ですが、これもわざわざ四つの谷だけを抜き出す理由がなく、既に江戸時代から疑義が出されているとのことです。

別の話で、「関東特有の台地を刻んだ谷地形の谷地(やち)地名に因むものだ」との言うものです。入谷、渋谷、世田谷などと同じ地形名で、付近に住む人が、一の谷(市ヶ谷)、二の谷、三の谷、四の谷と地名をつけていた名残かもしれない。二と三が消えてしまっているが・・・。いろいろと考えるのも楽しいものですね。                         

「5」

五反田

目黒川の谷がほぼ東西に流れ、その谷周辺の水田が一区画が5反(1反は300坪、約1000㎠)あったために名づけられた(江戸時代)との説明があります。

柳田國男『地名の研究』で、地名の発生について、大がかりな開墾には組合があり、「一筆の大きさによって五反田・三反田という。」「一軒に5反3反歩ずつの分配をした区域という。」とあります。

(駄論)今は耳にしませんが、私が子供の頃、「5反百姓」「水飲み百姓」という言葉がありました。貧しい農家の代名詞であったようです。

「百姓は生かさず、殺さず」が当時の農政基本方針であったようですが、これとリンクするのだろうか?と思ったことです。

五日市街道

徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道だそうです。

初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展しましたが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転したのだそうです。

武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展しました。

五日市街道は江戸城修築のための石材を運ぶための道であったのに対して、一部がほぼ併走する青梅街道は江戸城築城のために、青梅で採れる石灰を運搬する道路として整備されたと聞きます。 (続く)



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