2012年02月23日
A022 「無病息災」と「一病息災」
1、一病息災
・持病が一つくらいある方が、無病の人よりも健康に注意し、かえって長生きであるということ」(広辞苑)
持病に取り付かれ、日頃悩まされ続けながらも、何とか上手に付き合って行こうと努めている人にとっては、響きの良い言葉であります。私もその一人です。
「一病息災」;折々に、重宝しながら使っている言葉ですが、ふと気になって言葉の意味を若干調べてみました。「一病息災」を願う我が身を、納得させようとする潜在意識があってのことかも知れません。
本来は「無病息災」が理想なのでしょうが、「一病」を経験しない人は「健康」であることの有難さを見逃してしまうのは、人間の弱さでしょうか。
「人間は経験の範囲でしか真の理解は出来ない」という故事ことわざがある所以と思います。
「息災」は仏教用語で、「仏の力で身の災難を消滅すること。達者なこと、健康、無事」
(広辞林)
「息災延命」といった熟語もあります。「息」は「とどめる」意があるといいます。
中国には「無病短命、一病長寿」という言葉があるそうです。
「一病」は数字の一ではなく、「無病」に対して「多少の病」位に読んでいます。
「無病長寿、一病超寿」とありたいものです。「無病息災」について少し考えて見ます。
・持病が一つくらいある方が、無病の人よりも健康に注意し、かえって長生きであるということ」(広辞苑)
持病に取り付かれ、日頃悩まされ続けながらも、何とか上手に付き合って行こうと努めている人にとっては、響きの良い言葉であります。私もその一人です。
「一病息災」;折々に、重宝しながら使っている言葉ですが、ふと気になって言葉の意味を若干調べてみました。「一病息災」を願う我が身を、納得させようとする潜在意識があってのことかも知れません。
本来は「無病息災」が理想なのでしょうが、「一病」を経験しない人は「健康」であることの有難さを見逃してしまうのは、人間の弱さでしょうか。
「人間は経験の範囲でしか真の理解は出来ない」という故事ことわざがある所以と思います。
「息災」は仏教用語で、「仏の力で身の災難を消滅すること。達者なこと、健康、無事」
(広辞林)
「息災延命」といった熟語もあります。「息」は「とどめる」意があるといいます。
中国には「無病短命、一病長寿」という言葉があるそうです。
「一病」は数字の一ではなく、「無病」に対して「多少の病」位に読んでいます。
「無病長寿、一病超寿」とありたいものです。「無病息災」について少し考えて見ます。
2、無病息災
まったく病気らしい病気をせず、健康であり続けることが出来るなら理想的ですが、生身の人間はなかなかそうは行きません。生身の身体は、大なり小なり何時かは病の攻撃を受けましょう。
普段から用心して体調を整え、体力を蓄えておくならば影響を少なく済ませることも出来のでしょうが、空気の存在を意識しないように、「無病」の人は日頃健康の有難さを実感しない傾向にあるようです。
頭では分かっていても、いつの間にか不摂生の誘惑に犯され、なすべき注意を怠ってしまいます。
加齢とともに体力は落ちてくるし、各部が不調になりがちなのは避けられません。
完全な健康体を意識し過ぎると、そのこと自体が大きな副作用を呼び込むことになりかねません。
健康維持に向けて、「わずかな徴候を見逃さないよう注意する」ことは大切だし必要ですが、度が過ぎると「気を病む」という病になってしまいましょう。
避けたいのは、あれこれ不調らしい所を探し出してはそれを過剰に気にすることです。
どこそこが痛いとか、夜眠れないとか、食欲がないとか、誰でもあるような症状?から、いろいろと病気を考え出してしまいます。
病院に行き、「何でもありません」と言われると不満に思い、何か病名を付けられることを願望する様になってしまいます。
徴候を無視するのではなく、様子を見て専門医に診てもらうのも大切ですが、何でもかんでも自分で過大に妄想するのは考え物です。
この違いを見分けるのは自分自身であり、まっとうな判断が出来るように日頃からアンテナを磨いておくことが大切だと思います。
「一病息災」での生活習慣を自分で作り上げようとする普段からの意識が物を言うのだろうと思っています。
「ひとつふたつ体にわるいところがあっても、気に病まない。むしろ積極的に、自分の元気ないいところを探して、それを大切にしていきたい。」との話を聞いたことがあります。
実際にその様な生活習慣を築き上げてきた方の話であり、説得力がありました。私も同じ心境でこれからを過ごしていきたいと願ってます。
まったく病気らしい病気をせず、健康であり続けることが出来るなら理想的ですが、生身の人間はなかなかそうは行きません。生身の身体は、大なり小なり何時かは病の攻撃を受けましょう。
普段から用心して体調を整え、体力を蓄えておくならば影響を少なく済ませることも出来のでしょうが、空気の存在を意識しないように、「無病」の人は日頃健康の有難さを実感しない傾向にあるようです。
頭では分かっていても、いつの間にか不摂生の誘惑に犯され、なすべき注意を怠ってしまいます。
加齢とともに体力は落ちてくるし、各部が不調になりがちなのは避けられません。
完全な健康体を意識し過ぎると、そのこと自体が大きな副作用を呼び込むことになりかねません。
健康維持に向けて、「わずかな徴候を見逃さないよう注意する」ことは大切だし必要ですが、度が過ぎると「気を病む」という病になってしまいましょう。
避けたいのは、あれこれ不調らしい所を探し出してはそれを過剰に気にすることです。
どこそこが痛いとか、夜眠れないとか、食欲がないとか、誰でもあるような症状?から、いろいろと病気を考え出してしまいます。
病院に行き、「何でもありません」と言われると不満に思い、何か病名を付けられることを願望する様になってしまいます。
徴候を無視するのではなく、様子を見て専門医に診てもらうのも大切ですが、何でもかんでも自分で過大に妄想するのは考え物です。
この違いを見分けるのは自分自身であり、まっとうな判断が出来るように日頃からアンテナを磨いておくことが大切だと思います。
「一病息災」での生活習慣を自分で作り上げようとする普段からの意識が物を言うのだろうと思っています。
「ひとつふたつ体にわるいところがあっても、気に病まない。むしろ積極的に、自分の元気ないいところを探して、それを大切にしていきたい。」との話を聞いたことがあります。
実際にその様な生活習慣を築き上げてきた方の話であり、説得力がありました。私も同じ心境でこれからを過ごしていきたいと願ってます。