2012年05月18日
A107・「感謝」と「思いやり」
1、日本は「私欲」「金欲」に堕した!といわれますが・・・
一般論では「感謝」と「思いやり」、「世のため、人のため」を口にしながら、自分に関わることになると「私欲」「金欲」、「私利私欲」を第一に考えて行動する。
日本はそんな国になってしまっている! と指摘する声が聞こえます。
確かに政治では政府も与党も野党も、今に始まったことではありませんが、日本の窮状をよそに「党利党略」「私利私欲」に徹し、天下国家を憂い身を挺する所謂政治家は見当たりません。行政官庁然り、報道機関も売上げ優先で、権力に都合の悪いことは報道されないとの声が聞こえます。
一般大衆も、その一人である私を見ても、年金・税制・電気料金など我が身にかかる負担増には反対する気分になります。国家の利害よりも我が身を大切に考えます。
一般論では「感謝」と「思いやり」、「世のため、人のため」を口にしながら、自分に関わることになると「私欲」「金欲」、「私利私欲」を第一に考えて行動する。
日本はそんな国になってしまっている! と指摘する声が聞こえます。
確かに政治では政府も与党も野党も、今に始まったことではありませんが、日本の窮状をよそに「党利党略」「私利私欲」に徹し、天下国家を憂い身を挺する所謂政治家は見当たりません。行政官庁然り、報道機関も売上げ優先で、権力に都合の悪いことは報道されないとの声が聞こえます。
一般大衆も、その一人である私を見ても、年金・税制・電気料金など我が身にかかる負担増には反対する気分になります。国家の利害よりも我が身を大切に考えます。
「自己防衛本能」によって、ある程度は正常な感覚だと思います。しかし、一方、人間は一人では生きて行けません。相手を思い、思いやる気持ちが必須である。と思います。
このバランスが取れていない!「私利私欲」に傾いているのが実状と思ったりします。
「そうだろうか?」 もう一人の私は思います。
東日本大震災が発生して、首キ圈で交通機関が止まって行き場を失った人々が駅の階段に座ったとき、皆が整然と端に寄って真ん中の通路を確保したこと。
僅かに動いていたバスやタクシーの乗り場に長蛇の列が延び、これを乱そうとした人が皆無であったこと。
コンビニや商店などでの略奪が気配さえもなかったばかりか、被災地では在庫品をあるだけを被災者に無料で放出し、被災者も独り占めすることなく皆で分け合ったこと。
これらを目の当たりにした外国メディアが脅威の目を持ってそれぞれの国に報道したそうです。
日本国民の本質はここにあり!と思ったものでした。ところが世の中はそう単純ではありませんでした。
被災地の膨大なガレキの山を処理する段になって、全国に協力要請があったとき、直ぐに「Yes!」と返事して行動に移したのは東京都だけでした。都知事のき然とした姿勢は印象的でした。
他の自治体は、だんまりを決め込んだか? 聞かれると「住民の同意が得られない」といい、住民は「放射能が心配だ」といって、風を避けていました。
それまで言われていた「頑張れ被災地!」とは裏腹の一面が見られました。
日本人の本質は「私利私欲」優先なのか? 「感謝」と「思いやり」のDNA優先なのか?
思いは右に左に揺れています。
2、「感謝の気持ち」を忘れないようにしたい
「有難う」。この一言には無限の奥行きを感じます。この言葉で表現される「感謝の気持ち」を忘れないようにしたいと思っています。
母親の葬儀の終わりにお坊さんの説教があって、その時の「何事にも感謝の心を忘れないように」という言葉が40年以上経った今でも心に残っています。
もともと宗教には全く無関心で、家の宗派が何であるのかも定かでなく、その時まで、お寺は全く無縁な存在でした。
初めてお坊さんの話を聞きながら、「感謝」という言葉は仏教から来たのかな、などと思ったものの特に調べる事まではしませんでした。
しかし、このお坊さんの影響を受けてのことか、母親への思いと重なって、何時も「感謝」の気持ちを意識するように心がけてはいます。
「人間は一人では生きていけない。こうして今まで過ごして来られたのは世の中、森羅万象のお陰」と、言葉で言うとこうなるのでしょうが、そこまで言わずとも、周りの人に助けられ自分も多少は役に立って、お互いに助け合って来たお陰だと思っています。
心の健康が損なわれて、「有難う」の言葉が出ないようになってしまっては、自分も暗い気持ちで過ごさねばならないでしょうし、相手や周囲の人たちにも嫌な思いをさせることになるでしょう。
いつも、「有難う」と素直な気持ちで感謝できるような存在でありたいと願っています。
3、「思いやりの心」を大切にしたい
たまに褒められる事があると、お世辞半分と思いながらも悪い気はしません。褒められて嬉しく思うと同じように、相手を褒めるように心がけたいと思っています。
羽子板職人の親子から聞いた話です。
息子の職人さん曰く「技術は年数を重ねるとそこそこの水準までいくが、それ以上の物は作る人間の心が良くならなければ出来ない。と教えられている。まだまだ修行途上です」。
師匠であり父親である職人さん曰く「羽根つきの本来の心は、相手が打ちやすいように返すこと」。
「昨今はロープとかネットの向こうとこちらで打ち合って、勝った負けたの勝負になってしまう。これではゲームです。寂しいですね。」
私たち日本人には「気配り」「思いやり」という素晴らしい伝統があり、世界に誇れるものだと思います。
日本人は日本に伝わるさまざまな古くからの遊びによって「人を思いやる心」が育まれてきたように思われます。所が最近の日本ではこの伝統が薄れつつあるような気がしてなりません。
日本人が持っているこの世界に誇れるDNAを、一人一人が思い起こしたいと願っています。大人達は子供たちがこの心を身につけるよう教えるべきではないでしょうか!
「気配り」「思いやり」の心を持ち、相手から受けた喜びに「感謝」の有難うを言う。
日本人の一人として、かくありたいと願っています。
このバランスが取れていない!「私利私欲」に傾いているのが実状と思ったりします。
「そうだろうか?」 もう一人の私は思います。
東日本大震災が発生して、首キ圈で交通機関が止まって行き場を失った人々が駅の階段に座ったとき、皆が整然と端に寄って真ん中の通路を確保したこと。
僅かに動いていたバスやタクシーの乗り場に長蛇の列が延び、これを乱そうとした人が皆無であったこと。
コンビニや商店などでの略奪が気配さえもなかったばかりか、被災地では在庫品をあるだけを被災者に無料で放出し、被災者も独り占めすることなく皆で分け合ったこと。
これらを目の当たりにした外国メディアが脅威の目を持ってそれぞれの国に報道したそうです。
日本国民の本質はここにあり!と思ったものでした。ところが世の中はそう単純ではありませんでした。
被災地の膨大なガレキの山を処理する段になって、全国に協力要請があったとき、直ぐに「Yes!」と返事して行動に移したのは東京都だけでした。都知事のき然とした姿勢は印象的でした。
他の自治体は、だんまりを決め込んだか? 聞かれると「住民の同意が得られない」といい、住民は「放射能が心配だ」といって、風を避けていました。
それまで言われていた「頑張れ被災地!」とは裏腹の一面が見られました。
日本人の本質は「私利私欲」優先なのか? 「感謝」と「思いやり」のDNA優先なのか?
思いは右に左に揺れています。
2、「感謝の気持ち」を忘れないようにしたい
「有難う」。この一言には無限の奥行きを感じます。この言葉で表現される「感謝の気持ち」を忘れないようにしたいと思っています。
母親の葬儀の終わりにお坊さんの説教があって、その時の「何事にも感謝の心を忘れないように」という言葉が40年以上経った今でも心に残っています。
もともと宗教には全く無関心で、家の宗派が何であるのかも定かでなく、その時まで、お寺は全く無縁な存在でした。
初めてお坊さんの話を聞きながら、「感謝」という言葉は仏教から来たのかな、などと思ったものの特に調べる事まではしませんでした。
しかし、このお坊さんの影響を受けてのことか、母親への思いと重なって、何時も「感謝」の気持ちを意識するように心がけてはいます。
「人間は一人では生きていけない。こうして今まで過ごして来られたのは世の中、森羅万象のお陰」と、言葉で言うとこうなるのでしょうが、そこまで言わずとも、周りの人に助けられ自分も多少は役に立って、お互いに助け合って来たお陰だと思っています。
心の健康が損なわれて、「有難う」の言葉が出ないようになってしまっては、自分も暗い気持ちで過ごさねばならないでしょうし、相手や周囲の人たちにも嫌な思いをさせることになるでしょう。
いつも、「有難う」と素直な気持ちで感謝できるような存在でありたいと願っています。
3、「思いやりの心」を大切にしたい
たまに褒められる事があると、お世辞半分と思いながらも悪い気はしません。褒められて嬉しく思うと同じように、相手を褒めるように心がけたいと思っています。
羽子板職人の親子から聞いた話です。
息子の職人さん曰く「技術は年数を重ねるとそこそこの水準までいくが、それ以上の物は作る人間の心が良くならなければ出来ない。と教えられている。まだまだ修行途上です」。
師匠であり父親である職人さん曰く「羽根つきの本来の心は、相手が打ちやすいように返すこと」。
「昨今はロープとかネットの向こうとこちらで打ち合って、勝った負けたの勝負になってしまう。これではゲームです。寂しいですね。」
私たち日本人には「気配り」「思いやり」という素晴らしい伝統があり、世界に誇れるものだと思います。
日本人は日本に伝わるさまざまな古くからの遊びによって「人を思いやる心」が育まれてきたように思われます。所が最近の日本ではこの伝統が薄れつつあるような気がしてなりません。
日本人が持っているこの世界に誇れるDNAを、一人一人が思い起こしたいと願っています。大人達は子供たちがこの心を身につけるよう教えるべきではないでしょうか!
「気配り」「思いやり」の心を持ち、相手から受けた喜びに「感謝」の有難うを言う。
日本人の一人として、かくありたいと願っています。