2012年05月17日
A106・「挨拶」・「心の健康」(2)
(前回)
1、フランスの店先でのこと
2、日常的に見られる「日本女性の挨拶」
3、挨拶
「お早う」で一日が始まり「お休み」で床につきます。
人は毎日をこの繰り返しの中で生きています。
人は一人では生きていけません。お互いに言葉を交わし、作用し合って暮らしています。その基本となるものが「挨拶」なのだろうと思います。
1、フランスの店先でのこと
2、日常的に見られる「日本女性の挨拶」
3、挨拶
「お早う」で一日が始まり「お休み」で床につきます。
人は毎日をこの繰り返しの中で生きています。
人は一人では生きていけません。お互いに言葉を交わし、作用し合って暮らしています。その基本となるものが「挨拶」なのだろうと思います。
「挨拶」はその人の心の状態を映し出します。
嬉しいとき、悲しいとき、張り切っているとき、意気消沈しているとき、「挨拶」する態度、言葉の調子に微妙に映し出されます。
お互いに相手の状態を察知し、ある時はさりげなく、ある時はともに喜び、ある時は痛みを知って、相手の気持ちを思いやりながら以後の会話が進みます。
時には、人によっては「無言の挨拶」もあるでしょうが、限られたケースと見ます。
野山や公園などで草木に囲まれていると、人はいつの間にか、とても素直な気持ちになっていることに気付きます。
強いて言葉を選ぶと「癒される」であるかも知れませんが、しかし、それよりも言葉を超越した何かがあるように思います。
行き交う人は、お互いに見ず知らずでもごく自然に挨拶を交わします。「自然体」になれている自分を感じます。
身分の上下とか貧富とかいった俗世の邪念とは無縁で、同じ高さの視線で物を見、人と交わります。
人里離れた山中を歩いていると、その地の人は所謂よそ者の私に親しみを込めて挨拶されます。私もつられて笑顔をかえします。ごく自然に、この様に反応します。
「昔の日本には、街中いたるところにこういう挨拶があったのではないだろうか」と思いながら、今、日本人が忘れかけている「人の心」を自然が思い出させてくれるような気がしています。
4、「挨拶」は仏教語
3年ほど前に、同期会で築地本願寺に立ち寄ったことがあります。本堂の一隅に資料のコーナーがあって、「くらしの仏教語」という本が目にとまりました。
日常私たちが普通に使っている言葉の多くが仏教に由来する「仏教語」として示されていました。早速買い求めて通読しました。
仏様のお導きかも知れません! その中に「挨拶」の項がありました。
曰く「挨拶」の「挨」は「押す」こと。「拶」は「せまる」いう意味で、従って
「挨拶」とは前にあるものを押しのけて進み出ること。
「一挨一拶(いちあいいっさつ)」といって、師匠が門下の僧に、又は修行僧同志が、あるいは軽く、あるいは強く、言葉や動作でその悟りの深浅を試すこと。と、あります。
別の書では、「軽く触れる」と言う意味の「挨(あい)」と、「強く触れる」ことを表している「拶(さつ)」とが一つになった。と、あります。
これらから転じて主として儀礼や親愛の言葉として使われるようになったようです。
「一言ご挨拶申し上げます」とか、親が子供に教える「よくご挨拶なさい!」などが普通ですが、時には、冷たく「ご挨拶ね!」とか、
すごみ、脅しの意味で「挨拶してやるぞ!」といった用い方も、仏教語のルーツをみると理解できそうです。
日本人は挨拶をしなくなったとか、挨拶の心を見失っているなどと、気にはなるけれど、短兵急に自分の感覚を押しつけることなく、御仏の広い心を見習うことが大切だと、そんな気もしています。
まだまだ悟りの境地とは無縁な存在のようです。
嬉しいとき、悲しいとき、張り切っているとき、意気消沈しているとき、「挨拶」する態度、言葉の調子に微妙に映し出されます。
お互いに相手の状態を察知し、ある時はさりげなく、ある時はともに喜び、ある時は痛みを知って、相手の気持ちを思いやりながら以後の会話が進みます。
時には、人によっては「無言の挨拶」もあるでしょうが、限られたケースと見ます。
野山や公園などで草木に囲まれていると、人はいつの間にか、とても素直な気持ちになっていることに気付きます。
強いて言葉を選ぶと「癒される」であるかも知れませんが、しかし、それよりも言葉を超越した何かがあるように思います。
行き交う人は、お互いに見ず知らずでもごく自然に挨拶を交わします。「自然体」になれている自分を感じます。
身分の上下とか貧富とかいった俗世の邪念とは無縁で、同じ高さの視線で物を見、人と交わります。
人里離れた山中を歩いていると、その地の人は所謂よそ者の私に親しみを込めて挨拶されます。私もつられて笑顔をかえします。ごく自然に、この様に反応します。
「昔の日本には、街中いたるところにこういう挨拶があったのではないだろうか」と思いながら、今、日本人が忘れかけている「人の心」を自然が思い出させてくれるような気がしています。
4、「挨拶」は仏教語
3年ほど前に、同期会で築地本願寺に立ち寄ったことがあります。本堂の一隅に資料のコーナーがあって、「くらしの仏教語」という本が目にとまりました。
日常私たちが普通に使っている言葉の多くが仏教に由来する「仏教語」として示されていました。早速買い求めて通読しました。
仏様のお導きかも知れません! その中に「挨拶」の項がありました。
曰く「挨拶」の「挨」は「押す」こと。「拶」は「せまる」いう意味で、従って
「挨拶」とは前にあるものを押しのけて進み出ること。
「一挨一拶(いちあいいっさつ)」といって、師匠が門下の僧に、又は修行僧同志が、あるいは軽く、あるいは強く、言葉や動作でその悟りの深浅を試すこと。と、あります。
別の書では、「軽く触れる」と言う意味の「挨(あい)」と、「強く触れる」ことを表している「拶(さつ)」とが一つになった。と、あります。
これらから転じて主として儀礼や親愛の言葉として使われるようになったようです。
「一言ご挨拶申し上げます」とか、親が子供に教える「よくご挨拶なさい!」などが普通ですが、時には、冷たく「ご挨拶ね!」とか、
すごみ、脅しの意味で「挨拶してやるぞ!」といった用い方も、仏教語のルーツをみると理解できそうです。
日本人は挨拶をしなくなったとか、挨拶の心を見失っているなどと、気にはなるけれど、短兵急に自分の感覚を押しつけることなく、御仏の広い心を見習うことが大切だと、そんな気もしています。
まだまだ悟りの境地とは無縁な存在のようです。