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2016年11月06日

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その3)

 彼が妻と住んでいる場所は、マンションの一角だった。猫の額のように狭いスペースであったが、住宅ローンはまだ払い終わってはいなかった。
「ただいま。今帰ったよ」と、ご機嫌で男は玄関をくぐった。
「あなたったら、今まで、どこをほっつき歩いていたのよ。ほんと、甲斐性なしなんだから」出迎えた妻がいきなり食って掛かってきた。まだ、先ほどの言い合いから冷めていなかったようである。
 妻はそこそこに美人だったが、口を開くと、そこからはきつくて醜い言葉しか出てこないのだった。
「いやあ、夜の散歩をしていたんだけどね、面白い事があったんだ」浮かれていた夫は、つい今しがたの出来事をペラペラと妻に話してしまった。
 普通なら、夫がこんなバカげた話をしだしたら、妻はふざけていると思って、怒り出すところだろう。かんしゃく持ちの妻であれば、なおさらだ。
 しかし、この男の妻の場合はちょっと感じ方が違っていたらしい。
「あなた。じゃあ、それで何の願いも頼まなかったと言うの?」妻は真顔で夫に問いただした。
「そうだよ」
「バカじゃないの?なぜ、このマンションの返済を全部終わった事にしてもらわなかったのよ。そうすれば、来月からお給料の自由になる額がぐんと増えるじゃないの。どうして、そんな事もすぐ思いつかないのよ」
「おいおい、待ってくれよ。そんなセコい望みは恥ずかしくて、お願いできないよ」
「安月給の甲斐性なしが何言ってるの!今さら恥ずかしい事なんて無いでしょ?ほら、早くヒラメさんのところへ行ってらっしゃいよ!」
 妻は、ものすごい剣幕で夫をけしかけたのだった。夫の方は、いつものように、言い合いでは妻には勝てそうになく、従うしか無かった。
 この妻は、なぜ夫の話をこんなにも簡単に信じてしまったのか?彼女はあまり利口な方ではなかったし、普段からフザケた内容のバラエティ番組とか夢物語のSF映画などにどっぷり浸かっていたものだから、現実と虚構の区別がつかなくなりかけていたようなのである。
 男は、もう真夜中だと言うのに、妻に追い立てられて、慌てて岸壁へと戻ってきたのだった。
『やあ、命の恩人さん。やはり来てくれたのですね』
 男が呼びかける必要もなく、あの物体は海面からすぐに顔を出した。この物体には男の行動が全てお見通しだったようにも感じられ、なんだか笑っているようにも見えたのだった。     (つづく)

「ルシーの明日とその他の物語」

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posted by anu at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説
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