でも、今日は父の日。それと先々週の山下達郎サンデーソングブックで「BJトーマス追悼で棚からひとつかみ」が放送された事もあって、このタイミングでブログに載せることにします。
まず、何故ラジオ番組のBJトーマス追悼特集が父とどう関係あるのか?
「BJトーマスはディストリビューターがセプターレーベル、そして当時のセプターはテイチクが日本でディストリビュートしておりまして、テイチクはイマイチ洋楽のプロモーション力が弱いという・・・」という私にとっては全くもって予想通りのコメントが山下達郎氏の口から放たれました。
それは今を去ること6年前の同番組「逝ける南部人を偲んで」でもこう言った発言がありました。
「日本ではその当時セプターはテイチクから発売されておりましたが洋楽の力が弱くてポピュラーになりませんでした」
その事に対して私は以下の様なコメントを葉書に託したところ、光栄な事にほぼ全文放送でご紹介いただきました。
「BJトーマスが売れなかったのは当時セプターが洋楽が弱かったテイチクだったせい。そして以前にかかったジャッキートレントが売れなかったのもパイ レーベルが洋楽が弱かったテイチクだったせい。達郎様のご発言、ごもっともでございます。何故って当時のテイチクの洋楽営業部長って僕の親父だったんですもの(笑)洋楽を聴き始めた中学生の頃、ラジオからは親父がやってた曲なんて全然聞こえてこなかったです。が、それも当然。なんか地味な曲、歌手ばっかりだったんですから。一番はやったのってジグソーのスカイハイだったのかな。
でもサンソンでは結構かかりますよね、セプター、モニュメント、パイ、アメリカンデッカ。何か一曲セプターから達郎さんお勧めのナンバーかけてください、宜しくお願いします。」
これに対して達郎さんは
「しみじみしたお便りですね。セプターからお勧めのと言っても、セプターって素晴らしいレーベルなんですよね。特集やってもいいですけどね。シュレルス、ディオンヌ ワーウィック、BJトーマス、ベバリー ブレーマースとか沢山ありますからね。」
父は大正15年東京大久保生まれ。
なんとか戦火から、そして学徒出陣から免れたと聞いています。
映画が好きで日大芸術学部映画科を卒業後、映画会社を経てテイチクに入社。
こんなものが出てきました。終戦直後だから卒論も大学ノートにインクペン書き
自分が生まれた時はセールスマンだったのかな?
断片的にしか覚えていないけど、酔っ払うと色々と話してくれました。
当時のテイチクレコードっていうと、石原裕次郎、田端義夫、アイ・ジョージとか人気歌手が揃っていて、その1番手は誰がなんと言っても三波春夫先生。
浪曲歌謡は右に出る者がいない大歌手だったですが、こんな曲も大ヒット。
この曲と、続く1970年の「世界の国からこんにちは」で「国民歌手」なんて呼ばれておりました。
もう売れに売れて「プレスが間に合わない」状態。
レコード会社のセールスマンってのは、担当地区のレコード屋に自社レーベル歌手のレコードを売り込むのが仕事だけど、売れ過ぎちゃってレコード屋に納品できず一升瓶持って謝りに行った、なんて話も聞いたことありました。(ちなみにそのレコード店って今でもアメ横のガード下にある「リズム堂」だったかと思います)
かと思うと、テレビの加山雄三ショー観てて怒られたこともありました。「おまえは三波春夫や石原裕次郎のお陰でご飯が食べられているんだ」なんて言われて。
洋楽部に移ってからはブレンダ リーとかディオンヌ ワーウィックとかをリリースしていたと思いますが、先ほどの達郎さんとのやり取りの通り、自分の中高生時代の深夜放送でかかるロックやポップスは殆ど無かったですね。でもジャズでオリコンのアルバムランクトップ3獲ったり、結構実績は残していたんじゃないでしょうか?
その後邦楽の制作担当になってジョニー吉長のソロアルバムや山根舞衣とかやってまして、自分が大学生の頃はレコーディングスタジオに遊びに行かせてもらったりしましたね。
そして社会人になったの際のエピソードは以前このブログに書いた通りです。
でもほぼ毎日終業時間30分前にはオフィス出て、新橋で呑みに行ってたとは当時の部下だった方の証言。
よく酔っ払ってタクシーで帰ってきたよな。その時の酒臭さは今でもはっきり覚えています。
結構お気楽な性格(の様に自分には見えました)
その後定年前にテイチク辞めて、西荻の家売り払って鎌倉に引っ越しちゃった。
バブルの2〜3年前。そのくらい待てば随分財産も増えていたと思うけど・・・。
せっかちなんですよ。
その父ももうなくなって17年が経ちます。
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