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2021年04月15日

「シベリア出兵」とはご存じだろうか?





 「シベリア出兵」とはご存じだろうか?


 先日、或る昔の日本映画を見て居たら、その中で「シベリア出兵」と云う言葉が何度か出て来たのです。確かに日本史の昭和の時代・・・太平洋戦争の始まる前の項で目にし耳にしたのだけど、何のことだったのか・・・と、恐らく日本の軍隊が海外に派兵した、その一部だったと記憶が。そこで、簡単に「シベリア出兵」を調べてみました。

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 シベリア出兵とは・・・1918年〜22年迄行われたイギリス・フランス・アメリカ・日本等による、ロシア革命に対する軍事干渉。

 1918年3月の英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月 シベリアに共同で派兵した。口実はシベリアに抑留されたチェコ兵捕虜の救出であったが、狙いは反革命軍(白軍)を支援してロシア革命軍(赤軍)を倒す事であった。
 しかし、反革命軍が崩壊し干渉は失敗。米・英・仏軍は間も無く撤退したが、最大7万以上を派兵した日本軍は1922年(樺太では25年)迄シベリアに留まった


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 イギリス・フランス・アメリカ・日本等のシベリアへの出兵の目的は、帝国主義諸国による第2次ロシア革命とボリシェヴィキ独裁政権への干渉戦争の一つである。当初は各国が単独で出兵すると云う形であったが、1918年8月のドイツ軍との戦争の一環として、北シベリアへの出兵と東シベリアでボリシェヴィキ政権と戦闘状態にあったチェコスロヴァキア軍団救出を口実として、各国の合同軍事行動として共同派兵と為った。
 シベリア出兵は、帝国主義諸国によるロシア革命への干渉戦争が本質であり、対ソ干渉戦争とも云われる。又ロシアではシベリア戦争、或いはシベリア干渉戦争と言っている。


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 ボリシェヴィキ革命に対する共同干渉 

 レーニンの指導するボリシェヴィキは、資本主義体制を転覆させ議会政治・自由主義等西欧の価値観を否定する「過激派」として恐れられて居た。第一次世界大戦の最中に、連合国の一員であったロシアでそのボリシェヴィキに指導された革命が起こり過激派が政権を握った。
 しかもボリシェヴィキは、ドイツとの即時単独講和を掲げて戦争から離脱。あまつさえ過去の列強間の秘密条約を暴露するに及んだ。資本主義列強は、ロシアの反革命勢力を支援して革命政権の弱体化・打倒を図り、ロシアをドイツとの戦争に留まらせる事が共通の利益と考えられて居た。

 各国の思惑

 資本主義列強はソヴィエト政権を承認せず、レーニンの平和に付いての布告も無視する事では共同歩調をとり、更に1918年3月 ソヴィエト政権がドイツとの単独の講和条約としてブレスト=リトフスク条約を締結するに及び、ドイツ軍の西部戦線への転用を恐れた英仏は、秘密協定を結んで干渉軍派遣と分担を決定、シベリア方面ではアメリカと日本に出兵を促す事と為った。
 先ず1918年3月にはイギリス・フランス両軍が北極海に面したムルマンスクに上陸、4月には東シベリアのウラジヴォストークにはアメリカ軍と日本軍が夫々単独で上陸した。
 
 しかし、アメリカのウィルソン大統領はソヴィエト政権に同情的であり共同出兵には消極的であった。日本に取っては、日露戦争後の日露協約でロシアと分割した満州の利権が革命によって失われる事が懸念され、山県有朋・田中義一など陸軍首脳部は寧ろ好機と捉え単独出兵を主張し、それに対して原敬や牧野伸顕らは飽く迄アメリカとの共同歩調が必要と主張したのでまとまら無かった。 
 また、ボリシェヴィキ政権を倒そうとする反革命政権は様々に分立し、列強内でもそのどれを支援するかで各国の思惑が異なり共同出兵には踏み切れ無いで居た。


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 チェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)

 処がそこに、出兵に共通の「大義名分」と為る事態が持ち上がった。シベリア鉄道沿線各地で苦境に在り、ボリシェヴィキと衝突して居るチェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)を救出することであった。
 チェコスロヴァキアはオーストリア帝国の一部であったので、チェコ兵は同盟軍として動員され東部戦線でその多数がロシア軍の捕虜と為って居た連合国はチェコスロヴァキアの独立を約束し彼等を移動させて西部戦線に投入しようとしたが、ドイツ・オーストリアに遮断されて居るので止む無く、遠路シベリア鉄道でウラジヴォストークに運びそこから船でヨーロッパに移動する事に為って居た。

 しかし、劣悪な状態でシベリア鉄道で移動する間に、同じ様にヨーロッパを目指して居たドイツ・オーストリア捕虜との偶発的衝突からボリシェヴィキとの間で武力衝突事件に発展しその後各地で衝突が頻発して居た。

 多国籍軍の共同出兵

 1918年8月、チェコ兵捕虜救出を目的としたシベリア出兵はアメリカが日本に働き掛けると云う形と為り、日米連合軍が結成された。アメリカは日本の単独出兵を怖れ、それを共同出兵の枠内に抑え込む意図があった。
 日米両国軍を中核にイギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の軍隊が参加した多国籍軍による干渉行動として開始された。


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 日本のシベリア出兵

 日本の政治指導者の中には、単独でも出兵を強行して将来の大陸進出に備えようとする軍を先頭とした動きと、飽く迄アメリカとの共同を重視しその枠内での出兵に留めようと云う原敬に代表される意見が対立して居た。
 原敬は寺内内閣が米騒動で倒れ、最初の政党内閣の首班と為るに及び、形はアメリカとの共同出兵を守りながら、実質に於いて協定以上の兵力を注入し独自行動をすると云う陸軍の動きを黙認した。

 1918年8月2日〜3日にアメリカ・日本もシベリア出兵を宣言、日米は兵力を同数の1万2千人とし、出兵範囲をウラジヴォストークに限定すると云う約束であった。日本軍は1918年8月2日にウラジヴォストークに上陸、参謀本部の独断で増派を続け北満派遣軍を含めて10月末には7万2千の大軍と為った。アメリカは7,000人の兵力に留まった。
 
 日本軍は当初は、コサックの反革命軍を指揮するセミョーノフを支援したが、途中からイギリスが支援してオムスクに樹立されたコルチャークを首班とする反革命政府を支援する等、大局的な戦略に一貫性を欠いて居た。
 派遣された兵士は極寒の地でソヴィエト政権を支持するパルチザンのゲリラ戦に苦戦を強いられ、度々部隊が全滅すると云うのが実情であったが、その事実は国内では伏せられて居た


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 シベリアからの撤兵

 1918年11月には、ドイツ軍が完全に降伏し第一次世界大戦が終結した為、ドイツ軍との戦争を継続する為のチェコ兵捕虜の救出と云う干渉目的は意味が無く為りチェコ兵も順次帰国した。干渉軍は、ソヴィエト政権に敵対する反革命軍支援だけが目的と為ったが、その最大勢力であったオムスクのコルチャーク軍も1919年3月に大敗した。コルチャーク自身が20年に処刑されて完全に潰えた為、シベリア出兵の意味は全く無く為った。

 イギリス・フランスの干渉軍は夫々1919年中に撤退、アメリカも1920年迄には撤兵したが、日本軍は事後処理の為として駐留を続け、1920年2月にニコライエフスク事件の悲劇が発生した。
 日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。1922年のワシントン会議でアメリカからの圧力があり、同年10月25日にはシベリア本土から干渉軍を引き揚げた。こうして5年以上に渉る日本のシベリア出兵は具体的な成果の全く無いママ終結した。北樺太での駐兵は日ソ基本条約で日本がソ連を承認し日ソ国交が開かれた1925年1月20日迄続いた。

 ニコライエフスク事件

 日本軍のシベリア出兵の時に起こったロシアのパルチザン(革命派のゲリラ部隊)との衝突事件で尼港事件(あまこうじけん)とも云う。
 1920年2月 アムール川の河口に在り北洋漁業の基地で在ったニコライエフスクに駐屯した日本の守備隊と居留民がパルチザンと衝突し122名が捕虜と為った。5月 日本の救援部隊が到着するとね、パルチザンは捕虜の日本人と反革命派の全てを殺害して撤退した。

 日本ではボリシェヴィキ=過激派の残虐行為として報道され、日本は報復として対岸の北樺太(カラフト)を占領した。ソヴィエト側はこの事件の責任追及を行い、パルチザンの司令官を処刑、事件の原因は日本軍がロシア側の軍使を殺害した為とした。
 日本はシベリア本土からは1922年10月に撤退したが、北樺太占領(狙いは石油資源であった)は1925年迄継続、日本がソ連を承認し日ソ基本条約が締結されたのに伴って要約撤兵した。

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                  神戸の鈴木商店本社        

 米騒動

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     8月11日に神戸で起きた騒動によって焼き払われた鈴木商店本社

 1918(大正7)年8月3日 富山県の漁村の女性の米よこせ暴動が全国に広がり、約70万人が加わった全国的な暴動と為った。寺内正毅内閣は軍隊を出動させて鎮圧した。
 暴動の原因は第一次世界大戦後への参戦以来物価が高騰していた処に、シベリア出兵を見越した米商人・地主の投機的な買い占めの為米貨が急騰(戦前の1升約12銭が18年8月には50銭に為った)した為であった。また背景にはロシア革命の影響等で労働運動・普選運動等が高まって居た事も挙げられる。軍部内閣であった寺内内閣はこの為倒れ、日本最初の本格的な政党内閣である原敬内閣が成立する。

 シベリア出兵は何だったか

 シベリア出兵は、北樺太からの撤退迄とすると7年間に渉る日本軍の海外派兵であった。宣戦布告も無く始まったこの戦争での日本軍の戦死者は3〜4千人であったが、零下30度と云う極寒の地で凍傷と為った死傷者が1万人に達した
 戦費は10億円を越えた《三野正洋他『20世紀の戦争派兵』1995 朝日ソノラマ p.174》結果的に「無名の出師(名分の無い出征の意味)」と言われ、何も得る事が無く国民的な支持も無い無謀な戦争を何故行ったか・・・陸軍首脳部の腹は伝統的な北進論・環日本海勢力圏論等と共に将来の極寒地での戦争の予行演習と云う事があったと思われる。

 参考 二つの参考図書

 朝日ジャーナルで1971年1月から72年12月迄シベリア出兵に関する長大なルポ文学『派兵』を書いた高橋治が、シベリア出兵から奇しくも百年に当たる2015年に亡く為られた。その『派兵』第2部のあとがきでこう言っている。

 (引用)奇妙なことに、学校の歴史教育で教えられた記憶が無い。その上、身辺に参考資料と云うべきものが殆ど見当たら無い。それで居て百科事典によれば、当時の金で十億円の巨費と解決迄に七年の歳月を要したとある。
 知ら無いで通り過ぎてしまうには余りに大き過ぎる事件だった・・・《高橋治『派兵』1973 朝日新聞社 第2部 あとがき》

 同書は全4冊、シベリア出兵の経緯を辿り、特に日本軍兵士の生の声を採訪し、ロシアやチェコまで行ってロシア兵やチェコ兵の生き残りにインタビューを試みていて読み応えがある。残念ながら絶版で古書としてネットで探しても安いものが無く紹介出来ない。
 シベリア出兵に関する基本文献であった細谷千博(一橋大学名誉教授)の『シベリア出兵の史的研究』は2005年に岩波現代文庫で再刊され手軽に読める様に為った。シベリア出兵を巡る、各国の思惑、日本の軍部と政府の二重外交の弊害等を詳細に論じている。
 これらを読むと、海外派兵が如何にその国の行き方を誤らせる事に為るか痛感させられる。細谷氏の本は1955年に初版が刊行され2005年に再刊されたが、その時にはイラク戦争での自衛隊の派遣が問題に為って居た。

 細谷氏はそれにも警鐘を鳴らしているが、シベリア出兵から100年目に当たる2015年には、安倍政権によって安全保障関連法が改訂され、日本が戦後、憲法上の制約があるとして否定して来た集団的自衛権を認めると云う変化があった。
 戦後日本の安全保障政策が転換された訳だが、この様な時期だからコソ我々日本の歴史の貴重な体験としてシベリア出兵を振り返って置く事は重要な意味がある。

 (引用)シベリア出兵の歴史は日本軍部に取っては失敗の記録であり、戦前はその研究は言わばタブー視され、この戦争に於いて日本が対外選択面で犯した誤りや軍事行動の醜悪な一面に研究のメスを入れる事は少なかった。しかしこの戦争は、次の世代に取って学ぶべき教訓を実に多く含んで居る。
 例えば、シベリア出兵の歴史に付いて深い知識を持つ軍人であれば、日中戦争の際、それを活用し反省の材料にし得た筈である。一旦派兵すると撤兵が如何に困難な業に為るか、シベリア出兵の際の単独出兵の歴史がこれを好く物語って居る。
 太平洋戦争に突入した1941年、戦争の回避を求めた日米交渉も、中国からの日本軍の撤兵問題で難航、遂に暗礁に乗り上げ戦争と為った。更に言うと、シベリア出兵の歴史に含まれる教訓は、今日イラク戦争を考える上でも役に立つ筈である。

 《細谷一博『シベリア出兵の史的研究』2005 岩波現代文庫 あとがき》

                    以上



 〜管理人のひとこと〜

 シベリア出兵・・・歴史的・時間的には、日露戦争が終わり日本は国際的な立場を強めて居た。その後の第一次世界大戦にも、日英同盟の由で連合国側として参戦を求められドイツと戦う立場に為った。ロシアも連合国としてドイツと戦って居たが、ロシア国内で革命が起き政権を握った革命政府は単独でドイツと停戦を決めてしまった。
 連合国側はロシアにドイツと戦って貰いたいので革命政権を認めず、武力でロシアに干渉することに為った・・・日米両国軍を中核にイギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の軍隊が参加した多国籍軍による干渉行動として開始された・・・それがシベリア出兵だ。

 日本としては、日露戦争で獲得した満州の利権を守る為のロシア革命勢力に対する軍事干渉であり、行く行くは北方防衛・・・ロシア・ソ連との将来の衝突に対する寒冷地の戦争・軍事演習的な海外派兵だった。この結果として、莫大な戦費と多大な死傷者を出した・・・国民には隠された、ノモンハン事件に似た様な結果をもたらした。
 残念なことに、日本の国・軍隊は大きな失敗を上手に隠す事にだけ情熱を捧げ、失敗を何も研究せず学ばず、後の参考に為ら無かった。戦争に負け無い国だとして、そのママ太平洋戦争へと突入してしまった・・・それが日本の悲しい現実であり歴史だ。
 無論、失敗は大きな学習の模範であり代え難い大切な教訓も数多く生まれる・・・所謂貴重なノウハウなのだ。折角の貴重なものを我が国はムザムザと捨て去って何も学ば無い、進歩しない国だった。現代の経済は一流だが政治は三流四流・・・既に経済も三流に落ちてしまったのだが・・・このままの政治を続けると我が国は・・・残念である。

                以上




















 

松山英樹「マスターズ制覇」はどれ程の快挙か


 

 松山英樹「マスターズ制覇」はどれ程の快挙か

 東洋経済 4/14(水) 16:31配信


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 4-14-40 日本ゴルフ界の悲願だった「マスターズ」優勝を成し遂げた松山英樹(写真AP アフロ)

 松山英樹がプロゴルフの「新たな世紀」の扉を開けて呉れた。ゴルフのメジャー大会「マスターズ」で日本選手として初めて優勝を飾った。  
 報道によると、TBS系列の生中継の視聴率(ビデオリサーチ社調べ)は、プレー前半の4月12日午前3時30分〜5時の関東地区平均視聴率が5.4%占拠率は53.3%を記録。優勝を決めたプレー後半の午前5時〜8時20分は12.1%・瞬間最高視聴率は優勝を決めた午前8時3分から同5分頃の17.7%だった。何れもその時間帯としては高い数字だったと云う。

 ゴルフファンのみ為らず、1度はゴルフを遣った事がある人、遣って居なくてもゴルフは知っている人、ゴルフとは無縁でも何か凄い事が起こりそうと思った人・・・多くの人が松山の偉業を目の当たりにした。  
 1997年サッカー日本代表が初めてワールドカップ出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」・2009年WBC・ワールドベースボールクラシック決勝で日本がイチローの快打で世界一に為った瞬間・2011年サッカー女子ワールドカップで「なでしこジャパン」が世界一に輝いた衝撃・2015年ラグビーワールドカップで日本が南アフリカを倒した驚き・・・そんなインパクトのある日に為った。

 株式市場は「ご祝儀買い」  

 4月12日は大騒ぎだった。東京株式市場は「御祝儀買い」でゴルフ関連株が上昇したと云う。松山が使用するクラブを提供して居る住友ゴム工業は一時4.4%上げる等、今後ゴルフが人気に為りそうだと見ている投資家が少なからず居るのだろう。  
 ダンロップブランド等でお馴染みの住友ゴムでは、松山優勝で社内も沸いたと云う。浅妻馨・スポーツ事業本部企画業務部広報グループ課長は朝から晩までメディア等の対応に追われた。

 「松山選手をサポートして居る事もありますが、1ゴルフファンとして嬉しい事でした」

 と云う。早速、今後の需要を見越して、小売り大手からは昨秋発売で松山が使用して居るスリクソンブランドのドライバーZX5(松山はプロトタイプを使用)等の注文が入って来て居ると云う。
 マスターズ最終日、2位に2打差と緊張の中で迎えた17・18番で、松山は完璧なドライバーショットを放った。『思った通りの球が打てた。クラブのお陰』と松山選手から担当に伝えられたそうです」と、嬉しい報告もあった。  

 「今回の優勝でクラブの『信頼性』が上がったと思います」と浅妻課長。日本国内で海外メーカーが上位シェアで国内メーカーは苦戦して居るが、今回の「実績」は、アメリカを初めグローバル展開する中でも謳い文句に為りそう。今後は「ユーザーに何らかの還元をしたいので、優勝フェアの様な事を企画して行きます」と話した。

 スポーツ界ではゴルフに限らず、こうした快挙があると当然ブームに為る。最近のゴルフ界では、渋野日向子が2019年に「AIG全英女子オープン」で日本選手42年振りの女子メジャー制覇をした際には、渋野が使用したドライバーがその年の売り上げ1位を記録するなど業界が活性化した。  
 松山の優勝はそれ以上のインパクトがあると云って好い。コロナ禍で感染リスクが低いゴルフが見直されて新規ゴルファーが増えて居る中で、ゴルフ業界に取って更に「追い風」に為る事は間違い無い。

 この追い風をゴルフ業界は生かせるか。コロナ禍で主に中国で行って居た生産の規模が縮小された為、一部ゴルフ用品メーカーで問題に為って居るのがシャフトやグリップの品不足だ。折角需要が高まっているのにクラブを売りたくても部品が足り無いと云う状況は作りたく無い。  
 この風は、マスターズの会場のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブに吹く風の様に気紛れだ。松山の様に確りと風を捕らえたい。ゴルフは見るだけでは無く何歳からでも自分でプレー出来るスポーツ。ゴルフ人口が減って来ている中、右肩下がりから脱却して再び右肩上がりに転じさせるチャンスを折角松山が呉れたのだ。

 早くも経済効果を算出している向きもあるが、こればかりは推測の域を出ない。松山が今年中に更にメジャー大会に勝つ可能性が十分あるからだ。何より、本人も「開催されるなら当然狙いたい」と云う東京オリンピックで金メダルとも為ればもっと大騒ぎに為るだろう。

 青木功・尾崎将司・中嶋常幸も感激  

 プロゴルフ界では、青木功・日本ゴルフツアー機構・JGTO会長が「私だけで無く、日本全国のゴルフファンや関係者等が待ち望んだ瞬間」とし「新型コロナウイルスの世界的な拡大によって、国民の皆さんの気持ちが落ち込んでいる状況の中でのマスターズ優勝と云う事で、本当に多くの方々に希望を与えて呉れたと思います。松山選手には祝福と同時に心から感謝いたします」と云うコメントを発表。テレビ出演の際には「ジーンとして下を向いて寝た振りをして居た」と涙した事を明かした。

 尾崎将司「日本プロゴルフ界の大偉業である。これは松山本人の挑戦力と勇気、そしてそれに必要な努力の結果である。最近の調子から余り期待をして居なかったが、今週のスイングは今迄と違って素晴らしかった。この松山に続く世界で通用する男子プロの出現を切に願う。本当におめでとう!」とコメントして居る。  
 そして、TBSの生中継で解説をして居た中嶋常幸。優勝の瞬間から放送ブースは号泣で、中嶋も「本当に好かっタア」と涙声を絞り出した。これで、貰い泣きした視聴者が多かった。表彰式後に松山と直接会話した際には「日本に帰って来たら(優勝者に与えられるグリーンジャケットに)袖を通させて呉れ」とお願いした。

 男子プロゴルフ界を牽引して来た「AON(青木・尾崎・中島の略称)」が、これ程迄に松山の優勝に感激したのは「メジャー制覇」が日本プロゴルフ界の悲願であり、AONも何度も挑戦しては跳ね返された経験があるからだ。  
 メジャー大会への日本選手の挑戦は1932年全英・全米両オープンに出場した宮本留吉から始まるが結果は何れも予選落ちだった。メジャーには、歴史の古い順から@全英オープン(1860年〜) A全米オープン(1895年〜) B全米プロ(1916年〜)そして Cマスターズがある。

 「球聖」と呼ばれたボビー・ジョーンズが1930年にアマチュアとして年間グランドスラム・・・全米・全英アマ・全米・全英オープンの4冠を達成した直後に引退。アメリカ・ジョージア州オーガスタにゴルフ場オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブを造り、現役時代に戦った選手達を招待して1934年に第1回マスターズ(当時オーガスタ・インビテーション・トーナメント)が行われた。
 以後、4つの大会をメジャーと呼ぶ。マスターズには、2020年まで延べ132人の日本選手が出場して居る。1936年・戸田藤一郎と陳清水が初めて招待された。陳が20位戸田が29位。戸田は「招待試合だから遊びかと思って」と、前の日に飲み過ぎた事もあって初日81を叩いた事を生涯後悔して居たと云う。ここから日本選手の挑戦が始まった。

 河野高明が1969年13位・1970年12位に入り「リトル・コーノ」の愛称でパトロン(観客)の声援を受けた。1973年尾崎将が飛距離でパトロンの目を見張らせ8位と初めてトップ10に名を連ねた。1978年中嶋は13番ホールでクリークに入れて13を叩いて予選落ち。それでも挑戦を続け、筆者が取材した1986年には優勝争いに加わり、46歳ジャック・ニクラウス(アメリカ)の劇的優勝の陰に為ったが、日本選手初の4日間通算アンダーパーで8位に食い込んでいる。 
 青木14回(最高成績1985年16位)・尾崎将19回・中嶋11回とAONの挑戦でも夢は叶わ無かった。丸山茂樹は1998年から9年連続出場したが最高は14位(2002年)・2001年に伊澤利光が初の2桁アンダーで4位タイと初のトップ5に。2009年には片山晋呉が優勝スコアとは日本選手最少の2打差で4位に入った。日本選手が優勝の扉の前に立つ所まで来た。

 日本人のメジャー初挑戦から89年目での悲願

 歩みは遅かったが、着実に先輩達が道筋を着け、日本選手のマスターズ初挑戦から85年、日本プロゴルフ殿堂によるとメジャー挑戦で云えば89年・・・延べ663人目の松山で結実した。
 メジャーを勝つ難しさ苦しさを知って居る先輩達が、我が事の様に喜び泣いたのは、そんな歴史の上に立って居るからだ。昨年、2020年は1920年に福井覚治が日本で初めてプロゴルファーと云う職業に就いてから100周年に当たった。

 101年目の今年、松山が開いたメジャーの扉は日本プロゴルフ界の「新しい世紀」が始まった事を宣言したと云って好い。その新世紀を生きる事に為るのが、小学生・中学生・高校生ナどの若い世代だ。松山は会見でこう言っている。

 「これからゴルフを始めたり、10代とか高校生に影響があると思う。初めてのメジャーチャンピオンに為った事で、今迄だったら日本人には出来ないんじゃないかと云うのがあったと思うが、そこを覆す事が出来た。ヤッと日本人でも出来ることが判ったと思います。もっと好い影響を与えられる様に、僕はマダマダ頑張って行けたらと思います」  

 日本でも米国でも、タイガー・ウッズの登場で、それを目標にして育った今の選手も多い。松山も自覚して居る。今のそして将来の、ゴルフに関わる全ての人に影響を与える「日本選手メジャー初制覇」に為った。 (敬称略)

 赤坂 厚 スポーツライター

                   以上





 松山英樹がマスターズ制覇の快挙を成し遂げた 5つの勝因

 ディリー新潮 4/15(木) 6:01配信


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                 松山英樹 4-15-1

 松山英樹(29)が最終日18番ホールのボギーパットを沈めた3秒後に、私は思わず泣いて居た。私は1986年大会からマスターズを取材して来たが、この年には中嶋常幸が8位タイに為り、1973年の日本人として初めて10位以内に入ったジャンボと並ぶベストスコアを出し「マア、好いとしよう、8位タイだもの」と喜んだ年である。
 それからは伊沢利光の4位タイ・片山晋呉の4位が出た。以来、松山がローアマに為った2011年迄、全く鳴かず飛ばずだった。

 ゴルフ記者を48年間続けている私も「タイガー・ウッズが出て来てからは絶望だナ。あるとすれば片山流の5番・9番ウッドを多用して高い球で止める技術しか無い」と諦めて居た。  
松山の場合も、8年前の全英オープン(ミュアフィールド)で見せた粘り強く、又ロングアイアンが抜群だった事から、この先の全英オープンを期待した。
 何分にもマスターズは規定競技みたいなもので、それもロングヒッターで短いクラブで高いボールを打ってグリーンに止めるパワーヒッター向きに改造された。全英オープン開催コースの様にリンクスで有るがママの自然なコースで無い為、体力の無い日本人には不向きである。松山はそれを遣って退けたのだから、ゴルフ記者歴48年の私は「松山は強く為ったナ」と感激した。  

 実は私自身、松山は又左親指の腱鞘炎(けんしょうえん)に苦しんで予選落ちかなと諦めて居た。3日目で2位に4打差を着けても左手親指が痛み出してボギーの連打で崩れるだろうと期待しなかった。腱鞘炎の一件では、アメリカツアーに参戦を決めた2014年の正月、私は都内のホテルの宴会場でマスコミに囲まれた彼に対し「左手の指の方は好く為ったそうですね」と質問したことがある。処が松山は記者達の前で怒って私を睨み着け何とも怪しい雲行きに為った。
 私は週刊新潮の枠で取材に臨んで居た。その後隣の会見室で記者会見だ。処が誰がどう言ったものか、幹事社の者が「週刊新潮は入ら無いで下さい」と私を除外して1時間半程アメリカ出発前の記者会見が行われた。私は外で待ち惚け何て事もあった。サテ、松山の勝因を分析するとこう為る。

 1. 決勝のペアリングに恵まれた  

 決勝の2日間を一緒に戦ったX・シャウフェレは、英米の選手ながら珍しく大人しく、仏教信者的な柔和さと思いやりのある好人物だった事である。父親はドイツとフランスのハーフで母親が日本育ちの台湾人で日本語がペラペラだと聞いて、ふとタイガー・ウッズを思い出した。
 英米のプロは平気で視界に入る所に立ったり、ショットで威圧する処がある。まるでマッチプレーの様に激しく闘志を剝き出しにし、自分が打つと後ろを振り返りもせずサッサと歩き出し、同伴者への思い槍など見せ無い。

 私は全米・全英オープンを何年も取材して来たが、競い出すとこうして必ず威圧する選手が少無くない。青木なら「何を、このヤロウ」と気を取り直して攻めて行くが、気の弱い日本人プロはそこからズルズルと崩れる。  
 処がシャウフェレは3日目15番でイーグルを決めると、話し掛けて拳を突き合わせて互いに励ました。マスターズでは見られ無い美しい光景だった。片言の日本語で松山に好く話し掛け、ジョークで笑わせて居たとも云われる。私は彼が勝つと好いなとも思った。
 松山に取って、プレッシャーの掛かる3日目・4日目をこうした人間と回れた幸運は、勝利への隠れた大きな要因に為ったに違い無い。

 2. 新ルールでパットラインが修理出来た事

 今年のグリーンは固く雨上がりの所為で重かった。多くの選手がパットをショートして居た。速いグリーンのタッチが体に染み着いている選手程タッチが出せ無いで居る。「分かって居るが打て無い」のである。 グリーンのコンディションも、最終組が回る頃には全選手とキャディの体重がグリーンを踏み着けるのでパットラインが凸凹に為る。マキロイがパットに泣いて優勝出来無かった時は、ラインが出せ無かった所為だった。2年前に改正された新ルールでスパイク跡等を修理出来る様に為ったので公平なパットが出来たのである。

 3. 松山は怒らず、平静を保った  

 これ迄の松山はミスすると感情をムキ出してパターで靴やグリーンの芝を叩いたりして、注意された事があった。今年のマスターズでは目沢秀憲(30)コーチを同伴し、スイングをチェックして貰ったり、悩みを聞いて貰ってメンタル面で強く為っている。
 平常心が保てたのは目沢コーチとの相性から來る。過つて私が友利勝良プロの欧州ツアーに3か月間同行した時の事だが、必ず2人程、心理学者風のメンタルトレーナーが売り込みに来て居た。1回50ポンド(約7,500円)が相場で、悩みごと・戦う心理状態について話を聞いて呉れる。松山の目沢コーチはゴルフを知って居る上に、話を聞いて呉れるのでメンタル効果があったのだろう。怒ら無く為って居た。

 4. 15番ボギーが幸運を呼ぶ  

 松山が最終日15番第2打をキャリーでグリーンオーバーさせて池に入れてしまったが、16番池近くからワンペナ払ってアプローチし、ボギーに為った事は幸運だった。バーディを決めて-10として2打差に迫ったシャウフェレは行け行けドンドンで16番もバーディを決め様と9番アイアンでピンを狙った。処が彼のトップを見た時、高過ぎると思った。

 短いクラブで狙う時は往々にしてバックスイングが大きく為る。するとフック系のボールに為り勝ち。ドロー系のシャウフェレには16番のピンは左手前にあって攻め易いので狙ったが失敗した。逆にフェード系の松山には攻め難い。ピンの右に落としてランで寄せる作戦に出ているが、余りにも完璧過ぎてボールが止まってしまった。ピンを背負う形でのファストパットをいきなりボギーにするが、シャウフェレの池ポチャのダボに救われた。グラブ選択にも迷わ無かった。

 5. 風が吹か無かった  

 オーガスタの11・12・13番は右手の13番ホール側から風が下りて來る。しかし今年は4日間、こうした風は無かった。17番池も波が立た無かった。このことが、アイアンがフェード系の松山に味方した。 しかし松山が優勝すると俄(にわか)にそよ風が吹き、応援するスポンサーのロゴが輝いて見えた。
 それにしてもオーガスタは余りにも改造し過ぎだ。これではアマチュアは予選パスさえ不可能に為った。ボビー・ジョンズのアマチュア優勝希望も絶望的に為った。本来のマスターズに戻して欲しい。

 早瀬利之 作家・ゴルフ評論家  デイリー新潮取材班編集 2021年4月15日 掲載

 新潮社    以上













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