アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2019年09月29日

過つて先進文明だった中国が「長い停滞」から抜けた時に起きること




 過つて先進文明だった中国が「長い停滞」から抜けた時 起きること

           〜現代ビジネス 9/29(日) 7:01配信〜


        9-29-20.png

 〜中国の歴史が停滞したのは、個人や個人企業がリスクを取ってフロンティアを拡大する仕組みが無かったからだ。今それが変わろうとして居る。これは、極めて重大な変化だ。中国は、人類の長い歴史を通じて世界のトップに居た。しかし、或る時点から落伍した。歴史の転換点は何時だったのか?多くの歴史家によれば、それは明の時代だ。
 経済学者であるグレン・ハバードとティム・ケインによる『何故大国は衰退するのか・・・古代ローマから現代まで』(日本経済新聞出版社 2014年)は、次の様に述べて居る〜





 明の時代に成長が止まった
 
 歴史家のアンガス・マディソンが示したデータを見ると、明朝の頃に中国の成長が止まった。人口は増大したが、人口1人当たりのGDPが増え無く為った。1400年代以降の中国では水準の変動が無く為った。「明時代の早期に何か決定的な事が起きて、中国の運命を変えたのだ」と著者達は云う。
 経済学者のアンガス・マディソンが収集した新しいデータと著者等による経済力の測定法を用いると、1700年のイギリスを100とした場合の中国の経済力は、次の様に変化した。

       9-29-3.png  

 1000年で52・1500年で163・1600年では375。詰まり、1600年の中国は、100年後のイギリスの4倍近い経済力を持って居たのだ。処が、1700年では218に為った。この時点でも未だ同時代のイギリスより3倍近い経済力を持って居るが、1600年代に転換点が有ったのは明白だと著者達は言う。
 此処で、以上で述べた事と、9月24日公開の「過つて中国は株式会社を持た無かったが故に没落した」で述べた事の関連に付いて注記して置こう。

 前回では、ヨーロッパの成長が大航海以降に加速した事を述べた。詰まり中国落伍の原因は、ヨーロッパ側に在ると云う見方だ。これは、多くの人が認める歴史的事実である。
 『大国は何故衰退するか』も、西欧の生産性が上昇した事は勿論認めて居る。実際「19世紀前半迄に、ヨーロッパの平均所得は中国の2倍の水準に達し、その頃始まった産業革命によってこの差は更に加速度的に開いて行った」と述べて居る。只、それだけでは無く、中国の成長が或る時に止まった事を重視して居るのだ。 では、この時に何が起きたと云うのか? それは、対外政策だと云う。これを以下に見よう。

 鄭和大航海の壮大さ

          9-29-5.jpg    

 ヨーロッパ諸国による大航海に先立つ15世紀初頭に、明の鄭和が率いる船団が大航海を行ない、アフリカ大陸東岸に到達した。この航海に付いては、既に、2018年12月6日公開の「世界史の視点で観ると分かる、中国・アリババ台頭の『大変革』の意味」で述べた。但し重要な事であり、又その時に書いた事の修正もあるので、繰り返して述べたい。
 これは、1405年、明の第3代皇帝・永楽帝(1360~1424年 在位1402〜24年)の命によって開始された遠洋航海だ。第1次航海はセイロン・カリカット迄だったが、その後、数次の航海が行われ、アフリカ東海岸に達した。第6次と第7次遠征では、ザンジバルに迄達した。これは、タンザニアの東であり南半球である。

            9-29-4.jpg     

 「宝船艦隊」と呼ばれた鄭和の船団は、コロンブスやマゼラン等のヨーロッパの艦隊とは比較に為らぬ程大規模で立派なものだった。コロンブスの第1回航海は、3隻の帆船と約90人(120人との説も)の乗組員で行なわれた。最大船であるサンタ・マリア号の全長は 24 mだった。
 それに対して、1405年に南京から最初の航海に出発した時の鄭和の船団は317隻のジャンクで構成され、一隻には平均90人の船員が乗り込んで居た。船団全体では3万~4万の人員が居た。6~8本のマストを持つ商船には絹や磁器・漆器等が大量に積み込まれて居た。9本のマストを持ち、全長が約130m・全幅が約50mの船も在った。この幅は、コロンブスのサンタ・マリア号の全長の2倍以上だ。

 鄭和艦隊の巨大な船に比べれば、コロンブスやマゼランの船はオモチャの様だったのである。鄭和大航海の目的は何だったか?ここで問題は、大航海の目的である。「世界史の視点で観ると分かる、中国・アリババ台頭の『大変革』の意味」においては、次の様に述べた。

 中国は大帝国であり、中国の歴代王朝の君主は、周辺国の首長に国王の称号を授与して居た。周辺国は使節を派遣して貢物を献上し(朝貢)、返礼の品を受け取って居た。これは、「冊封」と呼ばれるものだ。鄭和の大航海も、明帝国の威光を世界に知らしめる為の使節団であり、進貢国を増やす事が目的だった。

          9-29-6.jpg 永楽帝・成祖

 これは通説であり、多くの歴史家が認める処なのだが『大国は何故衰退するか』は、これとは若干異なる見解を示して居る。詰まり、永楽帝は貢ぎ物だけで無く貿易を重視したと云うのだ。そして、ジャーナリスト・著述家であるルイーズ・リヴァシーズの継ぎの言葉を紹介して居る。

 「皇帝に為った永楽帝は、父帝の厳格な朝貢・貿易政策を直ちに否定した」
 「永楽帝は民間資易を認め、コショウや金に対する資易規制を解除した。『中国の繁栄の源は農業のみ』と云う理想を支持して居た儒者の顧問等に取っては不快な事に、永楽帝は外国人商人に中国の扉を開き『四つの海に囲まれた人々は皆一つの家族である』と語った」
 「彼は更にこう宣言した。『国境の柵を越えて相互貿易を行い、国に必要なものを入手すると共に、遠隔地の人々の来訪を促そう』」






 権力争いで対外政策が二転三転

 処が、その後の権力争いによって、対外政策が二転三転した。永楽帝が1424年に亡く為ると、息子の洪煕帝(1378~1425年 在位1424~25年)は、周囲を伝統的な儒者の一団で固めた。即位した洪煕帝は、その日の内に「宝船の航海を全て中止する」と云う勅令を出した。しかし1年で死去した。
 第5代の宣徳帝(1399~1435年 在位 1425〜35年)は、貿易や開放政策を望んだ。この為、鄭和の航海は更に10年続いた。但し、1431~33年の第7次が最後に為った。
 第6代の英宗帝(又は正統帝)(1427~64年 在位1435 ~49年)は、官吏寄りの立場を執り、貿易の時代に終止符を打った。こうして朝貢貿易は崩壊し、明の艦隊は港で朽ち果てた。永楽帝と鄭和が行った大航海は継続せず、一時的な事業に終わってしまったのだ。

 海岸地域の住民は、その後も貿易から利益を受けたが、明の宮廷はそれを好ましからざるものと見て居た。1500年には、3本以上のマストのある船の建造は死刑に当たる罪とされた。1525年には、外洋船を取り壊す命令が出された。1551年迄には、複数のマストがある船の航海は、例え貿易目的でも犯罪とされる様に為った。
 この様に権力闘争の結果、外洋航海が崩壊した。「政治が経済成長を止めた」と云うのが『大国は何故衰退するか』の見解だ。





 リスクに挑戦する仕組みが有るか?

 政治が発展を阻害したのは、間違い無い事実だろう。但し私は、(それと矛盾する事では無いが)前回述べた様な社会構造の違いを強調したい。
 ヨーロッパでは、個人や個人企業が利益を求めてリスクを取り、新しいフロンティアを広げる機会が存在した。ヨーロッパの大航海は、香辛料貿易の新ルートを開発すると云う、商業的利益に導かれたものだった。  株式会社も、この様なインセンティブを更に利用しようとして発展した社会組織だ。

 それに対して、中国と云う国家には、新しいフロンティアを求めるインセンティブが存在し無かったのだ。大航海もリスクへの挑戦では無かった。永楽帝は貿易を重視したと云うが、リスクに挑戦した訳出は無かった。
 鄭和も、官僚として職務を実行しただけであり、自らの利益を求めて冒険航海を行なった訳では無い。その意味で、コロンブスやマゼラン等の冒険家とは全く違う人種だ。中国には、この様な人物が活躍出来る社会的な基盤が無かったのだ。こうして、中国は高い技術水準を持ちながら、歴史の動きから大きく立ち遅れる事に為った。

 もし、太平洋の彼方に何が在るかを探るインセンティブを当時の中国人が持てる様な社会体制で在ったら、中国がアメリカ大陸を発見して居ただろう。そして、世界の歴史は今とは全く違うものに為って居たに違い無い。

 今起きて居る事が何故重要か?
 
 最後に、次の2点に付いて述べて置こう。第1は「制度が重要だったのかどうか?」だ。『何故大国は衰退するのか』は、政治学者フランシス・フクヤマの「明朝中国には、近代的経済の発展に不可欠だと現在考えられて居る制度の大半が存在して居たから、制度が衰退の原因では無い」と云う考えを紹介した後で「この主張は正しく無い」として居る。私もその通りだと思う。
 ヨーロッパに生まれた株式会社は、中国には生まれ無かった。それが生まれ無かったのは、官僚国家だったからだ。この様な制度の違いが、その後の歴史に重大な影響を与えたのだ。

 第2は「原因が中国に在ったのか、ヨーロッパに在ったのか?」だ。これに関して『なぜ大国は衰退するのか』は、経済史家ジョエル・モキアの次の様な言葉を紹介して居る。
 「答えるべき第1の問題は、何故中国がヨーロッパとは異なって居たのかでは無く、何故1800年当時の中国は1300年当時の中国と異為って居たのかである」そうだろうか? 私はこの意見には賛成出来無い。

 1800年当時の中国には株式会社が無かったと云う意味で、1300年当時の中国と同じであり、それコソが問題なのだ(注)。ヨーロッパが変わったのに、中国が変わら無かったのが問題である。それが、今変わりつつある。だからコソ、これは、世界史的な大事件であり第2の大転換なのだ。



 (注)清朝では、租界に住む外国人が次々と株式会社を設立した。これを清朝の洋務派官僚が取り入れた。1872年に上海で設立された輪船招商局は、中国で最初の株式会社と言われる。

             野口 悠紀雄    以上







┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━・・…★
┗★ テレビCM放映中!ホテルをお得に予約するなら。
┏━┓┏━┓☆━┓┏━┓┏━┓┏━┓☆━┓┏━┓┏━┓┏━┓☆━┓┏━┓
┃ホ┃┃テ┃┃ル┃┃価┃┃格┃┃比┃┃較┃┃は┃┃ト┃┃リ┃┃バ┃┃ゴ┃
☆━┛┗━┛┗━┛┗━┛☆━┛┗━┛┗━┛┗━┛☆━┛┗━┛┗━┛┗━┛
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35AUMM+EIQLWY+32FK+6DRLV
トリバゴは250社以上の旅行サイトからホテル料金を一挙に比較。
短い時間で最適な料金プランをご提案します。

国内&海外の格安ホテル検索『トリバゴ』






この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9248621
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。