アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2019年08月27日

「戦争には勝者も敗者も無い」川に人骨・・・戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験



 「戦争には勝者も敗者も無い」 

  川に人骨・・・戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験
   

       〜特集トップ Yahoo!ニュース  Yahoo! JAPAN 8/14(水) 7:30 配信〜


            8-27-13.jpg

         「川で泳ぐと、沢山の人の骨が沈んで居るんです。悲惨ですよ」


 〜広島県で終戦を迎えた元衆議院議員の亀井静香氏(82)は少年時代の記憶を語る。終戦から74年。不戦の誓いを立てた日本では、戦争を知る人達が次々と鬼籍に入り戦争の記憶は風化しつつある。現職の国会議員も殆どが戦後世代。保守系政治家としてこの国の戦後政治を見て来た亀井氏に、自身の戦争体験に付いて聞いた。山口一臣 Yahoo!ニュース 特集編集部)〜


 




 ピカッと光った後に地響き

 亀井静香氏は1936(昭和11)年に広島県山内北村(やまのうちきたそん、現・庄原市)で生まれた。県庁の在る広島市から北東に80キロ程離れた山間の村。父は村の助役、4人兄妹の末っ子で、姉2人兄1人が居た。広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日午前8時15分。当時8歳だった亀井氏は今も鮮明に覚えて居る。

 ・・・その瞬間は、何処で何をして居たのですか?

 国民学校3年の時だったかな。当時、小学校は校庭を全部イモ畑にして、児童は皆朝からイモ畑の手入れに駆り出されて居た。夏休みなのに。食料が無かったからね。それで朝8時過ぎ、私の通って居た川北小学校は少し高台にあるんですが、山並みの向こうからピカッと空に鮮烈な光が見えたんです。アレッと思ったらデーンと地響きがして来た。
 腹の底に響く様な、途轍も無い地響きだったよ。光った後にね。ヤガテ、皆さんも知って居るキノコ雲がサァーッと立ち上ってね。それは恐ろしいと云うよりも、一体何が起きたんだろうと云う気持ちでした。アンナ光景は初めて見た。


 ・・・当時、「原爆」と云う言葉は?

 知りませんでしたよ。一体何が起きたんだろう?どうしたんだろう?って。私が生まれた山内北村は未だ村なんだけど、西側に現在の三次市(みよしし)が在った。そこが空襲で遣られたのかナぁとか、皆で噂し合って居た。ヤガテ広島に落とされたのは新型爆弾らしいと云うのが口伝に伝わって来ました。
 それから数日後ですよ。アノ光に遭った人達が、我が村にも逃げて来たのは。服も着ずに肌が露(あら)わな人、全身焼けタダレタ人、髪の毛が荒れ果てたママの人、それはもう凄まじい光景でした。


 亀井静香氏は保守派として知られた政治家だ。1960年に東京大学経済学部を卒業後、2年程のサラリーマン生活を経て警察庁に入庁。1971年、極左事件に関する初代統括責任者と為る。1977年に退官、2年後の衆議院議員選挙に出馬、初当選した。
 自民党では、運輸大臣、建設大臣等閣僚も経験したが、2005年、郵政民営化に反対して自民党を離党。2017年の衆院選に出馬せず政界を引退した。

 亀井氏は、幼い頃の郷里での体験が忘れられ無いと云う。一番上の姉は、原爆投下後の広島市内に入った事で被爆した。入市被爆である。俳人で俳誌「茜」を主宰して居た出井知恵子(いずいちえこ)さんだ。1929年生まれで、1986年に白血病で亡く為って居る。

 ・・・ご家族も被爆されたとの事ですが。

 後で判ったんだが、姉も被爆して居たんです。一番上の姉が。当時、三次の高等女学校の寄宿舎に住んで居たのですが、直ぐに広島市内に救援活動に向かったと言います。多くの女学生と一緒にね。三次から爆心地へ通い続けた。それで二次被爆に遭ってしまったのです。

 ・・・詰まり、三次に留まって居れば・・・

 広島から70キロは離れて居るからね。行か無ければ被爆は無かったんです。でも、そんな事分からんから、当時は。それで、白血球の状態が段々悪く為って、苦しんで、最後は亡く為った。三次に居れば、助かったかも知れません。

 ・・・お姉さんは、俳句を詠む人だったそうですね。

 ええ、小さな雑誌を主宰して居りました。亡く為った時に当時の広島市長が、姉が生まれた私の実家の庭に句碑を立てて呉れてね。そこにはこんな句が刻まれて居ます。

 〈白血球 測る晩夏の渇きかな〉

 白血球が増えたり減ったりして居たから、そう云う恐怖感と云う様なものを姉は俳句にしたんだと思う。「渇きかな」と云うのは喉の渇きなんだろうね。姉のクラスメートの多くは同じ目に遭ってますよ。原爆訴訟(原爆被災者が、米国の原爆投下を国際法違反とし、戦争を起こした国を相手取り損害賠償請求を起こした訴訟)を起こした友人も居る。亡くなった人も少無くないですから・・・



 




 お国の為に死ぬのが当たり前

 亀井氏が生まれた1936年は、国内では二・二六事件が起き、世界ではナチス・ドイツが存在感を増して居た時期だ。物心着いた時は、既に戦争一色。亀井氏の家にも、通って居た学校にも天皇(昭和天皇)の写真が「御真影」として掲げられて居たと云う。
 又、アメリカ兵が遣って来た時に備えて、家には竹ヤリがあった。鬼ゴッコや隠れンボと同じ位〈戦争ゴッコ〉も日常だった。必然、幼かった亀井氏も愛国少年に為ったと云う。

 ・・・矢張り、亀井さんも「天皇陛下、バンザイ」とか「鬼畜米英」とか?

 そりゃそうよ。だって、それが時代の空気だから。朝、学校に行くと、一番に天皇陛下の御真影に挨拶をする。毎日だよ。それは、忠君愛国ですから。そうで無いと「非国民」にされる。当時の天皇陛下は生き神様です。

 ・・・小学生でも、ですか?

 勿論。今の人からすれば可笑しいと思うかも知れないけれど、疑問に思う人間は居なかったと思うね。極一部にね「戦争反対」とか「このママじゃ負ける」と思っとった人が居たかも知れ無いけれど、殆どの人はみ〜んな非常に素直に、兎に角鬼畜米英でしたよ。

 ・・・それは、親とか学校の先生とかに教わるものなんでしょうか。

 教育もそうなんだけど、空気みたいなモノだから。自然にね。時代の空気を吸って居ると自然とそう為った。天皇陛下の為、お国の為に死ぬのが当たり前だと。だから私の様な子供でも、戦争に負けた事が判った時には肥後守と云う折り畳みの小刀を持って、兄貴を「一緒に死のう」って追っ掛け回した位です。でも、兄貴には逃げられちゃいましたけどね。

 川に沈む人骨

 愛国少年だった亀井氏は地元小学校を卒業すると、県内トップレベルの私立修道中学校に進学。広島市内に寄宿した。そこで又、戦争の悲惨さを目の当たりにする。

 ・・・当時の広島市内はドンな様子でしたか。

 もう原爆から4年経って居たからね、焼け野原にバラック(粗末な小屋)が一杯立って居ました。人間の生命力は凄いと思った。でもね、今でも覚えて居るんだけど、川で泳ぐと沢山の人の骨が沈んで居るんですよ。
 
 ・・・人骨ですか?

 多くの人が熱くて川に逃げて死んだから。それはモウ、夥(おびただ)しい数だったよ。それから、街にはビルがあるでしょ。そのビルの壁には人の影が映ったママ残って居る。写真機と一緒で、原爆の光で焼き付けられた人影の跡が。そう云うのがアチコチに在った。悲惨ですよ。
 段々悲しく為って、ヤガテ憤りに為って来た。何で、こんな目に遭わ無けりゃイケンのだって。それなのに、日本人は「過ちは繰り返しません」と反省ばかり。遣ったのはアメリカだよ。勝てば何でも許されるのか。そうじゃ無いでしょう。



 




 兎に角戦争は遣っちゃイカン

 「戦争には勝者も敗者も無い」と云うのが亀井氏の持論である。そして、一国のリーダーたる者、何があっても絶対に戦争への舵を切っては行けないと力説する。

 ・・・そう云う経験から、戦争は反対だと・・・

 経験の有る無しは関係無い。兎に角戦争は遣っちゃイカンのだよ。戦争には勝者も敗者も無い。それは、勝った方も負けた方も悲惨だから。アメリカだって、物凄い数の犠牲者を出して居るでしょう。そリャア、大統領は戦死し無いかも知れ無いけれど。日本の兵隊だろうがアメリカの兵隊だろうが、死ぬ事の悲惨さと云う面においては同じ。だから、戦争はしちゃイカンのです。

 ・・・しかし、当時の日本は戦争への道を突き進みました。

 極端な話、飢え死にしたって戦争はし無い方がマシです。当時の日本も、ABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる貿易制限措置。1940年頃から進められ、対日石油禁輸等で、日本は追い込まれて行った)等で苦しんで居たとは言え、それでも別の道を選択すべきだった。一国のリーダーは、耐えて耐えて、国民に「我慢しろ」と言わ無いとアカン。戦争する訳にはいか無いんだとね。だけど、それは大変な事ですよ。

 ・・・何故、当時の指導者はそれが出来なかったのでしょうか。
 言うは易し。当時は、国民もマスコミも「ヤレ」「ヤレ」「ヤレ」でしたからね。そう云う中で、リーダーがそうじゃ無い道を模索して、それを実行すると云うのは、並大抵の事じゃ無い。それは分かる。しかしもう二度と、そう云う道を選んでは為らんのです。

 ・・・今は戦争を知ら無い世代が国会議員の大勢と為り、戦争への理解が乏しく為った発言も見受けられます。

 難しいけど「戦争を知ら無い世代」とレッテル貼る訳にもイカンだろう。書物や口伝えで、戦争に付いて理解して居る奴も居る。それを「お前達は戦後生まれだから知っちゃオラン」って、決め着けちゃイカンよ。そんな事言ったら歴史ナンか成り立た無いですよ。
 丸山穂高議員が叩かれてたでしょ、この間。(叩くのは)「知らねえ癖に、お前、戦争、戦争と言うな」と云う感覚があるんだよ、皆。ヤッパリそれは健全な感覚ってあるからね。一方で、国会議員が一般の人よりレベルが高いナンて考えも錯覚だよ。


 ・・・国会議員の質が下がったと云う事でしょうか。

 俺は、そんな事を言う程の立場じゃ無いよ。神様じゃネエから。嫌、俺なんか、神様から見れば、程度の悪い政治家だったなと思われてるよ。只、戦争は駄目だよ。人を殺し合う。戦争って云うのは、その最たるものだ。俺は、平和主義者だぞ。だから、戦争は嫌に決まってる。人を殺すのが好きな訳ネエじゃねえか。


 




 山口一臣(やまぐち・かずおみ)ジャーナリスト。公益社団法人日本ジャーナリスト協会運営委員。株式会社POWER NEWS、株式会社テックベンチャー総研の代表取締役。元週刊朝日編集長。1961年東京生まれ、早稲田大学第一文学部卒業。


 この記事へのご感想やご意見、又は「Yahoo!ニュース 特集」で今後取り上げて欲しいテーマをお寄せください。

                   以上



 【管理人のひとこと】


 戦争に付いての話は、機会有る毎に嫌でも耳にし目に焼き付けるべきだ。特に現在の世界には、常に局地的な紛争や殺傷が日常的に続いて居る。宗教の違い宗派の違い、民族の違いに民族内での内紛や利益の対立・・・韓国と北朝鮮の様に同じ民族でありながら敵対関係を辞められ無いものもある。
 人間は争うのが本質なのかと疑いたく為り、争いの無い関係は一時のスポットで有るかの様な有り様だ。だから、絶えず人間は戦争を過剰に意識して行動しなくては為ら無い。人間の本質は争うのが本能なのだから、意識的に「戦争の悲劇」を繰り返し記憶に残し続ける事のみがその本能への抑止力に為る。

 人間をそのママ放って置けば、一定の我慢を超えると争いが収まらず何れ喧嘩に発展し、それが集団から地域、地域から国へと拡大し、大きな紛争へと繋がってしまう。我々は自分達がバカなのだと自覚し、何度戦争をしてもその悲劇を繰り返す事しか出来無い無能な生き物だと分析すべきで、それを知った上で行動しなければ為ら無いのだろう。こんな事を考えてる間に、世界の何処かでは又や人間同士の命の遣り取りが起きて居る。



 




 信州・善光寺平の味噌醸造業者の通販【マルモ青木味噌醤油醸造場】


この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9123211
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。