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2021年05月18日

徳川慶喜の素顔に迫る短期連載 やたら敵作る「徳川慶喜」



 徳川慶喜の素顔に迫る短期連載 その4


 やたら敵作る「徳川慶喜」期待を何度も裏切る真意



 東洋経済オンライン 5/16(日) 7:01配信


     5-16-5.jpg

        徳川慶喜の素顔に迫る(写真:近現代PL アフロ)5-16-5


 「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推し図る事が難しく性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力と云っても好いだろう。その素顔に迫る短期連載の第4回は、幕府を離れて朝廷に近付く慶喜による大胆な言動についてお届けする。

 <第3回までのあらすじ>

 〜江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから皆の期待を一身に背負って育った。何しろ幕政は混乱の中にある。この局面を打開出来る優秀なリーダーが今こそ必要であり、それが慶喜だと周囲は盛り上がった。
 そんな中、何とか貧乏クジを引かずに済む様に立ち回る慶喜(第1回) だが、若き将軍、家茂(いえもち)の後見職の座に就く事に為り「文久の改革」と呼ばれる幕政改革に着手。徐々に政権の中枢に据えられて行く(第2回)
 優れた開国論を心に秘めていた慶喜は、攘夷など非現実的だと思いながらも、朝廷と幕府の板挟みに苦しむ。京に上った慶喜を待ち受けて居たのは激しい攘夷の催促だった(第3回)〜



 本音は「どうせ攘夷ナンか出来ない」  

 その場凌ぎで幕府が朝廷と交わした、攘夷の約束に付いて説明する為、慶喜は文久3(1863)年1月5日、将軍の徳川家茂に先立って京に入る。そこで、慶喜は朝廷や尊王志士達のプレッシャーに耐え切れず、攘夷の期限を約束してしまった。  
 だが、慶喜を責めるのは酷だろう。何しろ、公卿達が旅館に迄乗り込んで来て、脅されたのだから穏やかでは無い。慶喜は、将軍の家茂が未だ京に来て居ない段階で「将軍が江戸に帰ってから20日後」と攘夷の期日を決めさせられている。

 家茂が京に来るのは3月10日。10日間程京に滞在するとすれば、江戸には3月20日以降に戻る事に為り、ソコから20日後だから、攘夷は「4月中旬位」と答えたに等しい。結局、家茂が京に長く留め置かれた為、攘夷の期限は「5月10日」に定められた。
 勿論、4月だろうが5月だろうが攘夷など簡単に出来る訳が無い。煩(うるさ)い尊王攘夷派の公卿共や長州藩を黙らせる為に、取り敢えずの期限を決めたに過ぎ無い。慶喜はコンな身も蓋も無い事を言っている。  

 「到底行うべからざる攘夷なれば、又行われざる程の期日に定むべし」  

 どうせ攘夷ナンて出来無いんだから、出来もし無い期日に決めてしまえ・・・要は適当に決めたのである。この辺りの慶喜の「話の判ら無い人間は相手にしない」と云う割り切りは、幼少期から複雑な人間関係の渦中に在ったが故だろう。  
 そして、このアバウトさが意外な効果を発揮する事に為る。と云うのも、政事総裁職を務めた松平慶永(よしなが・春嶽・しゅんがく)が帰ってしまったので、京に残された家茂と慶喜は、尊王攘夷派のサンドバッグ状態である。好き放題言われながら慶喜と家茂は京から出られず人質の様に為ってしまった。

 実際に、将軍が江戸に帰るのを朝廷から何度も止められて居る。行列が出発してから、御所に呼び着けられる事すらあった。為るべく長く京に留めて将軍の失墜を世に知らしめようとしたのだろう。処が、攘夷の期限に付いて、慶喜が「将軍が江戸に帰ってから20日後」とした為に、帰して貰え無ければ攘夷は出来ないと云う理屈に為る。その点では、攘夷の期日を延ばす事に成功したと云え様。
 朝廷からすれば、攘夷が実行され無ければ困る。その為、4月21日には家茂が、22日には慶喜が江戸に無事に帰還出来た。人を食った慶喜らしい切り抜け方である。勿論、攘夷など遣る積りは毛頭無く、約束の5月10日に攘夷を決行したのは、下関の海峡を通る外国船を砲撃した長州藩だけだった。

 要約戻ったら老中達から批判  

 江戸に戻った慶喜を待って居たのは、自分ばかりを批判する老中達である。慶喜が京都でドレ程の目に遭ったのかは知ろうともしない。我慢の限界とばかりに、慶喜が将軍後見職の辞職願を出すのも無理からぬ事だろう。  
 だが、文久3(1863)年11月26日、慶喜は再び上洛を果たす。横浜鎖港問題の対応を決める為である。この問題に付いては後述するが、これから国をどうして行くのか。その事を議論するには、結局、慶喜の存在が必要不可欠なのである。

 「ヤレヤレ」と云う慶喜のウンザリ顔が思い浮かぶ様だが、満更(まんざら)でも無かったかも知れない。何時だって、慶喜は遣る気が無い訳では無い。只、利用される事に慎重で、飽く迄も自分の遣りたい様に出来る体制を目指したのである。お飾りに為る事だけは耐えられ無かったのだ。  
 慶喜が京に上ると、東本願寺に有力な藩の代表者達が集まり連日話し合いが行われる様に為った。例の如く、何時の間にか中心人物として扱われる慶喜。一方で、薩摩藩の発言力も高まっていた。
 
 長州藩の宮中支配にウンザリしていた中川宮(朝彦親王)が薩摩藩と手を組んで、孝明天皇にも同意を取り付けた上で、長州藩を京から追い出した為である。(八月十八日の政変) 話し合いの場には、政事総裁職を辞めた慶永(よしなが)の姿もあった。
 慶喜と一度は決裂したが、再び京に入った慶喜を最初に訪問したのが慶永である。慶永が聞きたかったのは、慶喜が薩摩藩に付いてどう思っているかだった。  

 「薩摩の事をお疑いに為って居るのか」薩摩が政治的野心を持って居ると警戒して居るのか・・・と云う事だ。慶喜はこう答えた「幕府は大いに疑っていたし私も同様だったが、疑った処で何も好い事は無いので、もう疑う事の無い様にしている」  
 慶永からすれば、長州が居なくなり過激な尊王攘夷派が京から立ち去った今コソ、有力大名がまとまるべき時。その為には、慶喜が薩摩藩と敵対しては困ると考えたに違い無い。慶喜の冷静な見解には、ホッと胸を撫で下ろした事だろう。

 自分の方針は「中興」ではなく「創業」  

 その後も話し合いは薩摩藩の島津久光が主導して進んで行く。或る時は、久光からコンな提案がなされた。  
 「優柔不断な公卿達では何も決められ無い。この際、諸侯達も入れて、議奏に加えてはどうだろうか」  
 勿論、集まって居るメンバーには異議は無い。松平容保(まつだひら・かたもり) 松平慶永(まつだいら・よしなが) 伊達宗城(だて・むねき) 山内豊信(やまのうち・とよのぶ)そして、徳川慶喜と島津久光(しまづ・ひさみつ)が朝議参与に任じられた。朝廷だけでは無く幕府の意思決定にも関与する事に為ったのだ。

 遂に新しい世の中が始まる・・・幾度と無く、慶喜に期待を裏切られた慶永(よしなが)も興奮したのだろう。朝議参与の仕組みを作る為に薩摩藩が朝廷と交渉して居る最中、慶永は慶喜にこんなことを聞いている。「今の時勢に合うのは、中興の精神かそれとも創業の精神か」  
 これに対して慶喜は「自分の方針は、中興では無く、創業の方にある」と断言。又その理由についてこんな風にも語っている「中興為らば、今迄した事は採らねば為らぬ。だが、創業ならば、規則も無ければ慣例も無いのだから善いと思ったことは直ぐ遣れる」
 
 これで要約足並みが揃った、今度コソ慶喜が覚醒した。新しい世に為ると慶永は確信した事だろう。だが、その思いは無残にも打ち砕かれる事に為る。そう、又もや慶喜によって、である。  
 「この3人は天下の大愚物なのに、宮さまは何故ご信用あそばすのですか?」  
 ・・・呆気に取られた事だろう。中川宮邸で宴席を開いた時の事である。酔っパラった慶喜が突然、慶永・宗城、そして久光のことを「大愚物」と罵倒したのである。一体何があったのか。意見が分かれて居たのは「横浜鎖港問題(よこはまさこうもんだい)」である。

 これは、日米修好通商条約に基づいて開いた横浜港を閉じて欲しいと云う朝廷から幕府への要求で、問題点は何時もと同じ。外国と結ばされた条約に従って開国の状態を続けるか、それとも、条約を破棄して鎖国に踏みきるかと云う議論である。
 元々開国論者である久光・宗城は勿論、一時期は攘夷派と為ったが開国派に転じた慶永は、一旦開けた横浜港を再び閉じるのは不可能だと云う立場を執る。慶喜も本音は開国論者で、攘夷の思想には散々な目に遭わされて来た。勿論、3人に同調する・・・かと思いきや、何と慶喜は反対。朝廷と同じく攘夷の立場に立ったのだ。そして止めを刺すかの様なこの暴言である。慌てた慶永は泥酔して居る慶喜を摘まみ出している。

 慶喜の立場を完全に理解出来て居なかった慶永  

 「慶喜の乱」と云えば大袈裟だろうか。この暴挙の理由には様々な説がある。@国内を安定させるべく攘夷派に配慮をしたのではと云う考えもあれば A攘夷を希望する朝廷に遠慮したのではないかと云う考えもある。恐らく何れも正しいが、一番の理由は B薩摩藩が政治を主導するのが気に食わ無かったのだろう。

 慶永も気を付けて居た処だが、慶喜の立場を完全に理解出来ては居なかった。と云うのも、諸藩の有力者達は夫々の勢力基盤がある。だが、慶喜の後ろ盾は徳川家である。参与会議が力を持つ事は、自身の影響力を失う事でもある。取り分け薩摩藩が急速に権勢を奮い始めて居る。
 これ以上、久光が天皇に近づく事の無い様に、ワザと暴言を吐いて参与会議をブッ壊したと云うのが真相に近いのだろう。慶喜は邸に帰ると、侍臣達にこんな風に語った。  

 「今日は愉快、愉快。大技計(おおわざけい)をブチ壊したのは痛快の至り」  

 技計(わざけい)とは、薩摩藩がイニシアチブを握ろうとして居た事を指す。家来も「烈公(父の徳川斉昭)の神霊が乗り移られたのか」と皆感服。酒を飲み直して盛り上がったと云うから、余程薩摩への鬱憤が溜って居た様だ。
 只、そうかと云って慶喜のこの大胆な行動が、幕府内部で支持された訳では無い。元々、参与会議に加わった時点で、幕府内での慶喜の求心力は低下して居る。慶喜は何時も周りを敵ばかりにする。それでも、暫くすれば皆が寄って來る。それも判って居たのだろう。
 
 慶喜が目指したのは、飽く迄も自分が中心と為ったこれ迄に無い枠組みだ。そう云う意味では、慶永に「創業」と語った言葉には嘘が無かった。慶喜は、前から辞表を出して居た後見職を正式に辞任。元治元(1864)年3月に禁裏御守衛総督(きんりおしゅえいそうとく)に就任する。これは朝廷を守る役割であり大胆な転身を図ったと云え様。

 立場が変わっても目指すものは同じ  

 目まぐるしく変わる慶喜の立場。それでも目指すのは何時も同じで、自分が中心と為った「創業」である。
 同年7月に長州藩が過つての勢いを取り戻すべく京に出兵して來ると、薩摩藩の強兵がこれを撃退。(禁門の変) 負けじと慶喜も禁裏御守衛総督として活躍して存在感を発揮している。  
 そう、慶喜からすれば、参与会議での大暴れは薩摩藩との第1ラウンドに過ぎ無い。ここから正念場だ。御所で戦闘をした長州に対して孝明天皇が激怒。長州が「朝敵」と為ると、遂に長州を征伐するべく、慶喜は第1次長州征伐へと出向く事に為る。

 これで長州を制圧出来れば、その後も、徳川家が変わらず政権を掌握しながら、日本の政治は慶喜を中心に回り始めた事だろう。既にその兆しは在った。 だが、慶喜の前に、強大な壁が立ちはだかる。それは薩長同盟である。
 (第5回につづく)  



 【参考文献】 徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫) 渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫) 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館) 家近良樹『幕末維新の個性@徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新増補版』(中公新書) 野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)















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