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2021年05月17日

八月十八日の政変は何故起きたのか? 「幕末京都」の5年間





 “八月十八日の政変” は何故起きたのか? 「幕末京都」の5年間



 5-17-3.gif  5/15(土) 11:52配信



 5-15-15.jpg

        大政奉還の舞台と為った二条城(二の丸御殿) 5-15-15


 大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、京都に居る一橋慶喜に仕えた。 その京都は、まさに政局の中心地であった。八月十八日の政変から鳥羽・伏見の戦いへと至る5年の間に、京都で何が起きて居たのか・・・

 本稿は『歴史街道』2021年6月号の特集「『幕末京都』の真実」から一部抜粋・編集したものです


 八月十八日の政変と一会桑の台頭

 文久3年(1863)8月18日、会津藩と薩摩藩が中心に為って朝廷内でクーデターを決行、三条実美ら急進派の公卿七名と長州藩勢力を京から追放した。世に云う八月十八日の政変である。
 これ以後、鳥羽・伏見の戦い迄の激動の5年間に付いて、ターニング・ポイントと為った出来事を概観しつつ、その歴史的意義について解説して行こうと思う。 先ずは、八月十八日の政変迄の幕末の流れを簡潔に触れて置こう。


   5-17-5.jpg

                 明治期の徳川慶喜


 幕府が開国して列強との交易が始まると、物価が高騰して欧米人への反感が強まった。一方、通商条約の勅許を拒んだ孝明天皇に人望が集まり、天皇を奉じて列強を追い払おうとする尊皇攘夷運動が盛り上がった。更に運動を弾圧した大老の井伊直弼が桜田門外で殺されると幕府の威信は失墜。
 この頃から朝廷に長州藩士ら尊攘派が入り込み、急進的な公家と結んで実権を握り、幕府に攘夷を迫ったり将軍の上洛を求めたりする様に為った。

 文久3年3月に将軍家茂(いえもち)が上洛すると、朝廷は攘夷を命じ、仕方無く幕府は「文久3年5月10日を以て攘夷を決行せよ」と諸藩に通達した。但し、幕府の考える攘夷とは列強と交渉して日本から退去させる事であった。
 処が、長州藩は関門海峡を通過する外国船に砲撃を繰り返した。更に8月13日、尊攘派の画策により朝廷は孝明天皇の大和行幸(やまとぎょうこう)を発表する。攘夷祈願(じょういきがん)と云う名目で天皇を行幸させ、そのママ攘夷軍を結成して欧米人を駆逐しようと考えたのだ。

 しかし孝明天皇は、こうした激烈な行動を嫌い、公武合体派の島津久光(しまづひさみつ・薩摩藩主の父)らに相談した。公武合体派とは、朝廷と幕府が協調して政務を行なうべきと考える一派である。
 当時、孝明天皇は過激な攘夷主義者と思われて居たが、その真意を知った薩摩藩は、京都守護職の会津藩を誘い、8月18日に朝廷内でクーデターを決行した。

 政変後、朝廷は公武合体派の一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)・松平慶永(まつだい・よしなが)・山内豊信(やまのうち・とよのぶ・後の容堂)・伊達宗城(だて・むねき)・松平容保(まつだひら・かたもり)・島津久光(しまづ・ひさみつ)ら諸侯を参与に任じ朝議に参加させる事にした。
 朝廷の権威は、幕府を凌ぎ会議の動向が政治を左右するかに思われた。処が、参与会議は3カ月で空中分解する。慶喜が横浜鎖港を主張したからだ。

 貿易額の大半を占める横浜港を閉鎖するのは、到底現実的では無いので、久光や慶永は撤回を求めたが慶喜は耳を貸さ無かった。どうやら慶喜は、ワザと参与会議を崩壊させようとしたと思われる。
 @朝廷で主導権を握ろうとする久光を警戒したとか A攘夷を唱え天皇の歓心を買おうとした・・・とも言われるが B自己の権力を高めるのが狙いだった様だ。
 呆れた諸侯達は国元に戻ってしまい、その後、天皇に気に入られた慶喜禁裏御守衛総督(きんりおしゅえいそうとく)に任じられ、京都守護職の会津藩主・松平容保や京都所司代の桑名藩主・松平定敬(まつひら・さだのり)と結んで、朝廷の主導権を握る様に為った。
 この慶喜政権(一会桑政権・いちかいそうせいけん)は、公武合体を掲げ、江戸の幕閣とは一線を画したが性格的には親幕府であった。

 禁門の変と西郷隆盛の変心

 翌元治元年(1864)6月5日夜、会津藩お預かりの新選組は、長州藩士や長州派の浪士たちが屯する池田屋を襲撃、5人(異説あり)を殺害し多くの者を捕縛した。この時期「浪士が京都に放火し、混乱に乗じて松平容保らを殺害、孝明天皇を拉致して長州に連れ去る」と云う噂が流れて居た。

 同日朝に捕縛した古高俊太郎の供述から、新選組は近々に市中で焼き打ちが行なわれる計画を知り、会津藩に出動を要請した。会津藩内では慎重論も強かったが、最終的に桑名藩と一橋家の同意を得て出兵を決意する。場合によっては、長州藩との全面対決も辞さ無い覚悟だった。
 と云うのも、この数年間、尊攘派は勢力拡大の為に、親幕府派や公武合体派の人々を天誅と称して殺害したり恐喝したりして京都の治安を乱して来たからだ。 だから新選組が池田屋を制圧した後も、会津・桑名・一橋家の家士は翌朝迄市中の探索を行ない多くの尊攘派を捕殺して行った。只、長州藩邸の藩士達が自制した為、大きな戦いには為ら無かった。

 (池田屋事件・・・先日のNHK・歴史探偵の番組で取り上げられたのだが、新たな説によると、これは新選組による京都見回りの際の独立した事件では無く、一会桑政権が暴力に走る攘夷派を糾弾すべく、戦争覚悟で京から排除する決意の表明で在りその行動の一つだそうだ。詰り、この池田屋事件こそが、その後の戊辰戦争へと流れる一石と為った・・・と解説していた)

 しかし翌7月、長州藩は3人の家老を押し立てて大軍で京都郊外に姿を現わした。前年の政変で都落ちした尊攘派公卿と長州藩主の冤罪を訴える為に来たと云うが、それは口実に過ぎず、武力で威圧して朝廷の実権を奪還しようとしたのである。
 以前からの予定の行動であったが、池田屋事件が長州勢の怒りに油を注ぐ事に為ったのは間違い無い。 やがて長州軍は京都市中に乱入し、薩摩藩や会津藩等と激戦を演じたが、最終的に敗北して撤退した。

 この禁門の変で長州藩は朝敵と為り、朝廷は幕府に長州征討を命じた。征長総督には尾張の元藩主・徳川慶勝(とくがわ・よしかつ)が任じられた。 この頃、西郷隆盛は京都で初めて幕府の軍艦奉行・勝海舟と会談して居る。勝が会見を申し入れたのだ。
 軍賦役(ぐんふえき)として禁門の変で活躍を見せた西郷は、長州征討で軍の総参謀に任じられ、徹底的に長州を叩こうと考えて居た。

 勝はこれに大反対で、西郷に会うなり「幕府はもうダメだから、共和政治(雄藩の連合政治)をするべき。長州を攻めてはいけ無い」と説いたのである。幕府の重臣でありながら共和政治を語る勝に度肝を抜かれた西郷は、大久保利通に宛て「実ニ驚入候人物ニて(略)とんと頭を下げ申し候。どれだけ智略のあるやら知れぬ塩梅ニ見受け申し候。まず英雄肌合いの人にて(略)勝先生にひどく惚れ申し候」と記している。

 考えを改めた西郷の尽力により、長州藩は責任者の首を差し出して謝罪し当面の武力衝突は回避された。しかし江戸の幕閣はこの決着に不満で、翌慶応元年(1865)1月、長州藩主の毛利敬親父子を江戸へ護送しようとした。
 これを察知した朝廷は、幕府に主導権を握らせぬ様、勅命でその動きを阻止。すると2月初旬、老中の阿部正外と本庄宗秀が、江戸から大軍を率いて上洛して来た。朝廷を威圧し、更に一橋慶喜を江戸へ召還しようと考えたらしい。

 だが、関白の二条斉敬(にじょう・せいけい)が「慶喜公は、将軍に代わって京都を警備している。帰府せよと云うのは解せぬ。それに、無断で大軍を都に引き入れるとはどう云う了見か」と激しい叱責を加えたので、阿部と本庄はスゴスゴと引き返して行った。

 薩長同盟の成立と慶喜の将軍就任

 同年閏5月、将軍家茂が大軍を率いて大坂城に入った。長州に誕生した革新政権が反抗的な姿勢を見せたので、勅許を得て再征を断行しようと云うのである。京都の慶喜派(一会桑)も全面的に協力し、9月20日、慶喜は朝議に乗り込み、長州再征を奏請する将軍家茂に勅許を与える事を内諾させた。
 更に10月4日の朝議でも通商条約の勅許を求め、反対した公家達が退出しようとすると「認めぬと云うのなら私は責任を取ってこの場で腹を切る。只、私が腹を割いたら、家来が貴方達にどんな事を仕出かすか判らない」と言い放って席を立った。

 公家達は震え上がり、翌5日、通商条約の勅許を出してしまう。 こうした慶喜の豪腕に反発した薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らは、長州藩との提携を模索する様に為る。かくして坂本龍馬らの仲介により薩長両藩の融和が図られ、慶応2年(1866)1月、軍事同盟の密約(薩長同盟)が結ばれたのである。
 只近年は @同盟は倒幕を約したものでは無いとか A同盟交渉に龍馬は関与せず 木戸孝允が孤軍奮闘して成立させたと云った説が登場して来て居る事も付け加えて置く。

 同年6月、第二次長州征討が始まったが、薩摩藩は出兵を拒否。しかも戦いは、長州軍が征討軍を圧倒すると云う予想外の展開と為った。更に翌7月、将軍徳川家茂が大坂城で病没してしまう。この危機的な状況に、多くの幕臣は慶喜の将軍襲封を望んだ。
 しかし慶喜は、徳川家の家督だけを継承し将軍職には就かなかった。己の威望を高める為、諸大名から推戴された上で就任する事を望んだのだ。

 慶喜の懐刀だった原市之進は、諸大名の基に出向き慶喜を将軍に推すよう求めた。結果、尾張藩・紀伊藩・松山藩などが「是非慶喜公を将軍に」と記した嘆願書を朝廷に差し出し、孝明天皇も11月「徳川中納言 (慶喜)へ(将軍)宣下あるべしと思うなり。例え固辞すとも、此度は是非御請け致すべしとの内意を伝宣せよ」(『徳川慶喜公伝』東洋文庫)と申し渡した。
 こうして慶喜は、慶応2年12月に15代将軍に為ったのである。 だが、それから僅か20日後に孝明天皇が急死する。天皇の死は慶喜に取って大打撃だった。

 死因は疱瘡(ほうそう)と云うが、一説には岩倉具視と大久保利通による毒殺説もある。 それでも、原市之進の工作で慶応3年(1867)5月に兵庫開港の勅許を獲得する等、その後も慶喜は朝廷で大きな政治力を発揮し続けた。
 処がそれから3カ月後、その原が攘夷派の幕臣に暗殺されてしまったのである。これも慶喜に取っては大きな痛手だった。

 大政奉還 そして戊辰戦争へ

 さて、慶喜の将軍就任に危機感を覚えた薩摩の西郷や大久保も政治活動を加速させる。6月には土佐藩重臣の後藤象二郎や福岡孝弟らと「慶喜に将軍を辞職させ、朝廷を中心とした諸侯会議による共和政治を実現する」と云う薩土盟約を結び、更に芸州藩を加えて薩土芸三藩盟約(さつどげいさんはんめいやく)を成立させた。
 尚、後藤象二郎は坂本龍馬の示唆を受け、元藩主・山内容堂の許可を得た上で、幕閣に大政奉還(幕府が朝廷に政権を返還)の実現を働き掛ける様に為った。

 一方で、慶喜の凄まじい軍事改革を目の当たりにした薩長倒幕派は、武力で徳川家そのものを倒すしか無いと考える様に為り、後藤が進める大政奉還論に反対し薩土盟約の破棄を通告した。
 同時に、大久保が岩倉具視と結んで、倒幕の勅書を薩長両藩に与える様政治工作を勧めた。倒幕の密勅は10月13日に薩摩藩に下ったが、翌14日に慶喜が大政奉還の上表を朝廷に提出したことで水の泡と為った。慶喜に機先を制せられたのだ。

 処が倒幕派は巻き返しを図り、公卿の正親町三条実愛や中山忠能らを味方に引き込み、12月9日、五藩(薩摩・土佐・芸州・尾張・越前)による朝廷でのクーデターを断行、明治天皇による王政復古の大号令を発布させたのである。 これにより幕府は正式に廃止され、朝廷に新政府が樹立された。
 この夜、五藩の有力者が明治天皇臨席の下で会議(小御所会議)を開いたが、倒幕派は慶喜への内大臣罷免と領地(一部)の返上を議題とした。徳川方の暴発を誘発し、武力で倒そうと企図したのである。

 会議は山内容堂らの公議政体派(土佐・越前・尾張)の反対によって紛糾したものの、最終的に倒幕派が押し切る形で慶喜の辞官納地を決定した。
 これを知った慶喜は部下の暴発を抑え、速やかに京都から大坂城へ移り事態を静観した。すると、多くの大名が徳川家に同情を寄せ、これに力を得た公議政体派は、倒幕派から新政府の主導権を奪い、慶喜を新政府の盟主に据えようと動き、それがホボ実現する事に決まった。

 そんな時、大事件が発生する。江戸の佐幕派が薩摩藩の屋敷を襲撃したのだ。西郷隆盛が江戸へ送った浪人達が乱暴狼藉を働いた為である。事件を知った大坂城の兵士は激高し、流石の慶喜も抑え切れ無く為り、慶応4年(1868)正月元日、仕方無く討薩の表(新政府から薩摩勢力の排除を求めた要求書)を認(した)め、翌日、これを持たせて京都への進撃を許してしまった。
 結果、翌3日に京都の入口である鳥羽と伏見で、旧幕府軍と薩長倒幕派は全面的な武力衝突に至る。これが世に云う、鳥羽・伏見の戦いである。

 旧幕府方1万5千に対し薩長を中核とした新政府軍は5千・・・旧幕府軍の装備は薩長に引けを取ら無かったが、指揮官の無能によって敗北した。 すると大坂城の慶喜は正月6日、大坂城から敵前逃亡し、蒸気船に乗って江戸へ逃げ帰ってしまった。これにより旧幕府軍は瓦解し、翌明治2年(1869)まで戊辰戦争が続く事に為る。



          5-17-4.gif 河合敦 歴史研究家

 河合敦先生 プロフィール

 昭和40年(1965)東京都町田市生まれ 地元の中学・都立成瀬高校卒業 平成元年(1989)青山学院大学卒業(文学部史学科) 平成17年(2005)早稲田大学大学院修士課程修了(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))平成23年(2011)早稲田大学大学院博士課程満期退学(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))
 平成元年(1989)東京都入都 町田養護学校(現都立町田の丘学園)小岩高校定時制課程 紅葉川高校 白鴎高校で勤務 平成25年(2013)東京都退職 私立文教大学附属中学高等学校で勤務 平成28年(2016)文教大学附属中学高等学校退職 現在 多摩大学客員教授 早稲田大学非常勤講師 高校教師27年の経験を生かし、講演会・執筆活動・テレビで日本史を解説している 第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)第6回NTTトーク大賞優秀賞受賞


 エピソード

 小学生の時 裏庭から縄文土器らしいものを発見し歴史に興味を覚える。
 中学生の時 金八先生を見て感動 教師に憧れる。
 高校生の時 「龍馬がゆく」を読み感激 日本史教師を目指す
 大学は史学科に進み、古美術研究会に所属
 郷土史を研究 新人物往来社主催・郷土史研究賞優秀賞を受賞
 平成元年(1989)より都立高校教諭
 平成3年(1991年)「わが祖先を語る」を秋田書店「歴史と旅」に投稿 編集長に見いだされ、
 教師に 3年目の秋の25歳の時「歴史と旅」で雑誌デビュー その後「歴史読本」などにも寄稿
 平成6年(1994年)共著で『「ニッポン人」の法則500』(実業之日本社 )を出版
 平成9年(1997年)31歳の時「早わかり日本史」(日本実業出版社)で単行本デビュー
 平成17年(2005年)39歳より「世界一受けたい授業」(日本テレビ)などテレビ番組に出演
 平成25年(2013)3月末にて都立高校を退職 私立高校教諭と大学で講師を務めながら作家活動
 平成28年(2016)3月31日をもって私立高校退職
 現在 大学生に日本史及び日本史教育を教えている
 現在 55歳


 自由民権運動や日露戦争など近代史を主に研究している 骨董店で古文書を入手し、朽ちた紙片を部屋中に散らかし研究 足の踏み場もない状態らしい ハワイの日系移民についても研究 ハワイに行くたび、お寺とお墓をまわっている ハワイに移住できる日を夢みている・・・

 公益社団法人 日本文藝家協会会員 日本人の姿を語りつぐ会 塾長 軍事史学会 会員 日本史攷究会 会員
 歴史学研究会 会員 日本歴史学会 会員


                   以上















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