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2020年04月01日

何故 ナチス・ドイツは 大国フランスを1カ月で降伏させられたのか




 何故 ナチス・ドイツは 

 大国フランスを1カ月で降伏させられたのか


             〜プレジデントオンライン 4/1(水) 9:16配信〜


        4170.jpg

 1940年6月 ドイツに占領されたパリ ナチスのハーケンクロイツ旗が凱旋門の上に翻った(1940年6月 フランス・パリ)- 写真 dpa 時事通信フォト

 第1次大戦では4年経っても倒せ無かったフランスを、ナチス・ドイツは1カ月程で攻略した。現代史家の大木毅氏は「グデーリアン装甲部隊の進撃は目覚ましかった。余りの急進振りに、軍首脳部が何かの間違いでは無いかと疑った程だった」と云う。

  ※本稿は 大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです。

 ダンケルクの停止命令が発出された理由

 このダンケルクの停止命令は、第2次世界大戦史の重大な転回点だったとされて居る。それに依って連合軍・・・取り分けイギリス軍に致命傷を与えるチャンスが失われたのだ。懸る不条理な命令を発したのはヒトラーだったとされて居る。
 その事自体は間違いでは無い。が、ヒトラー決定以前から、クライスト・クルーゲ・ルントシュテット等が、グデーリアン以下の放胆な突進に不安を覚え、足踏みしたがって居た事も指摘して置かねば為ら無い。

 5月23日、クライスト装甲集団司令官は、麾下部隊が消耗し分散して居る事を懸念すると、A軍集団司令部に報告した。アラユル快速部隊を指揮下に入れて居たクルーゲ第4軍司令官も、そうした不安を共有して居たから、快速部隊を一旦停止させ、後続部隊との間隔を詰めるべきだと意見具申する。
 ルントシュテットA軍集団司令官も、この進言を容れ、25日の攻撃再開に備えて、クライストとホートの両装甲集団は〔現在地点に留まるべし〕と下命した。詰り、24日の停止命令より前の23日に、諸自動車化軍団は足踏みさせられて居たのだ。

 停止命令は改めて出されたもの

             4162.jpg クルーゲ将軍

 けれども、連合軍撃滅のチャンスが到来して居ると判断したブラウヒッチュ陸軍総司令官ハルダー陸軍参謀総長は、A軍集団の消極的な措置に怒り、全装甲部隊を握って居るクルーゲの第4軍をB軍集団麾下に移す旨の命令を発した。無論、より攻撃的なB軍集団に突進を続けさせる企図である。
 5月24日朝、ヒトラーが、シャルルヴィルに在ったA軍集団司令所を訪れた時の情勢は、この様なものであった。

         4163.jpg ブラウヒッチュ陸軍総司令官

 ルントシュテットから、A軍集団が第4軍を奪われ、脇役に追い遣られた事を聞かされたヒトラーは、自分の預かり知らぬ処で、懸る重大決定が為された事に激怒し、ブラウヒッチュの命令は無効であるとした。その上で、改めて装甲部隊を停止させると決定したのである。果たして、ヒトラーを、掻くの如き誤断に導いた動機は何だったのだろうか? 

 ヒトラーを誤断させた8つの動機
 
 1940年の西方侵攻作戦に付いて、今尚スタンダードとされて居る研究書『電撃戦という幻』(1995年初版刊行)を著したドイツの軍事史家カール=ハインツ・フリーザーは、ダンケルク撤退直後から立てられた様々な説を元に、考えられる理由を以下の様に列挙している。

 @ ダンケルク周辺の地表は装甲部隊の行動に適さ無いと判断した・・・24日から雨が降り始め、地面が泥濘と化した
 A 以後、フランス全土を占領する作戦の為、装甲部隊を温存すべきだと考えた
 B 連合軍による側背部への攻撃を恐れ、装甲部隊を控置して置いた
 C 攻勢第2段階に関心が移って居り、ダンケルク攻略は副次的な作戦であると見做した
 D 包囲した敵の規模を過小評価し、左程重要では無いと思って居た
 E 海上撤退作戦等は不可能で有ると考えた

 フリーザーに依れば、この@からEは、必ずしも強固な論拠を持つものでは無く反駁可能である。重要なのは、 
 F 空軍力だけでダンケルクの敵を撃滅出来るとしたドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(1938年2月4日進級)の大言壮語を信じたとする説と
 G イギリスを講和に導く為、その面子を潰す事を恐れて、遠征軍殲滅を避けたとする説であろう。

 自己の権力を強調する為? 

 フリーザーはFに付いては、ゲーリングの発言は23日の事で、ヒトラーの決定に影響力を及ぼした可能性は有るものの、当時ドイツ空軍が可成りの消耗を被って居た事を考えれば(当然、総統の耳にも入って居る)、決定的な要因と為ったとは考え難いとした。
 Gに関しても、時系列に沿って検討して見ると、ヒトラーが、講和の為に手加減したと取れる様な発言をしたのは、ダンケルク撤退の成功が明らかに為ってからの事であり、言わば失態を取り繕う意味が有ったと退けて居る。

            4164.jpg ゲーリング元帥

 懸る議論の末に、フリーザーが到達したのは、装甲部隊のダンケルク突入に熱心だったOKHに、誰が主人で在るかを見せ付ける為に、ヒトラーはルントシュテット等に同調した、詰り、自己の権力を強調する為に停止命令を出したとする説だ。
 このFG、そしてフリーザー説に示されて居る要因のドレかが決定的だったのかも知れないし、或いは、その全てが複合的にヒトラーの心理に作用して居た可能性もあろう。

 孤立無援の連合国軍 大規模脱出を決行

           4165.jpg グデーリアン戦車将軍 

 何れにせよ、英国の守護天使が授けたかとさえ思われる様な好機が、看過される訳は無かった。王立海軍は、商船216隻・スクーツ(喫水の浅い木製船)40隻・海軍艦艇139隻・更に数百の漁船や小舟艇・・・全体で900隻以上を掻き集め「ダイナモ」作戦を発動した。その目的は、包囲されたイギリス遠征軍とフランス軍他の連合軍の一部部隊を海路救出する事だ。
 風前の灯火だった連合軍部隊が脱出して行くのを、グデーリアンとその装甲部隊は指を咥えて見て居る他無かった。こうして助け出されたイギリス軍将兵は、重装備コソ失っていたとは言え、英陸軍再建の土台に為って行く。ドイツ軍に訪れた千載一遇の機会は空費されてしまったのである。

 ダンケルク占領で西方侵攻作戦は結着
 
 5月26日、ルントシュテット依り状況の変化に付いての説明を受けたヒトラーは、要約停止命令を撤回した。翌27日午前8時、攻撃が再開されたものの、袋の鼠で在った筈の連合軍諸部隊は、ダンケルクの綻びから逃れ出して居た。
 6月1日、ドイツ軍はダンケルク総攻撃を実施し4日朝には同市を制圧した。彼等が見たものは、夥しい数の遺棄された装備や物資であった。イギリス陸軍の中核を為す、訓練され経験を積んだ将兵は海峡の彼方に去って居たのだ。

 ともあれ、ダンケルク占領に依って、西方侵攻作戦は結着が着いた。ドイツ装甲部隊が築いた回廊の南には、尚相当数のフランス軍部隊が在り、ソンムとエーヌの両河川に拠って抵抗の準備を整えては居る。
 だが、主力を撃滅されたフランス軍が66個師団しか有して居なかったのに対し、ドイツ軍は104個師団(他に予備として19個師団を控置)を投入する事が可能だったのである。

 赤号作戦(仏本土侵攻)と「グデーリアン装甲集団」の誕生

 従って、フランスに止めを刺す為の攻勢「赤号」作戦(6月5日発動)は、ワンサイド・ゲームの様相を呈する事に為った。これに先立つ5月28日、グデーリアンは、新たな装甲集団を編合し「赤号」作戦に参加する様ヒトラーから命じられる。「グデーリアン装甲集団」の誕生で在った。
 6月1日にグデーリアンを司令官として発足したこの新装甲集団は、2個自動車化軍団を麾下に置いて居た。夫々二個装甲師団及び1個自動車化歩兵師団を有する第39・第41自動車化軍団である。

 A軍集団麾下第12軍の指揮下に置かれたグデーリアン装甲集団は、南に向かって突進する様に命じられた。スダン南方からスイス国境に掛けて展開して居るフランス軍の背後に回り込み、これを包囲する事が目的だった。
 6月9日、攻勢を発動したグデーリアン装甲集団の進撃は目覚ましく、忽ちブザンソンを攻略、およそ一週間後の17日にはもうスイス国境に達して居た。余りの急進振りに、軍首脳部が何かの間違いでは無いかと疑った程だった。

 「ポンタルリエでスイス国境に着いたと報告すると、ヒトラーは『貴官の報告は誤りで、ポンタイエ・シュル・ソーヌ〔東部フランスの町〕に到達したと云う事だろう』と反問して来た。直ぐに『ミスではありません。小官は今、スイス国境のポンタルリエに居ります』と回答する。それで、疑り深いOKWも納得した」(電撃戦)

 大国フランスを1ヵ月で降伏させる

 一方、独仏国境に展開して居たドイツC軍集団もマジノ線攻撃を敢行・突破に成功し、6月19日にグデーリアン装甲集団と手を繋ぐ。約50万のフランス軍が包囲されたのだ。
 この間、6月14日には、無防備都市宣言を出した首都パリにドイツ軍が入城して居り、フランス国民の士気は地に落ちて居た。6月22日、パリ近郊コンピエーニュの森で独仏の休戦協定が調印される。

 ドイツは、第1次世界大戦で4年余の時を費やして、遂に打倒する事が出来無かった大国フランスを、今度は一か月程で降したのである。


                  以上















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