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2020年01月31日

戦場秘話 命懸けでフィリピンを脱出した搭乗員 下された「非情命令」




 戦場秘話 命懸けでフィリピンを脱出した搭乗員 下された「非情命令」

             〜現代ビジネス 1/31(金) 12:01配信〜

 今から75年前の昭和20(1945)年1月、フィリピン・ルソン島の山中を密かに行軍する数百名の日本軍将兵の姿があった。
 飛行服姿の者も居れば草色の第三種軍装の者、半袖半ズボンの防暑服姿の者、中にはランニングシャツに半ズボンと云う者も居る。武装と云えば、銘々が所持して居る拳銃と日本刀位。皆、一様に薄汚れた格好をして、それは、何処から見ても敗残兵の群れだった。
           
 大敗を喫し、編成された「特攻隊」

 昭和19(1944)年10月17日、米軍が突如、レイテ湾口のスルアン島に上陸したのを切っ掛けに、フィリピンを巡る日米の熾烈な攻防戦が始まった。
 過つてアメリカが統治し軍事拠点を置いて居たフィリピンは、昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に日本軍の猛攻を受け、昭和17(1942)年5月に米軍が全面降伏、日本の占領下に置かれた。
 昭和18(1943)年10月14日、フィリピンは日本政府の支援の下独立宣言を発しホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国(今日「フィリピン第二共和国」と呼ばれる)が誕生。日本は占領以来の軍政を廃し、新たに結ばれた日比条約に基づいて陸海軍部隊を引き続き駐留させて居た。

 既にマリアナ諸島のサイパン・テニアンは敵手に落ち、この上フィリピンを取られたら、日本本土は周囲を敵に囲まれ丸裸同然に為る。10月18日、日本海軍は「捷一号作戦」を発令、総力を以てレイテ湾に押し寄せる米上陸部隊を迎え撃とうとしたが、米海軍との「決戦」で、10月24日、戦艦「武蔵」が航空攻撃で撃沈されたのを初め、戦艦3隻・空母4隻を含む主要艦艇の多くを失い、レイテ湾突入を果たせ無いママ大敗を喫した。

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 最初に特攻隊を送り出した第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将 大西は後軍令部次長と為り、終戦を告げる玉音放送の翌日未明、割腹して特攻隊員の後を追った

 この時、基地航空部隊の少ない機数を以て、味方艦隊のレイテ湾突入を支援する為、敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする事を目的に編成されたのが、爆弾を搭載した飛行機諸共敵艦に体当りする「神風特別攻撃隊」(特攻隊)である。

 第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の命で10月20日に編成された特攻隊は、10月25日、延べ10機の体当り攻撃で護衛空母1隻を撃沈、3隻に損傷を与えると云う、艦隊による砲撃や通常の航空攻撃を上回る戦果を挙げた。
 日本艦隊が壊滅し米上陸部隊への攻撃が失敗に終わった後も、特攻隊は内地からの補充を受けながら次々に編成され、更に陸軍も特攻に加わって、米軍の侵攻を少しでも遅らせるべく多くの若者達が眦(まなじり)を決して飛び立って行った。

 航空隊が飛行機を失い「陸戦隊」に

 昭和20年1月4日から5日に掛けて、空母を含む艦隊に護衛された敵の大規模な輸送船団が、ルソン島の西側を北上して居るのが索敵機により確認された。レイテ島をホボ制圧した敵は、今度はマニラ湾外を北上し、ルソン島西側のリンガエン湾から上陸して来るものと予測された。
 フィリピンの日本軍は、既に食糧も不足して居る。比較的優遇されて居た海軍の航空隊でサエ、この頃に為ると食事は、朝、昼、晩共にサツマイモだけ。直径60ミリ程のものなら1本、30ミリ程のものなら2本が支給されるに過ぎ無い。これから特攻に出撃する搭乗員にだけ、大きいサツマイモ2本と塩湯が供された

 1月5日・6日と、陸海軍の航空部隊は、この敵船団に向け総力を挙げて体当り攻撃を掛けた。米側記録によると、1月5日は豪重巡「オーストラリア」・米護衛駆逐艦「スタフォード」が大破した他、護衛空母2隻・重巡1隻・水上機母艦1隻・駆逐艦2隻・歩兵揚陸艇1隻・曳船1隻が何れも損傷を受け、1月6日は、掃海駆逐艦「ロング」が沈没、戦艦「ニュー・メキシコ」「カリフォルニア」他、重巡3隻軽巡1隻駆逐艦3隻が何れも大破、他に、駆逐艦4隻・高速輸送船1隻・掃海駆逐艦1隻が損傷を受けて居る。

 それでも、1月6日、米軍は遂に、リンガエン湾への上陸作戦を開始。日本側に飛べる飛行機はもう殆ど残って居ない。翼を失った航空隊は、ピナツボ山麓に立て籠り、今度は陸戦隊として戦う事に為った。

 「我々搭乗員も急遽、陸戦隊を編成し、手榴弾の投擲訓練等陸上戦闘の準備に入りました。草色の第三種軍装に編上靴・ゲートル・拳銃二挺・・・戦死者の遺品の中から頂戴した日本刀を腰に差した、何ともお粗末な陸戦姿でした」

 と語るのは、当時18歳の飛行兵長(飛長)で、零戦搭乗員だった小貫貞雄(後一飛曹、戦後、杉田と改姓、工場経営1926-2019)である。

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 第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が、整列した特攻隊員を前に訓示する 小貫貞雄はこの中に居た

 小貫は、前年10月、第二二一海軍航空隊(二二一空)の一員としてフィリピンに送り込まれ、既に敵戦闘機との空戦を経験して居る。
 10月末、クラーク基地群(ルソン島中部、クラーク・フィールドに設けられた11の飛行場)のアンヘレス基地で搭乗員整列が掛けられ、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が直々に特攻志願者を募った際「一瞬、凍り着いたかの様なその場の雰囲気に耐え切れず、意に反して一歩前に出てしまった」小貫は、特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)に転属と為り、体当り出撃を待つ身だった。

 「特攻隊に編入され、藁半紙と鉛筆を渡されて、遺書を書けと言われたんですが、そんな急に気の利いた言葉なんて出て来ない。仕方無く〈大和男の子と生まれ来て 明日は男子の本懐一機一艦 先立つ不孝をお許しください〉と書いて、最後に〈天皇陛下万歳〉と付け加えた。
 『天皇陛下万歳』って云うのは便利な言葉で、最後にそう書いて置けば、何と無く軍人の遺書らしく恰好が付くんです。虚勢ですね。『顔で笑って心で泣いて』と云う言葉そのママの心境でしたよ。

 それが、今度は陸戦隊に為って玉砕する迄戦えと云う。どうせ死ぬのなら、ジャングルの中で腹を空かせたり、弾丸に当たって痛い思いをするより、飛行機でひと思いに死んだ方が楽だったかなとも思いましたが、乗る飛行機が無いのなら仕方が無い。陸上戦闘の怖さを知ら無い我々は、山に籠る準備をしながら、仲間と日本刀を振り回して『俺は宮本武蔵だ』等と、田舎芝居の役者気取りでした。
 当時、私は飛行兵長(兵の階級)でしたが、他所の部隊の兵隊にナメられ無い様にと、二階級上の一等飛行兵曹(下士官)の階級章を軍服の肘に縫い着けて居ても、誰にも怒られ無かったですね。軍紀も緩んでたんでしょう」

 
 もう一人、前年12月に二二一空の一員としてフィリピンに着任した19歳の零戦搭乗員・長田利平飛行兵長(後一飛曹、戦後神奈川県警刑事1925-2019)は、特攻志願に応じ無いママ、幾度か敵機と空戦を交え、ロッキードP-38戦闘機を1機撃墜したものの、風土病のアメーバ赤痢に罹り、アンヘレス基地近くの医務室に入院中に米軍の上陸を迎えた。

 「入院と云っても病院らしい設備は無く、現地人から接収した洋館風の建物の板張りの部屋にアンペラ(むしろ)を敷いただけの病室に、病名を問わず多くの患者が雑魚寝をして居る様な有様です。赤痢患者に投薬は無く、絶食させられて、脱水症状を防ぐ為お湯だけ飲んで居る様な入院生活でした。
 1月6日、敵が同じルソン島のリンガエン湾に上陸するらしい、海軍は陸戦用意が発令され、8日迄にピナツボ山麓に入るらしいと云う噂が病室内で流れた。私は、病人として医療部隊に付いて行くより、戦友達と一緒に行動したいと思い、病室を脱走して隊に戻ったんです」


 山籠もりの準備は着々と進められて居た。陸海軍が協議した結果、ルソン島の防衛線を17の区域に分け、海軍はクラーク防衛部隊としてピナツボ山麓の「十一戦区」から「十七戦区」迄7つの地域に複郭陣地を構築する事が定められた。
 航空隊や対空砲台、設営隊、フィリピン近海で撃沈された艦艇の乗組員等、15.000名を超える雑多な将兵が全て陸戦隊と為ってこの中に組み入れられ、糧食や弾薬を山中に運ぶ作業は夜を徹して行なわれた。

 只、飛行機の搭乗員は、養成に時間が掛かる上に飛行適性があって誰でも為れる訳では無い。翼を失った搭乗員はクラーク基地群に400名以上、ルソン島の各基地を合わせれば500名以上が残って居る。
 大西瀧治郎中将は、飛行機さえ有れば再び戦力に為り得る搭乗員を陸上戦闘で失うのは惜しいと考え、フィリピンから脱出させる事を決めた。だが、ルソン島中部に敵が上陸した今、台湾からの輸送機がクラーク迄飛ぶのは自殺行為に等しい。そこで司令部は、搭乗員達を陸路、ルソン島北部のツゲガラオ基地に後退させ、そこから輸送機で台湾へ送る事を決めた。

 ゲリラと戦いながら 600kmを徒歩で行軍
 
 病室を脱走した長田が隊に戻ったのは、正に搭乗員の脱出が決まった時だった。二二一空は残存した僅かな零戦に搭乗員を二人ずつ乗せ、乗り切れ無い者は陸路ツゲガラオに向かうのだと云う。零戦は操縦席の後方に人が一人乗れる位の空間があり、座席を前に倒して潜り込む事が出来る。

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 長田利平飛行兵長(後一飛曹)病み上がりにも関わらず、600キロを徒歩で行軍し、命からがらフィリピンを脱出した(右写真撮影 神立尚紀)

 「病院を出て来て好かったと思いました。司令・八木勝利中佐が、お前は病人だから零戦に乗って行けと云う。司令の恩情に感謝しながら、私は、同期生の愛知正繁飛長が操縦する零戦の胴体に乗り込みました。処が、離陸するとエンジンの調子が悪く、基地に引き返して修理を待って居る間に、見知らぬ大尉が行き成り現れて『アノ飛行機には俺が乗って行く。お前は歩け』と、取り上げられてしまったんです。それで泣く泣く、行軍組に加わる事に為りました」

 1月8日、ルソン島の各基地から、司令部の有るバンバン基地に集められた搭乗員達には、一週間分の食糧として、靴下に詰めた米と缶詰が渡され、ツゲガラオ基地へ移動、そこから台湾行きの輸送機に乗る事が命じられた。
 バンバンからツゲガラオ迄は最短距離で約450キロ。米軍上陸部隊を避けての山中の行軍では、歩く距離は600キロ(ホボ東京〜神戸間と同じ)には為る。使えるトラックは5〜6台しか無い。乗れる者はこれに乗って、ピストン輸送をする計画だったが、悪路でトラックの故障が相次ぎ、結局、殆どの搭乗員は徒歩での移動を余儀無くされた。

 脱出する搭乗員達は隊列を組んでバンバンを出発したが、敵に制空権を奪われ、日中は危なくて行軍出来ないので、歩くのは専ら夜間である。だが、当時、フィリピンの治安は非常に悪く、不時着した日本の搭乗員が住民に惨殺されたり、日本軍将校を乗せた車が、親米派の武装ゲリラに襲撃される等の事件がシバシバ起きて居た。長田の回想・・・

 「途中の小さな町で、駐屯して居る陸軍の世話に為って泊まろうとして居る時、突然、銃声が聞こえました、ゲリラの襲撃です。頭上を弾丸の飛び去るヒュッ、ヒュッ、と云う音がして、薄暮の彼方にゲリラの動く姿と応戦する陸軍部隊の姿が見えた。陸軍の中隊長らしい将校が道路に仁王立ちして、左右に展開させた部下達を指揮して居る。勇敢だナァと思いましたね。
 私は持って居た十四年式拳銃に弾丸を装填して、蛸壺(タコツボ・一人用の塹壕)で身構えましたが、素人の出る幕では有りません。陸軍は流石に手慣れた様子で10分程でゲリラを撃退しました。ヤレヤレ、と拳銃の弾丸を抜いて蛸壺から出たら、何だか周囲が騒がしい。今のゲリラ騒ぎで搭乗員が拳銃を暴発し、弾丸が別の搭乗員の背中に命中したと云うんです」

 
 暴発したのは杉山善鴻飛長、撃たれたのは加藤光郎飛長・・・二人共長田の予科練同期生だった。

 「痛みと苦痛で『痛いよう、痛いよう』『お母さん、痛いよう』と叫びながら暴れる加藤を押さえ着けながら、只『頑張れ』としか言葉が出無かった。ヤガテ大人しく為り、明け方に息を引きとりました。彼の両目の目尻からは涙が流れて居ました・・・」
 
 或る時は空襲に怯え乍ら平坦な水田地帯を歩き、又或る時は急峻な山道をトラックで走り乍ら、長田が要約ツゲガラオに到着したのは1月25日。実に半月以上に及ぶ行軍だった。

 到着した搭乗員を待って居た「非情な命令」

 激戦地ラバウルや硫黄島で戦い、日本海軍切っての歴戦の零戦搭乗員だった26歳の角田和男少尉(後中尉 戦後は開拓農家1918-2013)も、徒歩で行軍した搭乗員のうちの一人である。

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 角田はフィリピン上空で零戦を空輸中、乗機のエンジンが故障、マニラのニコルス基地に部下を引き連れ4機で着陸した処「この中から一名を選抜して特攻隊員として残せ」と命じられた。部下を差し出す位なら自分が残るしか無いと特攻を志願、以来、特攻隊の直掩機(爆弾を搭載した爆装機を掩護し、戦果を確認する)として、仲間の体当り攻撃を見届ける辛い出撃を重ねて居る。

 角田が行軍の為バンバンを出発する時、局地戦闘機「紫電」で編成された第三四一海軍航空隊司令・舟木忠夫中佐が山籠もりの陣地からワザワザ見送りに来た。舟木は半年前、角田が二五二空に属し硫黄島で戦った時の司令である。三四一空は飛行機の殆どを失い、舟木は陸戦隊指揮官の一人としてこの地に残る事に為ったのだ。

 「航空隊司令は、搭乗員しか腹心の部下が居らず、搭乗員を帰して一人残られるのが気の毒でした。私は、予科練で陸戦の小隊長としての訓練は受けて居るし、部下の搭乗員が10人近く居たから、舟木中佐と此処に残って指揮小隊として戦うべきか迷いました。今でも、アノ時残って挙げれば好かったナアと後悔して居ます」
 
 一緒に行軍した搭乗員の中に、角田が練習生の頃から実戦部隊に出る迄、同じ航空隊で共に訓練を受けた岡部健二飛曹長が居る。開戦以来、空母「翔鶴」零戦隊の一員として数々の激戦を潜り抜けて来た29歳の岡部は「特攻反対」を公言して憚(はばか)ら無かった。
 岡部は、大きな布袋に一杯の荷物を背負い、それを宿営の度に広げて皆に見せビラかす。荷物の中身は、シンガポールで買ったと云う女性用のハイヒール、香水、化粧品等。全て日本で待つ妻への土産だった。

 「俺は、死な無い。かあちゃんにコレを持って帰って遣るんだ」

 岡部は言い、角田にも「角(つの)さん、特攻ナンか辞めちゃい為さいよ。ブツカッたら死ぬんだよ。戦闘機乗りは死んだら負けだよ」と、特攻を思い留まらせ様とした。岡部の気持ちは有り難いが、一度特攻隊に組み入れられた以上、角田が自分の一存でソコから抜ける事は出来ない。角田が、約200名の搭乗員と共にツゲガラオに着いたのは、長田と同じ1月25日の事である。

 「搭乗員は普段歩き慣れ無い上に、飛行服・飛行靴姿で歩くのは重くて大変でした。一週間程で食糧も無く為り、後は所々に駐屯して居る陸軍のご厄介に為りました。陸軍さんは自分達が食うものも乏しいのに、苦労して行軍して居る戦友を見ると必ず助けて呉れる。短い区間でしたがトラックにも乗せて呉れましたしね。随分世話に為りました」
 
 処が、ヤッとの思いでツゲガラオ基地に辿り着いた搭乗員達に下されたのは『零戦が4機整備されて居るので、直ちに士官1名下士官兵3名の特攻隊員を選出する様に』 と云う非情な命令だった。基地には他に、10数名の飛行服姿が見えるが、彼等は志願する気は無いらしく、特攻隊員が着くのを待って居た様だった。
 此処で選んだ4名は休憩の暇も無く特攻に出すが、残りの者は今夜、迎えの飛行機で台湾に送ると云う。角田は、甚だ割り切れ無いものを感じた。結局、一緒に行軍して来た予備学生十三期出身(長崎師範学校卒)の住野英信中尉「どうせ早いか遅いかの違いですから、私が遣ります」と志願して指揮官に決まった。

 住野中尉以下の特攻隊は、第二十七金剛隊と命名され、直ちに発進した。だが、長く露天に置かれたママの零戦は十分な整備がされて居なかったらしく、住野機は辛うじて離陸したものの2機は故障で不時着し、住野機だけが直掩機・村上忠広中尉機と2機でリンガエン湾へと向かった。
 敵艦が見えた途端、住野機はマッシグラに突入して行く。村上機もアトを追う。だが、途中、敵戦闘機の襲撃を受け、そこで村上は住野機を見失った。米軍記録によると、この日の特攻機による損害は無かった。これが、フィリピンから出撃した最後の特攻機であった。

 昭和19年10月からの約3ヵ月の間に、海軍の出した特攻隊の未帰還機は333機(陸軍は202機)に及ぶ。一方、昭和20年1月9日から2月10日迄の間に台湾に脱出出来た搭乗員は、約525人と言われて居る。

 否応無しに全員が特攻隊員に

 しかし、要約台湾へ脱出した角田や長田に小貫達搭乗員を待って居たのは、又しても特攻だった。角田達が、輸送機で台湾の高雄基地に到着したのは1月26日早朝のこと。これで暫らくは休めると誰もが思ったが、彼等には、翌日から交代で特攻待機に入れとの命令が言い渡される
 台湾では、最早特攻隊員の志願募集は行なわれず、フィリピンから帰された戦闘機乗りは、今まで特攻隊員で無かった者も含めホボ全員が、否応無しに特攻隊に為った。

 角田は、フィリピンから帰って来た名も知らぬ予備士官の中尉が一人、飛行長・中島正中佐に、志願した覚えの無い特攻編成から抜けさせて呉れる様直訴し、怒った中島中佐に顔が紫色に腫れ上がる程殴られても屈せず、後に内地に転勤して行ったのを記憶して居る。
 昭和20年2月5日付で、フィリピンから台湾へ引き上げた特攻隊員を中心に、新たな特攻専門部隊として第二〇五海軍航空隊(二〇五空)が編成された。二〇五空の特攻隊は「大義隊」と命名され、103名の搭乗員がソコに組み入れられた。これ迄一度も特攻を志願した事の無い長田利平も、その一人である。

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 「戦闘機乗りとして一人前に為りたい一心で猛訓練に耐えた私に取って、敵機と空戦を交える事も無いママ、爆弾を抱いて敵艦に突っ込むと云うのはいかにも無念な事でした。空戦で、自分の技倆が劣って居て結果的に撃墜されるなら仕方が無い。
 でも、特攻は、任務を果たす事が即ち『死』です。待って居るのが同じ『死』であるにしても、ソレとコレとは全く別だと思い私は志願し無かった。それナノに、二〇五空が編成されると自動的に特攻隊員とされてしまったんです」
 

 長田と同様、フィリピンで特攻を志願し無かった19歳の零戦搭乗員・西川勇二飛曹(後上飛曹 戦後 岩倉と改姓1925-2019)は、昭和20年1月9日、ツゲガラオ基地を発進、米軍の上陸部隊が犇めくリンガエン湾上空でグラマンF6F戦闘機20機と空戦に為り、撃墜され落下傘降下した。
 そこには偶々敗走中の日本陸軍部隊が居て、岩倉は陸軍と共に2ヵ月半を掛け、必死の思いでツゲガラオに舞い戻る。だが、搭乗員の台湾への輸送作戦は既に終わって居て、自分の部隊はもう誰も残って居なかった。

 途方に暮れて居ると、3月28日、内地に飛ぶ飛行機便があると云う。それは、米軍に追われ、日本に亡命するフィリピン共和国のホセ・ラウレル大統領を救出に来る日本海軍の輸送部隊の第一〇〇一海軍航空隊の一式陸攻だった。
 恐らくコレがフィリピンを脱出出来る最後の機会である。陸攻が着陸すると、便乗を希望する者が周囲を取り囲んだ。中には、トランク一杯の札束を陸攻の搭乗員に見せて懇願する士官も居たと云う。だが、大統領一家4名を乗せると飛行機には幾らも空席が無い。

 ソコで、海軍の基地指揮官が西川に「台湾に二〇五空と云う、優秀者揃いの精鋭部隊がある。お前は搭乗員だから、この飛行機に乗ってその隊に行け」と命じた。陸攻は慌ただしく便乗者を乗せると、3月29日未明、ツゲガラオを離陸した。2時間半後に台湾・高雄基地に着陸、ソコで西川は降ろされる。「ヤレヤレ、助かった。これからは精鋭部隊の一員だ」と思ったが、これから行く「優秀者揃い」の二〇五空が特攻専門部隊だとは知る由も無い。西川も此処で、否応無しに特攻隊に編入される事に為った。

 ラウレル大統領は日本の敗戦時、滞在先の奈良ホテルで、占領軍に戦犯容疑で逮捕されるが、後に恩赦を受け、戦後もフィリピン上院議員を務めた。米軍が沖縄に侵攻すると、二〇五空特攻「大義隊」は、4月1日を皮切りに、台湾の各基地や石垣島・宮古島を拠点に沖縄沖の敵機動部隊に向け、特攻出撃を繰り返す事と為る。

 6月22日、沖縄が事実上陥落する迄の3ヵ月足らずの間に、小貫貞雄は5回・長田利平は4回、爆装機として出撃し、角田和男は直掩機として4回の出撃を重ねた。特攻隊は、早朝の索敵機による「敵発見」の報告を受けて出撃するが、数時間後の推定地点に敵艦隊が居るとは限らず、発見出来ずに帰投する事の方が多かったのだ。大義隊の特攻戦死者は35名だった。

 「私は『決戦』と云う言葉が大嫌いでした」
 
 一方、ピナツボ山麓の複郭陣地に立て籠もったクラーク防衛海軍部隊約15.400名と言われる。彼等は、慣れ無い陸上戦闘で、戦車を前面に立てた米軍の圧倒的な火力を前に絶望的な戦いを続け、その殆どが戦死、生還者は約450名に過ぎない。

 複郭陣地は、左翼(北)から、十三戦区、十四戦区、十五戦区が順に制圧され(当初構築された十一戦区、十二戦区は指揮官が転出し、何れも解隊されて居る)総指揮官・杉本丑衛少将は、昭和20年4月中旬、クラーク防衛部隊の編成を解くとの命令を発した。残る部隊は、夫々の指揮官の下、山中に隠れ自活の道を講じなおもゲリラ戦を続けよと云うのである。
 だが、米軍の火力から逃れても、山中での自活は、飢餓と病気との苦しい戦いの連続だった。杉本少将は6月12日「俺の肉を食って生き延びよ」と、部下に言い残して自決した。

 角田和男のバンバンからの出発を見送りに来た三四一空司令・舟木忠夫中佐は、極限の状況下、何かの事で部下の恨みを買ったらしく、7月10日、マンゴーの実を捕ろうと木に登った処を従兵に火を点けられ、燃える草原の上に落ちて非業の最期を遂げた。
 角田が「残って挙げれば好かった」と後悔するのは、自分が付いて居れば舟木にコンな死に方はさせ無かったと云う自責の思いも含まれて居たのだ。角田は戦後、平成25年に亡く為る直前まで、舟木の命日に近い7月15日には欠かさず、不自由に為った体を押して靖国神社に詣で、戦友達の霊を弔い続けた。

 フィリピンから脱出した搭乗員達は、運好く内地へ転勤出来た者も含め、半数近くが、終戦迄の僅か半年の間に命を落とした。彼等に取って、フィリピンからの脱出行は、続く沖縄戦や本土防空戦の序章に過ぎ無かったのだ。止め時を見失った戦争は、末期に為って更に多くの犠牲を生み、軍人ばかりで無く数多の民間人をも巻き添えにした。

 思えば、昭和19(1944)年6月、米軍のサイパン、テニアン上陸を迎え撃ち惨敗したマリアナ沖海戦、10月、レイテ島に来襲した米軍を撃滅しようとして返り討ちに遭った比島沖海戦と、海軍上層部は事有る毎に「決戦」を呼号して来た。

 「私は『決戦』と云う言葉が大嫌いでした。決戦とは、その戦いで全てを決すると云う事なのに、決戦に負けたら又決戦だと決戦の大安売りです。その為に、どれ程多くの部下を失って来た事か。長期戦に為ればソモソモ勝て無い戦争であったことは判って居た筈。現場の将兵は決死の思いで戦って居るのだから、上層部も命懸けで戦争を終わらせて欲しかった・・・」
 
 とは、重慶上空の零戦のデビュー戦、そして真珠湾攻撃に始まって、大戦中のホボ全期間を零戦隊を指揮して戦い、部下からは一機の特攻機も出さ中った進藤三郎少佐(1911-2000)が、筆者に残した言葉である。

 75年前、フィリピンのジャングルを行軍した若者達も、今やその殆どが鬼籍に入った。壮絶な体験も、苦労した思い出も、重要な教訓も、当事者の死と共に大抵は無に帰してしまう。彼等の記憶の断片を拾い集め、時には戦時中に思いを馳せて見る事も「平和」を見詰め直す上で大切な事ではないだろうか。


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         神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家   以上


 【管理人のひとこと】

 世の中の全ての矛盾・不合理・不公正・悪・・・が集まったのが、所謂「戦争」と云う政府が主導する社会現象が巻き起こす悲劇なのでしよう。アラユル非人間性の塊が「我が国を守る」との美名に隠された戦争の本質でもあるのです。実際に銃を執り戦地に向かわされた多くの国民は、自分の悲劇を嘆き不幸に打ちのめされても「お国の為」の一言で「仕方ない」と犠牲に甘んじたのでした。
 本当に300万人以上の犠牲を出さ無ければ、日本は生き残れなかったのか・・・開戦を決意した為政者に取って「国民の犠牲」はどの程度の比重だったのか。当時の多くの国民は英米に宣戦布告した政府に拍手喝采したのですが・・・それがその時の国民感情の大半だったとしても、その様な世相に持って行ったのが残念です。
 アノまま勝ち続け英米が日本に降伏したら、日本は一体どの様な国へと為った事でしょうか。アノ戦争で勝た無くて好かった・・・のかも知れません。植民地支配の国際状況は変わらず、武力による植民地支配が半世紀は続く事にも為った可能性もあります。万が一戦争の目的の「植民地解放」の美名が真実であったら、どうだったでしょうか。しかし、勝利した日本は、朝鮮・台湾・満州の植民地化は辞めず、次々と他を物色し新たな利権を目指し戦争が続く・・・この様な仮定も成り立ちます。何れにしろ、歴史には仮定は許されず冷酷な事実の積み上げでしか残りません。
 戦争の話はもう嫌だ・・・そうなのですが、著者の指摘する様に・・・75年前、フィリピンのジャングルを行軍した若者達も今やその殆どが鬼籍に入った。壮絶な体験も、苦労した思い出も重要な教訓も、当事者の死と共に大抵は無に帰してしまう。彼等の記憶の断片を拾い集め、時には戦時中に思いを馳せて見る事も「平和」を見詰め直す上で大切な事ではないだろうか・・・「戦争の現実」を知る事により「戦争の無い世の中」の有り難さ貴重な事を理解出来るのですから・・・








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※2019年1月末時点。ファイナンス・マグネイト社調べ(2017年1月口座数調査報告書)
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35DCS4+XCANM+1WP2+6C9LF


   全┃20┃通┃貨┃ペ┃ア┃業┃界┃最┃狭┃水┃準┃!┃!┃
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   USD/JPY 原則固定0.3銭 ◆ EUR/JPY 原則固定0.6銭
   GBP/JPY 原則固定1.1銭 ◆ AUD/JPY 原則固定0.7銭








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