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2016年04月16日

第89回 金縁眼鏡






文●ツルシカズヒコ



 一九一三年(大正二年)六月三十日の夕方、辻の家を訪れた荘太に「私が辻です」と辻が名乗ったが、荘太はそれが野枝と共棲している男だとすぐには気づかなかった。

 荘太が尋ねた。

「伊藤さんおいでですか?」

「いません、どなたです?」

 辻がなんとも言えない表情をしているのを見て、荘太はハッとなり、名乗った。

「木村です」

「さ、どうぞお上がり下さい」
 
 部屋に上がった荘太が、すぐに尋ねた。

「野枝さんはどちらへお出でになりました?」

「わかりません」

「いつごろお出かけになりました?」

「今日、私は出かけていまして、その留守に行ったのです」

 荘太は野枝が自分のところに行ったに違いないと思い、気が急いた。

「あ、そうですか。一昨日、野枝さんから会いたいという手紙いただいたので、昨日と今日とお待ちするという返事を差し上げました。お出でにならないものですから、 それで電報を打ったのです」

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 気が急いている荘太に、辻が意外なことを言った。

「あなたの弟の荘八くんですが、僕が小学校の教師をしているころ、彼に英語の初歩を家庭教師したことがあるんです。妙なご縁ですな……」(「牽引」p38)

 荘太は野枝に下宿で待っていてもらうよう、女中に言いおいてきたことを伝えすぐに帰ろうとした。

 荘太は無意識のうちに自分は辻を圧倒しているのを感じ、対等の力で迫って来ない人に敬意を払えないと思った。

「それじゃあ」

 と言って荘太が別れかけると、

「ちょっと」

 と引き止めた辻は、机の上にあった罫紙に書きかけのだいぶ分量がある書きものを手に取り、

「僕の気持ちを今、書いているものなんです。これを読んでみて下さい」

 と言って荘太に渡した。

 荘太はザッと読んだ。

 辻の立場についての心情を綴ったものだったが、それもこれも野枝の心の動き方ひとつにかかっていると荘太は思った。

 辻は外見で人を判断しない男だったが、金縁の眼鏡をかけて髪をきれいに分けたりしている、荘太のなんとなくなまめかしいところに少なからず反感を持った。





 読み終えた荘太は、

「お互いにアンダアスタンディングがゆき違うと困りますから」

 といふ辻の言葉をほとんど聞き流して戸外へ出た。

 荘太は巣鴨橋まで馳けた。

 電車の中で荘太は辻の苦痛を想像したが、自分と野枝の牽引と結合は自然だから仕方がないと思うほかなかった。

 神保町から青山行きに乗り、半蔵門で降りると、新宿行きの電車はなかなかやって来ない。

 荘太はそこから三、四丁、下宿まで馳け出した。

 息せき切って着いた荘太は、入口のガラス戸越しに中を覗いた。

 土間には見覚えのある下駄が脱ぎ棄ててあった。

 荘太が階段を駆け上がり急いで部屋に入ると、野枝はムンクの『アウグスト・ストリンドベリ』がかけてある入口の壁際に座っていた。

 息が弾んでなかなか言葉にならない。

 荘太は野枝に軽く頭を下げた。

 野枝も頭を下げたが、どう挨拶をしていいのかまごついた。





 荘太は野枝の真っ白な血の気のない顔を見て驚き、恋をしている女の顔ではないと思った。

「たいへんお待ちになったでしょう」

「ええ、そんなんでもありませんでした。出がけに社に寄りますと人が来たもんですから、遅くなって。それから処がわからなかったもんですから、たいへんに探しました」

「処? 僕は手紙にちゃんと図を書いておいたでしょう」

「私、その手紙を拝見しません」

 と言って野枝は首を傾げた。

 荘太は不快を感じた。

 番地を書かずに出した手紙さえ届いたのに、ちゃんと書いたものが届かぬはずはないと思った。

 荘太の頭にとっさに浮かんだのは、会ってきたばかりの小柄な、若いのか年を取っているのかわからないような顔をして、角帯をちょこんと締めていたあの男の顔だった。

 荘太はその手紙に書いたことを野枝に話してから、こう言った。

「しかし、あなたの手に渡らなかったのはへんですね」

「……」





 辻は野枝が夕方までには帰るだろうと思っていた。

 恒と美津を迎えに行くことになっていたからだ。

 日が暮れても野枝は帰って来なかった。

 野枝が会いたいという手紙を荘太に書いたということを聞いて、辻は自分に黙って書いた手紙があるのだろうと思い、たまらない憤りを覚えずにはいられなかった。

 電報を打つほど野枝に至急に会いたいという荘太の態度にも、辻は了解できないものがあった。

 辻の頭はメチヤクチヤになり、公平な判断なぞできなくなってきた。

 恒が辻に母を迎えに一緒に行ってくれと言い始めた。

「ひとりで行け!」

 と辻が怒鳴ったが、恒はしきりに一緒に行きたがった。

 今夜また行かなかったら、母はさぞ心細く情けないだろうと考へると、辻は傍にピストルでもあれば頭を打ち貫きたいくらいだった。

 辻は美津を迎えに行って美津から色々な泣きごとを聞かされても、頭がそれよりも痛切なことで一杯になっていたので、黙って聞いていた。

 辻はただもう母が可哀そうだった。

 辻たちが帰宅しても、野枝は帰宅していなかった。

 辻は絶望のドン底に沈んでしまった。

 なんにもする気が起らない。

 荘太に手紙を書く元気もなくなった。

 しかし、黙って考えているといよいよいても立つてもいられない気持ちになり、仕方なしにまた仕事を始めた。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:13| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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