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2016年05月16日

第180回 チリンチリン






文●ツルシカズヒコ




 大杉が神近の下宿を訪れたこの日、神近は不意に原稿料が手に入ったので、夕方、東京日日新聞社を出ると銀座に出かけた。

 神近は木村屋に行って、 パン類を一円余り買い礼子に送った。

 礼子は神近と高木信威(たかぎ・のぶたけ)との間にできた女の子で、神近の郷里(長崎県)の姉のところに里子に出されていた。

 高木が妻子持ちの身だったからである。

 なお、礼子は一九一七(大正六)年に夭折している。

 神近と高木が恋愛関係になったのは、神近が青森県立弘前高等女学校を辞めて上京したころだったという。





 ……教師をやめて上京してゐる中に、やまと新聞の主筆をしてゐた、高木信威と恋愛してその子を宿してしまった。

 そのために彼女はしばらく故里に帰つてゐたが、凡てを清算して、出直して来たのである。


(宮嶋資夫「日本自由恋愛史の一頁〈遺稿〉 大杉栄をめぐる三人の女性」/『文学界』一九五一年五月号)





 神近は木村屋で自分のためにも食パンを一斤買い、そして別の店で紅茶やバターのたぐいを買い、そのほかに小さな器具を大杉のために買った。

 二月の寒い夜だった。

 深い木立の中の離れ家の下宿に帰宅した神近は、書斎の小さな机の前に座り、手垢のついた赤い表紙の薄い書物を読んでいた。

 大家一家が住む母屋から聞こえていた子供たちの話し声も消え、宵が静かに冷たく更けていた。

 締め切った書斎に置かれた火鉢の山盛りの炭が勢いよく燃え、銅壷(どうこ)と鉄瓶の湯を懸命に煮立たせていた。

 狂乱したように騒ぎ立てる鉄瓶の音と、すがすがしく響く時計の音だけが、離れと母屋をつなぐ長い廊下に響いていた。

 神近はふと礼子のことを思った。





『小包が着くたびに、手を拍(う)つて踊り廻るのであります。そして「R子さま、誰から来ましたとな」と尋ねると「おばんから」と云はれます。時々見える伯母様のお土産とばかり考へて居られます』

 数日前、かうした手紙を私は受取つてゐた。

 二年余り前の苦しい思ひ出が、今は心置なく追憶に呼び迎へられた。


(『引かれものの唄』・法木書店・一九一七年十月/『叢書「青鞜」の女たち 第8巻 引かれものの唄』・不二出版・一九八六年二月復刻版/『神近市子著作集 第一巻』・日本図書センター・二〇〇八年)





 チリンチリン。

 木戸の潜(くぐ)り戸を開けるけたたましい音が夜の沈黙を破った。

 なぜか嘆息が唇から漏れた神近は、赤い表紙の薄い書物を机の上に置いて閉じた。

 
 そしてそれと共に、幸福と多くの夢と若さとが、永遠に私の前に閉ぢられる音を聞いた。

 それは、何と云ふ恐しい破滅と破壊とであつたゞらう。

 その夜、お前はお前が新しく落ちやうとしてゐる恋の事を私に告げた。

 私は悪謔(わざ※ママ/「ふざ」であろう)けながらそれを聞いた。

 静かに深くそれを聞くことは、私には余りに堪へられないことであつたのであらう。

 お前はその晩髪を刈つて来てゐた。

 刈り立ての頭は、前の髪が短かく両方に分れて、襟足の引つつた揉み上げのつまつた、借物のやうな印象をお前に与へるのであつたが、その時もさうであつた。

『けれどあなたに対する私の愛には変りはない、お互いに尊敬し合ひ扶(たす)け合つて行つてくれなくちや』

 何かの思ひ出に、今にも唇が綻びるやうとするのを堪へて、かう云ふのが大変空虚に響いた。

 出来の悪い、解りの鈍い私の頭は、又不消化に出逢つて了つた。

『何を一体尊敬するのだらう、何故尊敬するのだらう』

 ほんとに、私は何を尊敬するのか知らなかつた。


(同上)

●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 13:12| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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